生きることは耐えること(8)


「そんじゃ、そろそろそれどうにかすっか」
「それ、と言いますと」
「お前の傷だよ」
「傷。……あ」
 傷、と言われて思い出した。そういえば、まだ応急手当てをしていない。いつもなら家に帰ったらすぐやっていることだったが、今日はガンダルヴァさんに抱えられていたし、すぐに説教をされてしまったから忘れていた。もう、痛みにも慣れて、それを感じることもなかったからだろう。
 別にもう今更、と思わないでもなかったが、消毒はしておかないと後々傷口が酷いことになってしまう。過去にそれで痛い思いもしたのだから、これをサボるわけにはいかなかった。もう傷の上塗りをされることはないが、今度は秩序の騎空団の人達に変な心配を掛けることになる。それはそれで申し訳ない。
「そう、でした。忘れてました」
「普通忘れねぇだろ……、ったく」
 呆れたように大きく溜息を吐かれた。まぁ、たしかに普通の人であれば忘れることはないのだろう。あれだけの暴行を受けていたのなら、全身が痛むはずだ。私だって、少し前まで痛かった。
 けれど、ガンダルヴァさんと言葉を重ねている内に、傷や痛みのことよりももっと別のことを考えなくてはならなかったから、すっかり忘れられてしまったのだ。痛みには、慣れていたし。
 そんなことをガンダルヴァさんが知っているはずもないから、こうして怒ってくれているのだろう。それは、今までにない経験だったから、ほんの少しだけ、嬉しかった。
「おい、手当てできるもんはあんのか。包帯とか、そういうもんだ」
「あ、えっと」
 ごそごそと身動ぎする。大丈夫、体は何とか動かせそうだ。
 救急箱は私にとっては必需品だった。ガーゼも包帯も消毒液も絆創膏も、傷の手当てに使えそうなものは一通り揃っているし、中身は切らさないようにしていた。毎日毎日、沢山の傷を作ってしまうから。そして、使用頻度の高いそれはすぐに使えるような目につく場所に置いてある。それを取ってこようと、ベッドから下りようと片足をぺたりと地面につけ――
「動くなっ!!」
 その瞬間、頭上から大声で制止を叫ばれる。思ったよりも大きな怒鳴り声に、大袈裟なくらい肩が跳ねて、――震えた。
 その怒鳴り声が、いろんなものに重なって。怖くなった。伸ばされる手は、私を、どうしようというのだろう。
 見つめて、けれど言葉が出ない。
「あぁもう、何だってお前は……」
 一度伸ばされた手を引っ込めて、ガンダルヴァさんの腕がもう一度伸びてきた。それは私の少し前で止まる。
「危害は加えねぇ。絶対に、だ」
「……はい」
「だからそう震えんな。オレ様は、お前を殴らねぇよ。だから、逃げんなよ」
 しっかりと頷いてから、ガンダルヴァさんの手がもう一度伸びてきた。背中をゆっくりと撫でたその大きな手は、一点でしっかりと私の背を支えた後、もう片方の手がさっと両脚の下を通った。すぐにふわりと視界が浮いて、さっきよりもずっと近くでガンダルヴァさんを視界に収めることになる。
「……ん、落ち着いたか」
「えっと……多分……」
 少なくとも震えてはないのだが、こう、何だろう。異性を近くで見ることがなかったから、今度は緊張してしまう。先程は痛みで意識もあまりはっきりとしていなかったから、この距離に何も思わなかったけど、今度は違う。地面に両足を着いて顔を近くで見るならまだ逃げることもできるが、この状態は違う。彼の意のままに距離感が変わるこれは、特別なものだとすぐに分かってしまうし、それにこれは普通は気を許した相手でないとやらないものではなかろうか。それを意識した、途端。顔を、背けたくなった。もちろん、許されはしないけれど。
「何だ、どうした」
「いえ、何でも……」
 そんな素直に、あなたの顔が見ていられなくて、などと言えるはずがなかった。視線を彷徨わせることくらいは、許してほしい。それが無理なら、下ろしてほしい。いや、動くなと言われてしまったのだから、下ろされることはないだろうが。
「まぁいいけどよ。で、どこにあんだ」
「あ、えっと……あっちです」
 ゆっくりと腕を上げて、指で一つの棚を指した。そう広くはない部屋だったから、ガンダルヴァさんの大きな体はあっという間にそこまでの距離を詰めてしまった。棚の前に立ってもらって、いつも使っている救急箱を手に取って、両腕でしっかりと抱えると、またベッドへと下ろされた。さすがに横たわったままでは手当てができないので、腰掛ける形で体を落ち着けた後、利き手側の横に救急箱を置いてそれを開いた。
 まずは消毒液とガーゼを取り出す。傷口に消毒液を垂らして、ガーゼでそっと押さえるようにして丁寧に傷口を拭っていく。別のガーゼを傷口に当てて、医療用テープで固定する。それを、腕、脚、お腹と見えるところは全てやっていく。
 何年も自分で傷の手当てをしているから、消毒液を付けた時の鋭い痛みも、襲い来る鈍い痛みも、もう慣れているはずなのに、その痛みに耐えることはできなくてつい険しい表情を作ってしまう。痛い。やっぱり、この痛みだけは、慣れられそうにない。仕方がないので、手早く終わらせることで少しでも痛みから逃れるために、手を速めた。
 体にできている傷はほとんどが擦り傷と打撲だ。内出血を起こして、元の肌の色が分からなくなるくらいに全身紫色になっていることも多いが、今日はあまり多くない気がする。代わりに少し、切り傷が多いか。本来ならば内出血になっている場所は冷やさなければならないが、残念ながらそれができるだけの体力は残っていなかった。
 仕方がないので、血が出ているところだけ処置を施していった。
 繰り返し行ってきたせいで染みついてしまった応急手当てを淡々と行っていると、目の前から、ほぅ、と感嘆の声が降ってきた。
 包帯を巻く手を止めずに視線だけをそちらへと向ければ、顎に手を当てたガンダルヴァさんが感心したように私を見下ろしていた。
「上手いな。オレ様より綺麗で速いんじゃねぇか」
「……他の方がされているところは見たことがないので、分かりません」
「医療班に放り込んでも問題ない腕はあるぞ。ま、そっちにやるつもりはねぇけどな」
 医療班、というのは名前の通り怪我や病気の治療を得意としている集団のことだろう。となれば、当然私よりも知識も経験もあるはずだが、その人達と同等の技術があるとは信じ難い。もちろん、その人達が実際に治療をしている現場を見たことがないからこそ言えることなのかもしれないが。
 ……あ、でも。あの主任さんは、医療班、なのかな。
 医務室で「主任」と呼ばれていた女性。彼女は、紛れもなく医療班の人だろう。その手際を思い出せば、驚くほど鮮やかだった。何もかも、綺麗だった。私みたいに絆創膏を皺になることなく貼っていたはずだし、何より、一つひとつの動作が速かった。そんな人と同等だなどと、到底信じることができない。
「ずっと、やってきたことだからできるだけなので。これ以外は、できないですよ」
「……あぁ、ずっと一人でそうやって手当てしてたのか」
「はい」
 何かを考えこむガンダルヴァさんを横目に、私は使った道具を救急箱の中に戻していく。これで、一応できる範囲は全て終わりだ。手の届かないところはもうどうしようもない。これからは暴行を受けることもないだろうし、これ以上酷くなることもないからいいだろう。きっと、その内痛みは引いていくはずだ。
「メイリエ。それ貸せ」
「……はぁ」
 蓋を閉じる前に唐突に掛けられた言葉に頷き、救急箱をガンダルヴァさんに差し出した。
「手当てに慣れてるってのはいいことだ。お前にとっちゃ嫌な慣れかもしれねぇが、何にでも使えることだからな、役には立つ」
「それは……そう、ですね」
 例えば包丁で指を切った時もすぐに止血することができるし、大きい怪我をしたとしても、裂傷などの出血であれば、今ある知識の少しの応用で対処することはできる。ガンダルヴァさんの言う通り、それは役に立つことだろう。
 暴行を受けなければ決して身につくことのなかった技術ではある。どうしてこんな目に、と思ったこともあった。でも、あの暴行のせいで身についてしまったことが少しでも役に立つのなら、この街の住民にも少しは感謝することができるのかもしれない。これから生きていくところで少しは役に立つことを嫌でも身につかせてくれてありがとう、という皮肉にも似た感謝だ。
「とはいえ、一人じゃやれるとこにも限界があるだろ」
「えぇ、まぁ」
「ってわけで、だ。おい、背中見せてみろ」
 要求は、最も触れてほしくないところであった。一度も、自分で確認したことのない場所。けれど、一番酷いことになっているであろう場所でもある。鏡を見ても確認できる限度があるから、そこがどうなっているのかは、私にも分からない。でも、見せちゃいけないことだけは分かる。きっと、まともな状態なんかではない。
「いえ……ガンダルヴァさんの手を、煩わせるわけには……」
 じりじりと距離を取ろうとしても、ベッドに腰掛けている状態では限度がある。そもそも、目の前にガンダルヴァさんがいるのだ。逃げようがない。
 私のその些細な逃走に気付いたのか、ガンダルヴァさんは眉を顰めた後、私の腕を柔らかく掴んだ。
「いいから見せてみろ。オレ様はお前の保護者でもあるんだぞ?」
「それは……」
 それを言われてしまうと、断れない。真っ当な正論で、返す言葉もなかった。保護者に自分の状態を報告するのは当たり前のことで、それを盾に取られると、私も強くは言い返せない。
「でも、本当に、いいので」
「いいわけねぇだろ。お前に何かあったら困るのはオレ様なんだよ。ヴァルフリートや主任殿にどやされちまうし、お前が動けねぇんじゃ今後の予定も狂う」
 何かを言おうとして口を開きかけて、やめた。何も出てこなかったし、やっぱり正しいのはガンダルヴァさんの方だ。
「……じゃあ、お願いします」
 抵抗は止めて、まずはベッドに乗り上げた。楽な姿勢で座り込んだ後、服の裾に手を掛ける。
 ……怖い。
 私もろくに見たことがないここを晒すのが、怖い。どうなっているのかも分からないこれを見せて嫌われてしまったら、と思うと、怖い。
「……おい、とっととしろ」
 けれど、そんな恐怖をガンダルヴァさんが察してくれるはずもなかった。舌打ちと共に送られた催促に、意を決するように小さく息を吐き出す。
「すみません」
 晒したくはないそこを、渋々晒す。ゆっくりと服を捲り上げるにつれ、空気に触れる肌。刺さる視線が、凄く痛い。
 あんまりにも怖すぎて、首元まで服を捲り上げるだけだというのに、ひどく時間が掛かった。できることなら、背中だけは、誰にも見られたくなかったから。その思いを殺すだけの時間が、行動に出てしまったのだと思う。
 ゆっくりとしたペースでも、ガンダルヴァさんは文句を言わずに待ってくれた。そう、思う。
「……おい」
 けれど、絞り出された呻くような低い声を聞いて、その考えは間違いだったことが分かってしまった。そこには、誰に向ければいいのかも分からない怒りが混じっていた。傷を治そうともしない私や、私に暴行を加えた街の住民への怒りなのはもちろんだろう。けれど、こんなことに気付けなかった自分達への怒りのようにも思えたのだ。だって、これは、そんなどうしようもないことの結果だから。
 理由もなく振るわれる暴力と、誰も助けてくれないから一人でどうにかすることしかできない私の限界が生み出した、きっと醜い傷痕。
 踏まれ、蹴られ、殴られ、叩かれ、時には棒で叩かれ、思い切り地面に転がされ、物をぶつけられたそこ。決して治療の手が届くことのなかった、小さな背中。そこが、私を連れ出してくれる人の目の前に晒されている。誰も助けてくれずに受け続けた暴行の醜い痕が、結果として残っているのだと証明されてしまった。
 それを目の当たりにした時、この人が私に向けたのは同情でも憐れみでもなく、怒りだった。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -