生きることは耐えること(6)


 ぼんやりと自分の体を見下ろせば随分とボロボロになっていた。服は擦り切れていたし、鞄もボロボロだ。肩紐が切れてないだけまだいい方かもしれない。修繕するのはちょっと手間だが、これから物を少し持ち帰ることを考えれば、あるに越したことはない。強度は、期待できないが。中には家の鍵しか入ってないから、そちらの心配は特にしていない。鍵が壊れることなど、余程のことであろうし。
「おい、メイリエ」
「……はい」
 さてどこから手を付けたものか、と考えているとガンダルヴァさんが声を掛けてきた。きょろきょろと辺りの家を見回していた。
「お前の家はどれだ」
「家、ですか」
「帰るからこんなことになったんだろうが」
 そうだった。暴行を受け続けたせいで忘れてしまっていたが、秩序の騎空団の門番の人に手紙を託してきたのだった。ガンダルヴァさんが戻ってきたらすぐに渡すように、と。“家に帰ります。街の下層の森に近い地域です”といったような内容の手紙だったはずだ。実際にはもう少し言葉を連ねた気がするが、中身としてはそれだけのものだ。
 私が庁舎からいなくなって大騒ぎになったら困ると思ったこと、家に帰るのであれば必ず言うように言われていたから手紙を書いただけで、迎えに来てほしいとも何とも書かなかったのだが、まさか来てくれるなんて思ってなかった。それも、団員の人をあんなにたくさん連れて。
 ガンダルヴァさんがいつ帰ってきたのかは分からないが、あれだけの人数を引き連れてくるにはそれなりの苦労があったはずだ。ガンダルヴァさんと共に他の空域から来たという団員は五名程度だけ。それ以外にもあんなにたくさんの団員をそう簡単に連れてくることができるはずがないのだ。まして、夜も遅い時間に。
 どんな理由を付けてそれが可能になったのかは私には到底分かりそうもないが、家に帰るというだけでここまでのことになるということを、彼はきちんと予測が立てられたのだろう。だからこそ、一人ではなく、複数人で来てくれた。全くの部外者であるはずの、ガンダルヴァさんが中心となって。
「えっと……、あれ、です」
 一日がかりの仕事を終えてすぐに来てくれた人に教えないというわけにはいかなかった。そもそも、はじめは二人で帰ってくる予定だったのだし、教えなくてもいいという道理はない。それに、明日からは秩序の騎空団の管理下に置かれる建物でもある。
 そんなわけで、ろくに動かない腕を上げて、左前方を指で示した。何の特徴もない、普通の一軒家である。
 それを確認すると、ガンダルヴァさんは片膝を突いて私に手を差し出した。
「えっ、と……?」
 その意図が分からずに問えば、舌打ちをされた。察しが悪いということなのだろう。だが、そうやって手を差し出されても、私にはもうその手を取って立ち上がるだけの体力もない。それくらいは、ガンダルヴァさんにも分かっているはずだ。なのに手を差し出される理由が分からない。
「鍵寄越せ」
「はぁ。……なんで、ですか」
「お前な、動けもできねぇくせにどうやって家に入んだ」
「……むりやり?」
 それはもう、頑張って立って、頑張って歩いて、頑張って家に入るしかない。ここまで来た以上、何もせずに帰るというわけにもいかないのだから。
 そう思って答えると、盛大な溜息を吐かれた。私の答えが悪いのは分かっているので、何も言わないけれど。そもそも、こうなってしまったのも私が悪いのだから。
「論外の答えだ、バカ。ほら、開けてくるからとっとと寄越せ」
 改めてずいと差し出した手の大きさに気圧され、私はのろのろとした手つきで鍵を鞄から取り出した。その手に乗せようとする前に私の手からそれはひったくられ、ガンダルヴァさんは一人で私の家の前に立ち、扉の鍵を開けたようだった。きちんと開くことを確かめた後、また私の下へ戻ってきた。
「痛むかもしれねぇが、我慢しろ」
 それに頷くと、壁から背を離され、出来た隙間に腕が差し入れられた。そして脚の下にも腕が入り込むと、私が心の準備をする前にひょいと持ち上げられてしまう。そのまま家へ向かって歩き出された。
 見上げれば、少しばかりむすっとした表情が目に入る。どう考えても私の勝手な行動のせいなので、こればかりはもう、本当に仕方がないとしか言いようがない。
「あの」
「何だ」
「……重く、ない、ですか……?」
 そう問えば、ぴたりと足が止まって前を向いていたその顔が私を見下ろした。何だろう、と思った矢先にぶんっと音がしそうな勢いで両腕を振り上げられた。
「ひっ!?」
 突然の行動に悲鳴が漏れる。投げ落とされる、とぎゅっと目を瞑ったがそれ以上の行為はなかった。恐る恐る目を開けると、先程よりも近くなった位置にガンダルヴァさんの顔があった。眉間に皺が刻まれているところを見るに、相当怒らせてしまったような気がする。
「もっと食え」
「……え」
「軽すぎだ。オレ様の刀より軽い」
「そ、そんなに……?」
 ガンダルヴァさんの刀を持ったことがないからそれは分からないけれど、でもちょっと信じられない。そんなに軽いつもりはないのだが。人並みに食べているとも、思っているし。
「簡単に折れちまいそうで怖ぇくらいだ。明日から少し多く食わせるからな」
「そ、その……あんまり多くは……」
 増やす分には問題ないが、何事にも限度というものがある。秩序の騎空団に連れて行かれた日みたいな量を盛られてしまうと、さすがに食べられる気がしない。
 ……でも、そっか。軽いんだ。
 比較する相手がいなくて怖くなって訊いてみたのだが、心配するようなことはないらしい。むしろ、軽すぎるくらいだと。
「……なんだ」
 ほっと息を吐けば、ガンダルヴァさんの顔が更に歪められる。
「いえ、重くて迷惑を掛けているのではないと、安心して」
 ただでさえ疲れているであろうところに追い打ちをかけているわけではないと分かるのは、それだけで安心材料だった。もしもこれでガンダルヴァさんが負担に感じているようであれば、あまりに申し訳ないから。朝から働いて、戻ってすぐに来てくれて、更に動けない私を運んでくれるとなれば、やはり気にしてしまう。
「そーかよ」
 ガンダルヴァさんは呆れたようにそう呟くと、また歩を進めた。扉を潜るとそれを閉め、きちんと鍵まで掛けてくれる。
 私よりも夜目が利くのか、ガンダルヴァさんはそのまま奥へと進んでいった。私の部屋はどこかと訊かれたので、指で指しながら説明するとその通りに進んでくれた。部屋に入るとまっすぐベッドへ歩み寄り、そっと横たわらせてくれる。
 そのまま部屋を見渡し、明かりを用意してくれた。私の家だというのに、何から何までしてもらって申し訳ない気分であるが、言ったところで「動けないお前に何ができる」とまた言われてしまいそうだった。
 勉強机の近くに置いてあった椅子を引き寄せると、それをベッドの近くまで運んできてそこに置き、自分も腰掛けた。それ、私のサイズに合わせたものだから逆に疲れはしないだろうかと心配になるのだが、まぁないよりはマシなのだろう。
「答えろ、メイリエ」
 腕組みをしたガンダルヴァさんが、私の顔をまっすぐに見下ろして口を開いた。
「何で一人で帰った」
 それは、こうなってしまった私への説教に、他ならなかった。私とガンダルヴァさんが何でもない関係ならば何も言われなかったのだろう。けれど私達は上司と部下であり、保護者と子どもだ。私の面倒を見るとなった以上の、果たすべき義務なのだろう。
「……すみません」
 何を言っても納得はしてもらえないだろうと謝罪する。それに返ってきたのは、苛立ったかのような舌打ちであった。
「謝罪はいらねぇ。そんなもんは何にもなんねぇ。オレ様が欲しいのは理由だ。帰る時はいつでもいいから必ず言えと言ったはずだ」
 連れてこられた日、私の部屋を案内してもらったその時に、たしかにガンダルヴァさんはそう言った。付いて行ってやるとも。
 そのことを忘れたことはない。だから悩んだのだ。言うべきか、言わないべきか。私のためにそこまで時間を割いてもらうわけにもいかないし、それに、家に帰る目的であった、整理と少しばかりの持って行きたいものを取りに行くことは、別にやらなくても問題はない。生きるのに必要不可欠なものではないのだから。ただの、思い出なのだから。両親の記憶を持って行きたいという、私の我が侭だった。
 そんなものに付き合わせていいのか、数日悩んだ。毎日毎日忙しかったけど、ふと訪れる合間の時間にそんなことを悩んで、振り払うように首を振って。ただの未練に、この人を付き合わせていいのかどうか、本気で悩んだ。
 それに答えを出せた――いや、決心できたのが昨日の夜のこと。家に帰りたいと、やっと昨日思えたのだ。
 だから、彼を捜して、待って、――そして諦めた。
「それは、覚えてました」
「覚えてて帰ったのか」
「はい」
「あんな紙切れ一枚残してか」
 手紙は、ちゃんと渡してくれたようだった。そのことには安堵した。秩序の騎空団の団員は、きちんと仕事をやってくれる。
「はい。夕方には戻るって聞いたんですけど、夕食を食べ終わっても戻ってこなかったので。それに、お風呂は誰にも頼んでないようでしたし」
 目の前でガンダルヴァさんが唸る。分かってやがったか、と聞こえたような気がした。
「お前の言う通りだ。夕方には戻れる用だとは思ってた。昼くらいまではそのつもりでいたし、伝令を聞いた時も特に言伝はしなかった。だがまぁ、手間取ってな」
 夕食を一緒に食べた団員の言っていた通りだった。手間取っているのかもしれない、と。どうやら余程面倒な仕事だったようだ。
「最後の最後に面倒事を、って思いながらやっとのことで戻ったらあれを渡された。肝が冷えるってのはあのことだったな」
 それでも、そこから迅速にああやって動けたのは凄いと思う。この人の人望と、能力の高さを示している。
「明日出立じゃなかったら、待とうと思ったんですけど。明日の朝まで戻ってこないかもしれない、って思ったので……」
「はぁ、あいつらに伝言しとくべきだったか」
 ガンダルヴァさんは組んだ腕を組みかえながら溜息を吐いた。
「オレ様も悪かった」
「……いいえ。言いつけを破った私が、一番悪いので……」
 顔を背けた。そうだ、悪いのは、私だ。決心できずに、言い出せずに、そして、勝手に帰ってしまった。これは、多分、当然の報いなのだ。
「仕事終わりのガンダルヴァさんに迷惑は掛けられないと、……思ったので。帰りたいのも、単なる私の我が侭ですし」
「我が侭?」
「はい。……別に、他の方にとってはなくてもいいものを、取りに来たんですから」
 僅かな沈黙の後、ぎゅむ、と頬を抓まれた。ガンダルヴァさんの方へと顔を向けるように引っ張られ、それに従う。
「お前でも、そんなこと言うんだな」
「え?」
「我が侭とか言わねぇと思ってたからよ。そういうこと言える環境になかっただろ」
「それは、……まぁ」
 両親が生きていた頃は、それなりに我が侭も言っていたように思う。どんな、と言われるとなかなか難しいけれど、でも一つだけ思い出せる我が侭がある。それは、きちんと叶えてもらったけれど、その我が侭が叶ったからこそ、報いを受けたのだとも思う。
 ……あぁ、そっか。
 それを思い出すと、すとんと一つ、納得がいってしまった。こんな我が侭を通そうとしたから、私はこんな目に遭っているのだと。あの時、みたいに。
 もしもう一度我が侭を言える環境になったなら、もう言わないでおこうと思ったのに。また、何かを失ってしまうかもしれないから。
 それなのに、あまりにも長い時間を独りで過ごしていたせいだろうか。我が侭を言う相手すらいなかったせいで、忘れてしまっていたようだ。
 何かを、願ってはいけないのだと。
 幸せになりたい、と。あんなことをやりたい、と。誰かと過ごしたい、と。そうしたことを思ってはいけないのだ。私が願えば、私の周りの人は皆不幸になってしまうから。両親が、死んでしまったように。不幸な出来事によって、楽しい時間を奪われてしまうのだ。
 今だって、きっとそう。両親の思い出を持って島を出たいと思ったから、私は自分の次の幸せを奪われかけたのだ。私が大怪我をして、街に捕らえられることによって。何も失ってはいないかもしれないけれど、でもガンダルヴァさん達に会うことは二度となかっただろうし、きっともう、どこかに閉じ込められて終わる人生かもしれなかった。
「我が侭を言う相手がいないのも、そうなんですけど」
 彷徨わせていた視線を、ガンダルヴァさんへと向けた。彼は、ずっと私を見下ろしていたようで、すぐに目が合った。
「我が侭を言っちゃいけないんです、きっと」
「は? なんでだ。お前みたいなガキは我が侭は言うもんだろうが」
「……でも、我が侭を言って、それを叶えてもらったら、みんな……不幸に、なっちゃうので。……今だって、そうでしょう」
 だから私は、こうしてあなたに迷惑を掛けている。
 それは、言葉にはならなかったけれど。けれど、そんな強い思いが私を支配していた。昔も、今も。そう、そうだった。
「我が侭は、幸せな時間を奪う、呪いなんです」

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