生きることは耐えること(5)


「あ……?」
 髪を掴まれて無理やり引きずり立たされたところで降ってきた声は、住民の怒りを高めるには十分だった。威嚇するような声がどこからか放たれるが、気は済んだか、と問うてきた声の主が答える気配はない。
 どうにか目を開けると、振り上げられた拳が見えた。けれどそれは私が衝撃に備える前に下ろされた。私の髪を掴んだまま、男が辺りをきょろきょろと見回している。同様に、他の住民達も辺りを見回していた。
 この場に水を差した人間がここにいるはずなのに、姿が見えない。彼としては、今すぐこの場に水を差した人間に制裁を加えたいところであろう。自分達の総意としては、私を徹底的に差別するのが決まりであるし、そのための暴力も容認されている。そういうルールを勝手に作った。
 それに異を唱えるということは即ち、外部の人間――この街の住民を裁こうとしている者、ということになる。何年も続けてきたこの行為を咎められれば無罪放免とはいくまい。であるからこそ、彼らは徹底的に結託してこのことを隠し通し、私に暴行を加え続けたのだ。あらゆる街の住民が私を恨み、呪い、差別することで心の平穏さえ守られてきた。それを破ろうとしている存在を、この街の人々が許すことはどうしてもできなかった。
 一人が捕まれば、連鎖的に全ての者が捕まるということになってしまうから。
 でも、彼らとしても、今更逃げることはできないのだろう。この場に集った数はざっと三十人。身体能力が高い者もいればそうでない者もいる。万一身体能力の低い者がターゲットにされた場合、芋蔓式に全てが明るみに出てしまう。それは、避けねばならないのであろう。だから、必死に辺りを見回して、その正体を探ろうとしている。
 相手が一人ならば、この場でこの行為の正当性を説き、そちら側へと引き込もうとするだろう。その手段が何かは、分からないけれど。ろくでもない手段なのはたしかだ。
「おい! 出て来いよ!!」
 ついに痺れを切らしたのか一人が叫んだ。連鎖的に次々とその水を差した相手を呼ばう声が響く。
「……んだよ、とんだ拍子抜けだな」
 呆れたような声が響く。それは、先程唐突に響いた声と同じ声音で、そして、この数日で聞き馴染んだ声でもあった。
 それが、上から降ってきた。
「揃いも揃ってちっせぇ女に殴りかかってんだからちったぁ骨があると思ったのによ」
 正面の家の屋根の向こうから、その人物は姿を現した。天を刺す二本の角はドラフの証、離れていてもはっきりと分かるたくましい体つき。それは、私をこの街から連れ出そうとした男のものでは、なかったか。
「拍子抜けだ」
 軽やかに跳び上がったそれは、重い着地音と微かな振動を響かせて、私達と同じ地面の上に立った。ぬっと立ち上がったその体は、やはり大きい。頑強な顔つきで鋭く光る瞳は、周囲を威圧するかのようで、近くで何人かが息を呑んでいた。
「こんな夜に女一人を囲って大騒ぎとは……、何の祭だ、これは」
「これは……その……」
 睨み下ろされた男がどうにか答えようとするが、答えに窮している。それも、そうだろう。馬鹿正直に憂さ晴らしをしていました、などと言えるはずもない。この街の住民ならばともかくとして、外部の人間に。彼からその話が広がれば自分達がどういう立場に追い込まれるかよく分かっている。だから、誰も答えられなかった。
 大柄な体つきの、その身の丈程の刀を背負っている男に睨み下ろされた彼らは、誰一人として何も言えなかった。
「ひっ」
 ゆっくりと、大きな一歩が踏み出された途端に上がる悲鳴。大柄なその男は、私の方へとまっすぐに向かってきた。
「全く……。ガキの喧嘩やガキの弱い者虐めに収まらず、こんな夜遅くにでけぇ図体の奴らが女一人を甚振ってるとは思いもしなかったな」
「お、おま、え……!」
「な、なんで……」
 ずんずんと歩を進めてくる彼に対して、住民達はじりじりと後退する。その様子を、男は目を細めながら眺めているようであった。
「何故?」
 呆然とした呟きを拾い上げた男は、薄らと笑った。
「上手いこと隠してたよ、てめぇらはよ。けどまぁ、永遠には続かねぇ。そういうこった」
 こちらはしっかり関知しているぞ、と。言外に彼が言った途端、住民達の間に流れる空気が明らかに変わった。――焦り、だ。
「さぁて、てめぇら全員、暴行の現行犯で捕縛といこうじゃねぇか。……なぁ?」
 誰に向けて言ったかは分からない言葉だった。街の住民達に向けてでもあったようだし、その更に遠くにいる誰かに向けて言ったような言葉でもあった。
 だが、住民達はここで捕縛される。その意味だけは、揺るがない。
 彼が足を止めたその瞬間、近くで舌打ちが聞こえた。
「逃げろッ! 誰一人として捕まるんじゃねぇ! ここで捕まりゃ全員終わりだ!!」
 怒号にも似た指示は、その場に集っていた人々を一瞬で散らせた。全員がまとまりなく、バラバラの方向へと逃げ始める。
「ちっ」
 私の体を無理やり引きずり起こしていた男は、走り出そうとして私を掴んでいることを思い出したのだろう。重い私が邪魔だとでも言うように思い切り舌打ちをした。そして、最後の憂さ晴らしとでもいうかのように、私を思い切り地面へと放り捨てた。
 体を支えていたその手から放り投げられた体は勢いよく地面へと倒れ込む。けれど、目も開けていられないくらいに殴られ続けた体は、受け身を取ることもできそうになかった。力を失った体は為す術もなく硬い地面に向かって勢い付いた。
「メイリエ」
 小さな声が、私の名前を呼んだ。柔らかな衝撃は、ほとんど痛みを伴わないもので、何とか目を開けると、赤い瞳が私を見下ろしていた。
 どうやら、彼が私を支えてくれているようだった。背中に回っているのは、ガンダルヴァさんの腕であろう。感覚から、片腕で支えられていることが分かる。彼にとっては、私はそれだけで十分なほど、小さいらしい。
「生きてるな?」
 そんなことをぼんやりと考えていると、短く問われた。それは、生きていると分かっての問いではないだろうと思ったが、どこからどう見ても無事ではないし、他に言葉が浮かばないのも事実。となれば、生きているか、という問いはあながち間違いではない。
 それに答えたくても、もはや声を出すことも億劫だった。けれど意思表示をしなければ死んでると思われてしまうので、代わりに小さく頷く。ガンダルヴァさんもひとまずは頷き返してくれて、そのまま私は抱きかかえられた。
「おいっ、なんでだ!」
「なんでっ、秩序の騎空団が……!」
 あちらこちらから、悲鳴のような声が聞こえてきた。その足音はばらばらと、けれどどんどん大きくなってきていた。そしてすぐに、一度は姿が見えなくなったはずの街の住民達が方々から戻ってきた。かち合った彼らは一瞬動きを止め、そしてまた「嘘だろ」と言葉を漏らす。
 どういう状況なのか、何も分からない私にも分かってしまった。
――秩序の騎空団は、この辺り一帯を包囲している。
 目的はただ一つ。この現場を押さえて、全員を連行するためだ。私を虐げていた者達全員を拘束して、今アマルティアで問題になっている住民ぐるみの暴行事件を解決に導こうという一手を打とうとしている。
 ここからまた別の場所へ逃げ込もうとしていた住民達は、やはり同じようにここに戻ってきた別の者を見て、青ざめているかのようであった。もはや、言葉すらないようだ。
 どうあっても逃げられない。それに、気付いてしまったから。
「おいおい、逃がすとでも思ってたのか? オレ様が単身でてめぇらに水を差しに来たと? 相手が街の住民全員だと知っていながら?」
 呆れたように笑うガンダルヴァさんは、住民達からなるべく距離を置いた所まで歩くと膝を突いた。その壁に、できるだけゆっくりと、丁寧に私の体を凭れさせる。ずるりと動かないことを確認した後「大人しくしてろ」と小声で指示を出して立ち上がり、住民達に向かって仁王立ちをして、笑ってみせた。
「こいつのことは少し前から秩序の騎空団に報告されてるぜ? 遅かれ早かれ、てめぇらは全員牢獄行きだったってこった」
「どうして!? 今更……!!」
「俺らは上手いことやってたはずだ……、なんでだよ……!」
 悲鳴のような声は「なぜ」ばかりを問うていた。何年も隠せていたのに。どうして今更助けに来るのか。悪いのはそいつの方だ。どこから漏れた。
 あちらこちらから聞こえる、なぜ、なぜ、なぜ。それは、もはや疑問の声ではなく、怒りの声のようだった。
「長いことやってりゃボロが出る。そういうもんだ。てめぇらは外部の人間に簡単に情報を流しすぎたんだよ。ま、目撃されて下手に報告されでもしたら面倒だと思ったんだろうけどな。自分達の側に引き込もうとして全部打ち明けて暴行現場にまで向かわせたそうじゃねぇか。それ、全部筒抜けだぜ? もっと徹底的に隠すんだったな」
 秩序の騎空団に知られてしまった経緯がバラされ、彼らは更なる悲鳴を上げた。それは、完全に自分達の失策だったようだ。
 たしかに、ここしばらくは見ない顔の人が暴力を振るってくることもあったが、まさかその中に秩序の騎空団の団員が混じっているとは。恐らく最初は何らかの噂が秩序の騎空団に入ったのであろう。その後、実態を見るために調査で派遣した団員に、住民達はあっさりと事の次第を話したというところか。自分達の側へと引き込むために。変に噂を広げられないために。
「共犯者にしちまえば口を封じられる。それは間違いなかったが、相手は見極めるべきだったな」
 彼の口ぶりだと、私がされていることが秩序の騎空団に知られたのは、最近のことではないのかもしれない。もう少し前から実態まで情報が入っていて、どう対応するかを検討していたのであろう。その最中で、ガンダルヴァさんがとんでもない方向から解決しようとした。団長の言葉を思い出す限り、私を見つけたのは偶然ではあるようだが。
「秩序の騎空団の本部があるここアマルティアで暴行沙汰があるとなっちゃあ、オレ様達の沽券にも関わる。こいつを今更助けるのは、そういった理由だ。別にこいつが泣きついてきたとかじゃねぇ。オレ様達はこいつの境遇すらろくに知らねぇんだ。仮に、お前らの中の誰かがこいつと同じ状況になってたとしても、秩序の騎空団は必ず動いた。理由は、分かるだろ?」
 たった今、言ってやったんだから。そんな声が聞こえてきそうだった。
 私が穢れていなくても。私以外の誰かが同じような目に遭っていたとしても。秩序の騎空団は、動いたであろう。彼らは、空の平和を守るための組織なのだから。
「どうやって証拠を揃えようかモニカの野郎が頭を抱えてたがな、まさかこんなチャンスが巡ってくるたぁな」
 ガンダルヴァさんはぐるりと彼らを見回して、笑った。
「現行犯で連行する機会をくれてありがとよ。そこだけはてめぇらに感謝してやる。お陰でいろんな手間を省けた」
 その大きな体が一歩進むだけで、目に見えて怯える住民達。恐らくは、背にある巨大な刀を目にしてだろう。その手はたしかに、刀の柄に掛けられていた。
 あれで斬られればひとたまりもない。武器をそう扱わない者でも分かる恐怖が、ここまで伝わってくる。
「ここの責任者のモニカも喜ぶな。――やれ。一人も逃がすな」
 それまでよりも大きな声は、住民を取り囲む秩序の騎空団の団員に向けての指示であろう。途端にあちこちから応えるような返事が返ってきて、そして悲鳴が聞こえ始めた。
 どれほどの団員を引き連れてきたのだろうか。あんなに多くの住民達が次々と拘束されていく。その手際は鮮やかで、一人を捕らえるのにはそう時間が掛かっていないように見えた。
 捕らえられながら上げられるのは全て、私に対する疑問と、暴言だった。聞くに堪えない言葉がひしめく中で、秩序の騎空団の人達は顔色一つ変えずによく仕事をしていると思った。私は、慣れるまですごく時間が掛かったのに。
「なんでだよ……! なんでてめぇが秩序の騎空団と繋がってんだ!」
「なんでってなぁ」
 そんな中で耳に入った疑問の言葉に、ガンダルヴァさんは笑いながらその声を上げた人物へと近付いた。
「あいつに見どころがあったんだよ。だから、オレ様の部下にした」
「なに……?」
 その男を拘束する傍ら、私を指で示しながらガンダルヴァさんが言うと、男は睨むようにして私を見た。
「明日から航行って時にオレ様の大切な部下に手を出したのはてめぇらだ。これは、相応の報いだろ?」
「おっまえ……!」
 その男は拘束を振り解こうと足掻くが、ドラフの力には敵わないようだった。体が自由であれば今すぐにでも私に殴りかからんとする勢いで私に向かって叫ぶ。
「本気でっ! 本気で逃げて歯向かおうってのか!?」
 その叫びは、他の住民にまで波紋を広げた。複数の目が、私を鋭く射抜く。まるで、殺そうとするかのような目つきだった。いつもの暴行の時のそれとは全然違う。余裕はなく、ただ憎しみしかない。本当に、私を殺そうとしているかのような、目だ。
「このクソ野郎! お前は永遠に最下層でいるべき人間だろうが! 何自由になろうとしてやがる!!」
「穢れた混血のクソ野郎が!!」
 私への憎悪の声が飛んでくる度に、その声の主を押さえている秩序の騎空団の団員が「黙れ」と声を張っていた。
 もう、ぐちゃぐちゃだった。様々な声が入り乱れて、何を言っているのかもあまり判別できない。
「元凶を葬っただけじゃ足りなかったかぁ!?」
 一際大きな声が聞こえてきたその時、ガンダルヴァさんがぴたりと動きを止めた。まるで怒りに任せるかのように目の前の男の拘束を強めると、その叫びを放った者の方へと大股で歩く。
 どうして、かは分からない。元凶だけでは足りないのか、という言葉のどこに彼が怒る要素があったのかが分からない。そもそも、元凶とは、何だろう。
 私の知らない何かを知っているのかもしれないけれど、でもそれを問うことができる状態ではない。ただ、目の前で起きていることを静観することしか、私にはできない。
「黙れよクソ野郎」
 既に拘束されていた男の襟首を掴んで、その男を無理やり立たせた。静かな声は、間違いようのない怒りに支配されている。
 だが、男の方も怯んでいる様子はなかった。ガンダルヴァさんではなく、私の方をじっと睨んでいた。
 それが、気に入らなかったのだろう。小さな舌打ちの後、ガンダルヴァさんは手を振り上げた。大きな手がその頬を張り飛ばせば、男は軽々と吹っ飛んでいった。あまりの威力に、周囲に居た住民の誰もが言葉を失う。
 ガンダルヴァさんはその張り飛ばした男には目もくれずに立ち上がって、周囲を睨みつけた。
「それ以上あいつを貶す言葉を言ってみろ、次はこいつを抜く」
 そう言ってガンダルヴァさんは刀に手を掛けた。息を呑むような悲鳴が次々と聞こえる。
 彼が来てから、こんなことばかりだ。私一人ではどう足掻いてもいいように暴行されるだけだというのに、ガンダルヴァさんはたった一人で状況を変えてしまった。圧倒的な威圧感と、圧倒的な力を示し、秩序の騎空団の団員を率いて事態の解決にあたる。
 ……これが、船団長。
 面倒臭がりだ、変わり者だ、やる気を示すことの方が少ない。団員達の多くはそう言っていて、ガンダルヴァさんと共に来た団員でさえ苦笑いしながらそんなことを言っていたけれど。それでも皆がガンダルヴァさんを慕い、付いて行く理由が分かった気がする。
 この人は、強い。それも、とんでもなく。
 口ではどんなことを言っても、やるべきことはやる人だから。だから、何だかんだと言いながら、この人に付いて行くのだろう。
「てめぇらは許されねぇことをやってんだ。それをよく自覚することだな」
 興味が失せたとばかりにガンダルヴァさんはこちらへと戻ってきた。彼の背後に座り込む住民達はもう、何の声も上げなかった。あの刀に斬られるとなれば、もう何も言えないのだろう。いや、あの刀に斬られてでも私を憎んでいるということでもなかったのかもしれない。本当に憎いのであれば、それでも構わずに言葉を続けたであろうから。
 所詮は一時の気晴らしで、娯楽で、そのためだけの暴行の餌食ということだったのだろう。何年も何年も繰り返されていながら。
「これで終わりだ、メイリエ」
 私の前に立ったガンダルヴァさんは地面に腰を下ろして、私を見下ろした。先程までの冷たい表情ではなく、私を労わるかのような顔で、そう告げた。
「お前はもう、暴行を受けなくてもいい」
 物心ついた時から、ずっと虐められていた記憶しかなかった。時が経つにつれてエスカレートしていったそれは、私が死ぬまで続くことはなく、今この瞬間終わったのだと、圧倒的な力を持つその人が告げてくれた。
 その証拠とでもいうかのように、全員の拘束を終えた秩序の騎空団の団員が次々と住民を立たせると、ガンダルヴァさんに軽く挨拶をしてから立ち去っていった。方角は、島の上層の方――第四騎空艇団の庁舎の方だった。
 あんなに多くいた住民は、一人残らず連行され、残ったのは被害者である私と、私を救ってくれたガンダルヴァさんだけだった。

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