生きることは耐えること(4)


「あ……」
 呆然としたような声が出る。それだけだった。
 足が竦んで、心も竦んでいる。動けない。一歩も、指先一本も、動かせない。
 三人の男が私の前に立った。見下ろす顔が貼り付けているのは、ニヤニヤとした笑み。大人の浮かべる、意地の悪い笑い方だった。
 ……どうして。
 分かっていたかのように、待っていたのだろう。
 そう思って、内心で溜息を吐いた。――ずっと、交代で張っていたのだろう。私がいつ戻ってきても、こうして囲えるように。
「お前最近どこにいたんだ」
「……どちらでもいいでしょう」
「よくねぇよ」
 男がぐっと上体を屈めて私の顔を覗き込んできた。相変わらず、ニヤニヤとした笑みを、貼り付けたままで。
「お前がいねぇと張り合いがないんだ。殴る相手がいなくてよぉ」
「そーそー。お前がいないとストレス溜まりっぱなしなんだわ。だから今日はこの数日分発散させてくれよ」
 ニヤニヤとした笑みを浮かべた男が気持ち悪かった。家の前に居た者達の内の誰かが「おい皆呼んで来いよ。穢れた子が戻ってきたってな。憂さ晴らししようぜ」と呼びかけていた。遠ざかっていく足音は複数。恐らくは、今の三倍ほどの人数は、ここに集まることであろう。
「……んだよその顔」
「何でもないです」
 大人は、私と同い年くらいの者達とは違う。黙っていればどんどん悪い方向に物事を進められてしまう。だから、どうしても、発言をする必要があった。何かを言っても、どうせ暴力からは逃れられない。けれど、お金を無心されることは、なくなる。
「ちっ。うぜぇなぁ」
 付け入られないように、静かに淡々と答えても、結局それが気に入らない。いつものことだ。笑っても泣いても怒っても「気に入らない」で結局暴言と暴力に晒されるだけ。酷いときはお小遣い分のお金を勝手に取っていく始末だ。もっとも、お金を取っていくのは私が終始無言でいた時の一度きりであったが。あの時は、両親の遺産もあったから取りやすかったのだろう。そう何度も使える手ではないこと、私も失敗を踏まえて多少の受け答えをするようになったことで、二度目はなかったけれど。
 その受け答えは脅迫文に使われるようになって、私の心を擦り減らせていったけど。
「いいか、お前」
 私の正面に立った男が、私を見下ろしていた。笑みはない。拳が、握られている。
「お前はなぁ、俺らのサンドバッグにされてりゃ」
 拳が振り上げられた。衝撃に備えて目を閉じる。
「いいんだ、よっ!!」
 右頬に強い衝撃。ぐっと奥歯を噛み締めていたおかげで折れていることはないはずだ。この街の住民は、必要以上の怪我をさせることを恐れているらしいから、その辺りの加減だってされているはず。全力ではないだろう。
 それでも、私の小さな体がその衝撃に耐えられるはずはなくて、バランスを崩して地面に倒れ込んだ。
「それがてめぇの生きてる意味だって教えただろうがっ!!」
 間髪入れずに別の男が蹴り上げてきた。腹部に入り込んだそれは、私の体を宙に浮かせるには十分すぎた。飛んで、地面に叩き付けられて、衝撃が殺し切れずに一回転。
「がっ、……ぁ」
 叩き付けられた衝撃で潰された獣のような呻き声が漏れるが、それ以上は何も言えなかった。
 殴られた右頬と蹴られたお腹と地面に叩き付けられた背中を中心として、全身に鈍痛が襲い掛かってきた。じんじんとした痛みは私から思考能力を奪っていく。もはや、逃げよう、と、助けて、と思うこともできなかった。ただ、耐えなければならない、という思いが私を支配する。
 耐えて、耐えて、耐え続けて。この人達が満足するまで暴力を振るわれて、私を否定されて、また暴力を振るわれて、嘲笑われて。いつ終わるかも分からない苦痛の時間を耐えることが、私に与えられた役割。
 この街で生きるのであれば、そうしなければならないのだ。絶対に。何をされても文句を言わず、反抗もせず。ただただ彼らが満足するのを待たなければならない。日頃の鬱憤が晴らされるのを待たなければならない。
 穢れた存在である私は、そうじゃないと生きることも許されないから。私を一歩も動けなくなるまで虐め続けることで、初めて私が呼び寄せる不幸が消えるから。
 だから、これから行われる暴行は耐えなければならないのだ。私は、生きているのだから。生きていることは、痛みに耐えることなのだから。そうしないと、殺されてしまうから。
「へへっ」
 いくつかの足音が近づいてきて目を向けた。ニヤニヤとした顔で、私を見下ろす男達が、気持ち悪い。そう、彼らとは全然違う。温かい彼らとは、全然。だから、思うのだ。気持ち悪い、と。今まで見てきた当たり前の『笑顔』は、笑顔なんかではなかったのだと。ただの、気持ち悪い表情なのだと、分かってしまった。
 もう、戻れないかもしれないとも思う。そんなことに気付いてしまったこの街には、もう。
 けれど、この状況で私が秩序の騎空団に戻ることも到底できないのだろうと分かってしまう。私は、無力だ。さっき言われたように、この街のサンドバッグになることしか、できることがないのだ。
 男の一人が屈んだかと思うと、私の服の襟首を引っ掴んで無理やり上体を起こされた。あまりの勢いに首が締まり、また醜い悲鳴が漏れる。それによって巻き起こる薄笑いが、気持ち悪い。
「そうだよ、そう這い蹲ってろよ、穢れた女め」
 後頭部から地面に打ち付けられた。角に被害が及ぶことがないように、という配慮だろう。加えて、頭部を強く打ち付けたことによる障害への配慮までなされている。たしかに痛いが、頭全体がぐらぐらと揺れるほどではない。
「てめぇ、数日いなかったけどよぉ。妙な気、起こしてねぇよなぁ?」
「……妙な気、とは?」
 そんなことを言われても、分からない。私が思っている普通は、この人達にとってはそうではないし、その逆だってある。だから、ここで価値観を共有しておかなければ、事態はますます酷い方向へと傾いてしまうだろう。
 私への暴力や暴行が酷くなることは、いいのだ。明日の出立の時間に間に合わずに街から出られなくても。でも、もし万が一私が戻らないせいで私を捜しにくるようなことがあったり、それ以上に、私の発言のせいで秩序の騎空団へと怒りの矛先が向いてしまったりするようなことがあれば、耐えられない。それだけは、避けないといけない。迷惑だけは、掛けたくなかった。死んでも、嫌だ。
「そりゃあ、なぁ?」
 問うてきた男が周囲に目を向けてから、再び私へと目を向けてきた。
「アマルティアを出るとか、その剣で俺らに反撃するとかだ」
 アマルティアを出る、と聞いた途端に、肩が跳ねた。
 ……しまった。
 動揺が、伝わったかもしれない。恐る恐る上を見上げれば、その笑みが深まっていた。――やばい。
 けらけらと笑って男が足をぷらぷらと揺らす。ろくに動かない体に、必死に動けと念じた。
「何だお前図星か? 島を出るのか? どうやって!」
「あっはは傑作だなおい! 金もねぇ伝手もねぇお前が島を出られると!? 俺らに取っ捕まって終わりだってのに!」
 ぎゃはは! と下卑た笑いが辺り一帯を覆い尽くす。唇を噛んだ。やっぱり、行動範囲は制限する気だったようだ。でも、この一週間どこに居たかを知らないのは何故なのか。秩序の騎空団に連れられたのを誰も見ていないというのは、ありえないと思うのだが。
 いや、子どもが私に暴行を加えている途中で連れて行かれたから知らなかったと、そんな可能性でもあるというのだろうか。これだけ用意周到にしているといっても、彼らとてただの一般人。昼は普通に働き、朝と夜は家庭に入っている。その合間にこうして私へ暴行を加えているのだから、子どもに暴行を任せている間は何も見張りを付けていないという可能性も、あるかもしれない。
 それに、長い間暴行を受けていても、一度もどこかへ行こうなどという気を起こさなかったから、街のあちこちに見張りを置くということもしなかったのだろう。
 それが、私を見失うきっかけになったのだろう。
 この数日間、彼らは死に物狂いで私を捜したに違いない。自分達にとって都合のいい存在が突如として消えたのだから、当たり前だ。だから多分、街のあちこちに見張り兼連絡役がいたであろうし、こうして何人かが私の家の前で私の帰りを待っていたに違いない。家族でも、ないというのに。
「おいおい、やめてくれよぉ?」
「そうだぜ、憂さ晴らしの相手がいねぇんじゃあなぁ」
 ぷらぷらと揺らされていた足がぴたりと動きを止めた。ちょうど、私が自分の頭を守るように腕で庇った瞬間だった。
「ここで、こうやってされてりゃいいんだからなぁ!」
 叫び声と共に腕に鋭い衝撃を感じた。思い切り蹴り上げられたようだ。それは、何度も味わっている痛みで。何度もされてきた暴行で。だからこそ、彼らの無言の要求に応えることができる。
 口答えは許さない。ただ急所だけを守っていろ、と。殺しはしない。反撃は許さない。気が済むまで大人しく嬲られていろ、と。
 体を丸めて、頭や顔を守るようにする。急所への一撃が入らないことをいいことに、街の住民の暴行が激しさを増した。
 骨まで軋むような一撃が何度も襲い掛かってくる。もう、どこを蹴られているのかも分からない。
「てめぇみたいな半端者はなぁ!」
 声に合わせて重い一撃が降ってきた。一瞬止まる呼吸のせいで、頭が真っ白になる。
「一生俺らに甚振られてりゃあいいんだよ!!」
 もう一発。これももう、どこに入ったのか分からない。
 視界が滲んでいるようだった。いや、歪んでいるのか。もう、目を開けているのかどうかも分からない。
 頭が真っ白だ。何も考えられない。もう、起きているのも辛い。
 蹴られすぎて、意識が朦朧としてきたのが、自分でも分かる。でも、雑音のように住民達の声が聞こえてきて、まだ終わりではないのだと、嫌でも思い知らされる。
「おらおら! まだ寝んなよな!」
 私を起こすかのように頭を庇っている腕が踏みつけられた。みしり、という音がしたようだった。
 数日間家を空けていたせいだろう。私を使った憂さ晴らしができなかったせいで、相当鬱憤が溜まっているらしい。入れ代わり立ち代わり行われる暴行の終わりが、全く見えない。男にやられてるのか、女にやられてるのか。それも分からない。
 ……もしかしたら。
 すぐ近くにあるはずの家のことを思い出す。秩序の騎空団が管理すると言ってくれた、私の家。石を投げ込まれ、脅迫めいた手紙を投げ込まれたり、壁に落書きされたり、と私を追い詰める道具にすら使われた、大切な家。けれど、それでも空き巣に入るということだけはされなかった、家。
 けれど、今回ばかりは無事ではないかもしれないと思った。私がいるかどうかを確かめるために窓を割って侵入した可能性は高く、そのついでとばかりにお金や物を盗っていった可能性だってある。
 私が家に帰らなければ、私への暴行はない。けれど、そこに存在しているだけの家は違うのだ。身代わりとでもいうように何かされていても、おかしくはない。
 秩序の騎空団に保護されたことで街への見回りが強化されたとは聞いている。けれど、今まで私の噂を上に上げなかったような人達だ。見回りの強化にはすぐに気付いて、更にこそこそと、より陰湿に私の家に何かをしているであろう。
 そういう人達だ。そういう街なのだ、ここは。
 秩序の騎空団がいるからといっても、私が秩序の騎空団に保護されたといっても。何も変わりはしないのだ。
 そして、もうこうやって彼らに見つかってしまった以上、私が騎空士として島を出ることは、きっと――
「気は済んだか?」
 もう、穏やかな時間を過ごすことはないだろう。あの温かな手が私の手首を掴んで連れ出すこともないだろう。笑い合うことも、ないだろう。ただ痛みに耐えて、一生笑わず、独りで生きないといけない。それが、生きることだから。生きることって、痛みや孤独に耐えることだから。今までずっとそうだった。この数日だけが、おかしかったのだ。
 あんなのは、夢だった。信じちゃいけない。あれは全部、私には遠い世界の出来事。それを、垣間見ることができただけでも、幸せだった。あんな幸せな夢を見れて、よかった。別の道はこうして続いていて、けれどそれをちゃんと埋めなきゃいけないんだって、分かっただけでよかった。
 私は、穢れた子だから。半端者だから。不幸を呼ぶ子なんだから。だから、幸せになっちゃいけないのだ。絶対に。
 何年も何年もそう言われてきて、そういう環境を作られて。誰とも会話することなく、ただ耐えてきた。その生活に戻るだけ。夢が、覚めるだけ。きっと、誰に謝る必要もなくて、秩序の騎空団に入ることを辞退すれば、それで済むのだ。問題は大きくならずに、きっと暴力が酷くなって終わるだけ。秩序の騎空団には、きっと何も迷惑が掛からない。私の一時の気の迷いだったのだ、とこの街の住民なら上手に誤魔化すであろうから。そうしなければ、住民が次々と検挙されてしまうであろうから。それは、彼らにとっては、絶対の手間だった。その代償として、私は今以上の暴行を受ける。
 そう、それだけなのだ。そうして生きてきたんだから、それが続くだけなのだ。あの温かくて柔らかな時間は、早く忘れてしまおう。
 何もかもを諦めて自分にそう言い聞かせ、この街でこうやってボロボロで生きることを決意した、その時だった。その声が、不意に降ってきたのは。
 この場に似合わない怒りに満ちた低い声が、下卑た笑いを一瞬で沈めた。

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