生きることは耐えること(2)


「これで最後になります」
「はい」
 そう言われて差し出されたのは、今後の確認事項みたいなものだった。読み進めて、手を止めた。
「あの……」
 書類から顔を上げて、部屋にやってきた職員をまじまじと見つめる。
「この、管理って……」
「はい。あなたの家と財産は秩序の騎空団で管理することになりましたので。その同意書になります。こちらに書かれている内容で問題がなければサインをください。それから、他にしてほしいことがあれば言ってくだされば対応します」
「そ、そんなそこまで……」
 アマルティアを離れるのだから、家はもうなくなるものだと思っていた。それが、まさか、秩序の騎空団が預かってくれることになるなんて誰が思おうか。私を引き取ってくれて、街から出させてくれるだけでも相当大変であろうに、その上一個人の家まで見てくれるなんて。
「私達が未然に問題を防げていればあなたがこんな目に遭うこともなかったのだから、それくらいはさせてほしいと、団長から」
 罪滅ぼし、ということらしい。私は、街から出させてもらうだけで十分だというのに。
「あなたの身の安全を確保するためとはいえ、騎空士になる気もなかった子どもを空に連れて行くのだから、こちらでできることは最大限させていただきたいのです。あなたの問題は、私達が思っていたよりも遥かに根が深い。だから、できる限りのことを全て。あなたの帰る場所も、思い出も守る義務が、秩序の騎空団にはあるのです」
「それも、団長さんが……?」
「はい。そう説明しなさい、と」
 今更、と言うのは簡単だ。今まで何もしてくれなかったのにどうして、と。
 でも、今更でも、手を差し伸べてくれるのはありがたいことだと思う。誰かと食べるご飯はあったかいし、誰かと話すことは楽しいし、誰かが来ることを楽しみにすることができる。それは、とても幸せなことだと思うのだ。
 暴力を振るわれない生活のために手を貸してくれるというのなら、この人達の助けを借りるのなら。だったらもう、全てを任せてもいいと思う。だって、もし何かあったとすれば、それはこの人達が悪いと分かるのだし。それにもう、私に失うものは何もないのだ。両親はいない。高価なものがあるわけでもない。帰る場所がなくなってあてもなく放浪することになるだけで。そう、何も失いはしない。
 だから、もしこの優しさが本物じゃなかったとしても、大丈夫。暴力を振るわれなくなるだけで、この人達には相当の恩があるのだから。何かを勝手に売られたって、持ち去られたって文句は言えない。それ以上のものをくれたんだから、釣り合うようなものを手に入れようとするのは、きっと、悪いことじゃない。
 だったらもう、全てを託してもいいんじゃないだろうか。
「一つ、お願いしてもいいですか」
「はい。何でしょう」
 家を管理してくれるのなら、ついでにもう一つ。これは、壊されたらショックを受けるけれど、この人達には価値はないはず。
「お墓の管理も、お願いしていいですか」
「お墓、ですか」
「はい、両親の、お墓です」
 でも、手入れをしなければ恨まれるともよく言われるものでもある。今は毎月手を合わせているけれど、アマルティアを出てしまうとなれば、長期間放置してしまうことになるだろう。家と同じで、その間何をされるのか分からない。得にはならないし、家から少し場所も離れているが、でも、任せられるのなら任せてしまいたかった。その方が、安心もできる。
「いいですよ。お任せください」
「ありがとう、ございます」
 笑顔で即答してくれた団員に、お礼を言う。そうまでまっすぐ言ってもらえると、嘘ではないような気がするから、信じられる。それに、この人達には、もう凄くお世話になっているし。
 服も食事も住む場所も働く場所も、全部用意してくれた。そんな彼らを疑うというのは、きっと、とても失礼なことだろう。
 書類に最後まで目を通すと、サインをする前に、とそれをもう一度職員の人に渡す。何かを書きつけているようだ。
「メイリエさんの要望、こちらで間違いないですね?」
 示されたところに書かれていたのは、手書きで書かれた文字。そこにはたしかに、今しがた私が言った、“両親の墓の管理も請け負うこと。”と記されていた。
「はい」
「では、こちらにサインを」
 頷くと、今度は最後の紙の一番下の空白部分を示された。言われた通りにフルネームで名前を書いて、職員の人に渡した。
「では、たしかに。……本当にお疲れさまでした。そして、これからの秩序の騎空団の一員としての活躍を期待しています」
「いえ。その、何から何まで本当にありがとうございます」
 ガンダルヴァさんに連れられてから、私はずっと与えられていた。ようやく、返し始めることができるのだ。いや、アマルティアを出ている間も、やっぱり私は『与えられている』ことになってしまうのだけれど。
 でも、ゼロではないから。期待通りとはいかなくても、少しは、役に立てるはずだから。
「メイリエさん」
「はい」
「これまで、よく頑張ってきましたね」
 それが、何を指しているのかなど考えなくとも分かることで。
 私の『当たり前』は、本当は全然当たり前じゃなくて、むしろ悪いことだったのだ、ということを証明するには十分すぎるほどの言葉だった。この人は、秩序の騎空団のただの一員にすぎないけれど。でも、皆がそう思っているのかもしれない。私の置かれていた環境は、絶望的なものだったのだ。
 全てに耐えて、生きている。
 それだけで、私は『頑張っていた』のだ。私自身が、それを認めないとしても。
 生きてきたことを、生きていくことを肯定して、導いてくれる人達に、私は出会えたのだ。
 ……運命というのは、こういうことかもしれない。
 限りなくゼロに近い、全てを変えるとてつもなく大きなきっかけ。私にとっては、虐められていたあの場所で、あの瞬間に私を見下ろしたガンダルヴァさんが、まさに『運命』だったのだろう。
「これからは、秩序の騎空団を頼ってください。もう、あなたは一人ではありませんから」
 小さく頷くと、職員の人はにこりと笑って席を立った。手に書類を抱えて、静かに一礼して部屋を出ていった。私は、やはり無言で職員の人を見送り、その姿が見えなくなった頃に、溜息を吐いた。
 ……一人じゃない、か。
 両親が亡くなってからというもの、私はずっと一人で生きてきた。近所の人達は私を虐めてくる人に他ならなかったし、家への嫌がらせだって何度も受けた。窓ガラスが割られたのも、脅迫文がそこら中に貼り付けられていたことも一度や二度じゃない。街の住民なんて、誰一人として信用できなかった。
 両親の家族だって、二人の結婚を機に会わなくなっていたことを子ども心に知っていた。理由は、街の住民と一緒だ。私という、存在が生まれてしまったからだ。ヒューマンでもなければドラフでもない私のことを、両親以外の人は愛せなかったらしい。弔いにこそ来たものの、すぐにアマルティアを出て行ってしまった。私を、置いて。
 街から出る手段もなければ、街の外に出ることもない。私はただ、島の規則に則った給付金を受け取って細々と生活するしか道がなかった。手に職を付けることもできず、ただ家に閉じ籠るしかない生活。
 それを、どうにか変えたくて剣の腕を磨いた。両親が残してくれたものを、どうにか残したかった。身を守る術であると同時に、食べていくこともできるようになるという剣の腕を磨くことだけが、私の生きがいになった。その辺りに棲む魔物を難なく殺せるようになれば、その道で生活ができる。お金を手にする手段があるのなら、アマルティアを出ていくことができる。そう、信じたがための行動だった。
 実際は、違ったけれど。剣の腕をどれだけ磨いても、多分、その道に行くことはできなかっただろう。
 それでも、『いつか』と『もしも』を信じて、私は一人で鍛えてきたのだ。街を出るため、万が一武器を向けられても自分の身を守るため。そして、力があればこれ以上の嫌がらせを受けることはないかもしれないと信じて。
 来る日も来る日も、暴言と暴力だけが友達だった。肯定的な言葉は一つも掛けられなかった。でも、死んだらきっとそこで終わりだし、あの死の瞬間を思い出せば、自分で死ぬという選択を、どうしても取れなかった。暴言よりも暴力よりも、あの死の生々しい瞬間の方が、怖かった。だから、できなかった。どうあっても、私は生きるしかなかった。
 それが、終わる。苦痛でしかなかった生活が。楽しいことがもう何一つとして残っていない街を、出ることができる。もう、明日に迫ってきたことだ。
 ……やっぱり。
 昨日、出発の日を伝えられてから迷っていたことが、再びむくりと思考を支配し始めた。
 どっちにしようか、悩んで。でも答えを出せなくて。でも、離れたらきっと、後悔しそうで。一晩経ってもずっと悩んでいたけれど。でも、家に関することも全て秩序の騎空団に任せると決めたから。
「……帰ろう」
 ぽつりと、呟いた。
 あの人と、一緒に。ちゃんと、付いてきてもらって。家に、帰ろう。
 帰らないという選択もあれば、一人で帰るという選択もあったけれど。でも、家の管理をお願いする以上、少しは家の片づけをしなければならない。それに、一人で帰ってこれ以上迷惑を掛けるわけにもいかない。ちゃんと言えと言われた以上は、きちんと話を通すのが筋というものだろう。ガンダルヴァさんがいなかったのなら、それはその時考えればいいことだ。
 うん、と頷いてそのままガンダルヴァさんの部屋へと向かう。隣室にある彼の部屋はたった数歩の距離。これまで何度かその戸をノックしたこともあるけど、多分、今までで一番緊張している。家に帰りたい、というその一言を言うだけなのに、何だかとても怖かった。否定なんて、きっとされないというのに。
 でも、いつまでもここにいるだけで、私がうじうじとしていると、ガンダルヴァさんにはバレてしまうから。ごくりと唾を飲んでから、意を決して扉をノックした。しかしいつもは返ってくるはずの返事はなかった。数秒迷ったけれど、でもガンダルヴァさんに会わないとどうにもならないので、失礼ながらノブを回しても、それはガチャリと音を立てて回らない。どうやら、留守にしているらしい。あるいは、鍵を掛けたままお昼寝をしているか。
「……一人で帰ったら、怒られるかな……」
 あれだけ念を押されていたのだ。勝手に帰ったら、きっと怒られることだろう。家に帰ればどうなるか分かってるだろ、と言ってきた人であるし、私を虐めの現場から助けてくれた人でもある。一人で行ってしまえば、物凄く怒られるのは間違いないし、迷惑にもなるだろう。
 となれば、まずはガンダルヴァさんを捜すことから始めなければならない。
 ガンダルヴァさんは秩序の騎空団の中でも有名な人であるようだから、きっと目立つだろうし、それに、彼に近い人に訊けば居場所を言い置いているかもしれない。ひとまずは、誰かに訊いてみようと、人の居ないフロアを出る。階段を下りていると、両手に書類の束を抱えた職員が一人上がってきているのが目に入った。
「あの、すみません」
 声を掛けて、小走りで階段を下りて、その人の前で立ち止まる。きょとんとした顔で首を傾げる人に、「ガンダルヴァさんは」と問うと、数秒考えた後、あぁ、と頷いた。
「お仕事で街に出られました。一日がかりになるとのことで、夕方には戻ると聞いてます」
「……そう、ですか」
「どうかなさいました?」
 明らかに落ち込んだ声を出してしまったせいだろう。職員の人は優しく声を掛けてくれた。言おうかどうか悩んだけれど、言っておいたら、もしかしたらガンダルヴァさんに伝わるかもしれない。
「その、一度家に帰りたくて」
「家……? あぁ、もしかして、何か取りに?」
 怪訝な顔をされたが、私がどういう者なのか分かったのだろう。その人はにこにこと私に問いかけてきた。
「はい。ちょっと、家の整理も兼ねて」
「なるほど」
 頷いて、けれどすぐにその表情が曇った。どうも、ガンダルヴァさんがどんな用で街に下りたのか知っていそうな感じだ。
「私の方からガンダルヴァさんには伝えておきますが……、やはり、夕方まで戻られないかもしれません」
「いいえ。あの、伝えてもらえるだけでもありがたいです」
「分かりました。では、この書類を届けたらすぐに連絡を取ってみますので、戻られるまで待っててくださいね」
 そう言うと、その人は小走りで階段を上がっていった。私の居たフロアよりも更に上に行くということは、秩序の騎空団の中でもそれなりの地位がある人への用なのだろう。それをすぐに終えさせてまで連絡を取ってくれるというのはありがたい申し出だった。あの人だって、忙しいだろうに。
 私はまた、部屋へと戻る。連絡を取ってくれるのならば、ガンダルヴァさんが戻ってくるまで待つのが筋というもの。日が暮れても戻らなかったら、どうするのかまた考えればいい。
 部屋の戸を閉めて、息を吐いた。真新しい制服が、目に入る。いよいよ、ここを発つのだという実感が、今更のように湧き上がってきて、少しだけ、心が浮き立つのを感じた。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -