生きることは耐えること(1)


 来る日も来る日も、やることは同じだった。
 ひたすら話を聞いて、ひたすら必要だと言われた書類を書いてそれを渡す。最低限の読み書きはできるものの、書類には難しい言葉も多く書いてあり、その度に担当の職員に質問しなければならなかったので、一枚の書類を仕上げるのにもそれなりの時間が必要だった。
 履歴書に、誓約書に、注意事項が書かれた紙を読んでからサインが必要な書類だったり。毎日毎日代わる代わる団員の人が部屋にやってきては書類を読み、説明を受け、必要なことを書いて。その繰り返し。それが終わったと思ったらもう日が沈んでいた、なんてことは毎日のことだった。
 今日も書類の束を抱えた団員にお礼を言って送り出した。姿が見えなくなってから扉を閉めてベッドに倒れ込んだ。鍵は掛けない。窓の外はもう真っ暗だったから、いつも通りなら、そろそろ誰かが食事の連れ出しのために私を迎えに来るはずだ。
 秩序の騎空団の生活には、まだ慣れてはいない。建物は凄く広いし、人の数も物凄く多い。その全てを頭の中に詰め込めるほど、私は出来た人間ではなかったらしく、未だに事務方だと名乗った職員の人達の顔と名前が一致させられない。もうそろそろ、ここに来てから一週間が経つというのに、だ。
 一人で出歩けばどこに辿り着くかも分からず、もしも迷ったとしても誰かに道を訊くこともできない。
 そんなことを見透かされていたのか、日々の食事には必ずガンダルヴァさんや彼と一緒にアマルティアに来たという団員の人が私を迎えに来てくれた。ガンダルヴァさんはもちろんのこと、毎日のように顔を合わせる彼らのことは何とか顔と名前が一致している。多分、どこかで見かけてもちゃんと問題なく会話はできると思う。
 新人である私に気遣ってなのか、それとも彼らの生来の性格なのかは分からないが、彼らは気さくに私と話をしてくれる。日常会話というものだって、実に何年ぶりのことか分からないので、はじめのうちはただ相槌を返すか、簡単な返事をするだけだったのだが、昨日くらいからはちゃんと会話ができるようになったと思う。両親がいた頃のように、とまではいかなくても、ちゃんと会話ができるようになってきたようだ。
 話をするうちに笑うこともできるようになってきたみたいで、彼らはそんな私の顔を見るために何かいろいろと話をしてくれる。騎空団のこととか、団員の人のこととか、ガンダルヴァさんに関してのことも、いくつか聞いた。笑い顔が可愛いから少しでも、という理由らしいが、下手に気遣ってもらうのは何だか申し訳がなかった。彼らは、自分達がしたいから気にするな、と言ってくれるけれど。
 そういったことを考えながらぼんやりと天井を見つめていると、コンコンコンとノックがされた。開いています、と返せばそれは即座に開けられた。窓際にあるベッドからでも誰が入ってきたか分かる巨体だった。
「起きてんのか」
「事務の方が先程帰られたばかりで。そろそろ来るのかな、と」
「……ならいい。飯行くぞ」
「はい」
 ベッドから下りてきちんと靴を履いて貴重品と鍵を持って彼の後に続く。鍵を閉めたことを確認して、ガンダルヴァさんの隣に並んで歩いた。
「そういや、制服ができたらしい」
「はぁ」
「持ってくんの忘れたから、飯の後に渡す」
「分かりました」
 制服の採寸をしたのは二、三日前だったと思うのだが、もう出来上がったのか。予め在庫があったということであろうが、それにしたって早い気がする。私の体格は、服を仕立てるのには少しばかり難しいと思うのだが。ここに連れてこられた時、在庫を切らしていて、と医務室の主任さんは言っていたから、全くないというわけではないのだろう。元ある物に手を加えればそれなりに早く仕上がるのか、それとも服飾専門の団員がいるのか。どちらも、という可能性も否めない。
 いずれにせよ、制服ができたということは、今後はそれを着て活動しろということなのだろう。いや、ここにいる間は着ることはないのかもしれないが。
 いよいよ、秩序の騎空団の一人として人前に出ることがあるのか。楽しみ、でもあるけれど、それ以上にやっぱり怖かった。アマルティアを出るとはいっても、私にとって、大勢の人間というのは恐怖であったし、何よりも命を賭けて空の平和を守るという活動ができる自信もなかった。サポートしてくれる、とは言われても、本当に私にこの人を満足させるだけの実力があるとは、到底思えない。
 ガンダルヴァさんが期待しているようなことが、私に本当にできるのだろうか。
 それを考えると、どうしても怖い。
 期待に応えられなかった時、その大きな手が、暴力を振るう手に変わってしまいそうだから。ガンダルヴァさんだけじゃない。今、私に声を掛けてくれる全ての人が、私を虐げるのではないかと思うと、怖い。
 逃げ場なんか、どこにもないから。
 ……でも、変わらないか。
 心の中で小さく笑った。逃げ場がないことを恐れるなんて、今更だった。
 今も、昔も。これからも。逃げ場なんかあるはずないじゃないか。誰に言っても無駄なのは街で暮らしている時からそうなのだから。これからそうなってしまって暴力から逃げられなくなってしまったとしても、この穏やかな時間の方が夢のようで、嘘だったんだって思えばいいだけで。街に居ようが秩序の騎空団に居ようが。誰に言ったって無駄なのは、同じことだ。
 ただ違うのは、今だけは暴力を振るわれない。それだけ。もしも暴力を振るわれたくないのなら、何でもいいから一つくらいはこの人達に認めてもらえるような実力を示さなければならないことだろう。何か一つ認められれば、もしかしたら誰かが庇ってくれるかもしれない。それがこの人か、他の人かは、分からないけど。
 でも、何かを認めてもらえるチャンスは今の私にはあるわけで。それが、未来を変える糸口になるかもしれない、というのだけは何となくだけど、分かる。
 そのきっかけを作るためにも、これからの食事の時間ではちゃんと振られた話題には言葉を返さないと。信頼関係を作り上げるのは、未来を変える小さな一歩でもあるのだから。
「お、今日はカレーか」
 食堂に入ると、すぐにガンダルヴァさんはそんなことを言った。たしかに、辺りを漂う匂いはカレーのもの。私もよく作っていたから、その匂いは馴染みがあった。その匂いは食欲を刺激したようで、急にお腹が空いたように感じた。廊下を歩いていた時は、そんなことなかったのに。食べ物の匂いを嗅いで、気が緩んだのかもしれない。
 いつものようにガンダルヴァさんと並んで待機の列に並ぶ。食事時なのでさすがに人が多かったが、後のことを考えて皆さっさと食事を受け取っているのか、列が進むスピードは速かった。
 二人で揃って食事を受け取り、空いてる席に適当に腰掛ける。一週間も経つと、不思議と安心感も出てくるもので、最初のうちはあまり人の来なさそうな場所でないと安心できなかったのだが、今は適当な場所でもあまり恐怖感を抱かなくても大丈夫だし、ガンダルヴァさんでなく、彼の部下が来ると分かっているのなら一人で待つこともできるようになった。ここは安全だと少しずつ認識しているという表れ、というのはガンダルヴァさんの言葉だ。
「そういや」
 手を合わせてからカレーを食べていると、ガンダルヴァさんが何かを思い出したような表情で口を開いた。その手には豪快な一口分のカレーを乗せたスプーン。
「こっちの方は後は第四騎空艇団に任せるということで、出発が決まった」
「出発……というと、このファータ・グランデを出るということ、ですか」
「あぁ。オレ様はこっちで活動してるわけじゃねぇからな。ヴァルフリーデの野郎に人使い荒くいろんなところの問題に呼ばれて出向いてるだけで。今回アマルティアに来たのだって、そうだ」
 秩序の騎空団は、全空域で活動をしているという。アマルティア島のあるファータ・グランデは第四騎空艇団が統括しているという。ガンダルヴァさんは第七騎空艇団、と言っていたから、このアマルティアには本来いないはずの人なのだそうだ。今ここにいるのは偶然ということで、私がこの人に拾われたのも、また偶然。
 ガンダルヴァさんがここに来なくても、私に関する問題は動いていただろうから、いずれにせよ私は秩序の騎空団にお世話にはなっただろうけれど、ガンダルヴァさんと出会ったことによって私の行く道は大きく変わったらしい。とはいえ、このアマルティアのあるファータ・グランデを出てしまうというのはいっそ良いのではないか、と言われたけれど。
 私を虐げていた人に絶対に会うことがない場所で暮らす。それは、どうしてこの街で私を虐げていたのか、という問題の究明にも繋がるらしい。絶対にここにいないと分かっている状態でこのアマルティアで問題が起これば、それはこの街の住民の性質に大きな問題があると下され、そうでないのなら私を調べていけば問題は自ずと明らかになっていくというわけだ。
 ということは、である。私はそう長い間こちらに留まっていない方が都合が良いということであろう。それに、ガンダルヴァさんは船団長を務めている人でもある。あまり活動している空域を空けておくわけにもいかないであろう。
 私を保護したことでこの街の問題は一定の解決を見て、ここからは聞き込みなどの原因調査になっていくであろうから、ガンダルヴァさんの役目も終わった。大方、そういうことだろう。
「ヴァルフリートの予定が今日決まってな。出発は明後日だ」
「それは……急ですね」
 辛さを抑えてあるカレーを食べながら、呟いた。明後日。となると、この街で私が自由に過ごすことができる時間は、あと一日ということになる。
「お前の方の書類も、今日のでほとんど終わりだって聞いたからな。荷物だってほぼないだろ」
「……それは、まぁ。そうですけど」
 家に帰っていない以上、持っていける荷物というものは存在しない。貴重品は持ち歩いていたし、服などの替えは秩序の騎空団の人に調達してもらったから、それを心配する必要もない。今後は給料という形でお金が貰えるということらしいから、そこから私の欲しいものを買い揃えていけばいいだけだ。
 ……でも、やっぱり。
 それでも、急に出ることになってしまった家に帰りたいと、思う。一度でいい。少しだけでいい。持って行きたいものだってあるから。もちろん、それが簡単に許される立場ではないけれど。
 言えば付いてきてくれるってガンダルヴァさんは言ってくれたけど、でも今言って明日来てくれる保証なんてどこにもない。ガンダルヴァさんだって、暇じゃないんだから。
「どうした?」
 手を止めて考え込んでいると、ガンダルヴァさんが問いかけてきた。見れば、彼の皿はもう空っぽだった。私の方はまだ半分以上ある有様だ。少し、考えこみすぎていたらしい。
「……いえ」
 緩く首を横に振った。そもそも、明日の私の予定も分からないのに、家に帰りたいだなんて言えるはずがなかった。言うとしたら、私の方で用意しなければならない書類を全て揃えてからでないとダメだ。事務の人は明日も来ると言っていたのだし、今言ったらガンダルヴァさん以外の人にも迷惑を掛けかねない。
「何でもないならいいけどな。ともかく、明後日には出発だ。今のうちに欲しいものがあれば言っておけ」
「分かりました。考えておきます」
 水を飲んで頷いた。そうだ、もうほぼ終わっているのなら私の予定が終わってからでも間に合うかもしれない。それに、どうしてもダメそうなら一人で帰ればいいだけだ。自分の、家なんだから。
 カレーを詰まらせないように少しスピードを上げながら食事を進めた。
 この街に居られるのも、あと一日。良い思い出なんか一つもなかったけれど、それでも、寂しい気持ちが私の中にたしかに湧き上がってくるのを感じた。

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