雑居ビルの階段を駆け下りる


「イギリスに行ってから連絡が取れないなんて心配だね。でも、お父さん、どうやってその人を探すの? 向こうに知り合いもいないし、イギリスなんて簡単に行けるわけでもないし……」

 依頼人の女性が帰っていくと、珈琲を片付けながら蘭が言った。確かに心配な事件ではあるが、美人に目が眩んで安請け合いしてしまった感が否めない――娘の問い掛けに小五郎は「うーん」と腕を組んだまま考え込んだ。すると、

「さっきのお姉さん、忘れ物したみたいだから、僕、ちょっと届けてくる!」

 小五郎の隣に座っていたコナンがピョンっと床に飛び降りて言った。はたして、忘れ物などあっただろうか? 蘭がそう考えるよりも先に、コナンは事務所の扉を開けて外に飛び出した。雑居ビルの階段を駆け下りるコナンの背中に「ちょっと、コナン君!」と蘭が静止する声が響いたが、コナンは構わず依頼人の女性のあとを追った。

「お姉さん!」

 依頼人の女性は、それほど遠くへは行っていなかった。米花駅の方へと歩いて行く女性に追いついたコナンが声を掛けると、女性は立ち止まってから振り向いた。

「あら、君はさっき毛利先生のところにいた……」
「僕、江戸川コナンっていうんだ」

 コナンが自己紹介をすると女性は微笑み掛けながら、目線の高さを合わせるように屈み込んだ。

「コナン君ね。それで、私に何か用?」
「うん。あのね、小五郎のおじさんがお姉さんが持ってるハリー・ポッターの本を貸してもらえないかって」
「ハリー・ポッターの本を?」
「水町波奈さんは、ハリー・ポッターの夢を見たって言ってから連絡が途絶えたでしょ? だから、そこに何かヒントがあるかもしれないっておじさんが」

 もちろん、小五郎はそんなこと一言も言ってはいないが、コナンがそう話すと女性は「そういうことなら」とハリー・ポッターの本を貸してくれることとなった。けれども分厚い本が11冊もあるというので、明日にでも女性の自宅に取りに行くことになった。


 *


 翌日、コナンは依頼人の女性の自宅へ車で向かうことになった。けれどもそれは小五郎が運転する車ではない。黄色のフォルクスワーゲン・タイプ1――工藤家の隣に住んでいる阿笠博士の車である。

「失踪事件にその本が関係あるとは思えんがのぅ……」

 事のあらましを聞いた阿笠は半信半疑でそう言った。その隣、助手席に座るコナンは「どうしても気になるんだ」と昨日とは打って変わって落ち着いた口調で話した。

「貴方の家、あれだけ蔵書があるにもかかわらず、ファンタジー小説は一冊もないものね」

 後部座席では、コナンと同様訳ありで同級生となっている灰原哀が座っていた。哀の指摘にコナンは「ははは……悪かったな」とチベットスナギツネのようなジト目で哀を見た。

「そういうおめーは、読んだことあんのかよ?」
「ないけど、話くらいは知ってるわ。ハリー・ポッター・シリーズ――イギリスの作家J.K.ローリングによって著された全7巻のファンタジー小説。1990年代のイギリスを舞台にした魔法使いの少年ハリー・ポッターの学校生活や強力な闇の魔法使いヴォルデモートとの因縁を描いた作品。1巻が1年分となっていて、計7年の歳月が描かれている」
「やけに詳しいな?」
「これくらい誰でも知ってることよ。映画にもなったし、世界中で大ブームだったじゃない。知らないのは普段ミステリー小説のことか事件のことしか考えていないどこかの推理バカくらいなものね」

 辛辣な哀の言葉にコナンは「推理バカで悪かったな」とぼそっと文句を言うと前に向き直った。依頼人の女性が住んでいるマンションがもう目の前に迫っていた。

 女性の自宅へ行くとそこはハリー・ポッターのグッズで溢れた部屋だった。ワンルームの小さな部屋には、昨日見た写真に写っていたローブやどこかの家の家系図らしいポスター、それに犯罪者の手配書のようなものが壁に飾られている。そんな部屋の窓際に置かれたベッドの枕元にお目当ての本は置いてあった。その女性曰く、寝る前に読むのでいつもそこに置いているらしい。

「とはいえ、最近は全く読めていないんだけどね――だから、返すのはいつでもいいわ。時間もかかるだろうし」

 どこか悲しげにそう言う女性に丁寧にお礼を述べてから、コナンと阿笠、それに哀の3人は阿笠の自宅へと戻った。テレビの前に置かれたテーブルの上に借りた本を積み上げ、早速とばかりに深い青の表紙の『賢者の石』を手に取った。そして、ソファーに座ると表紙を開いた。

 読み始めてからしばらくして、コナンの手がぴたりと止まった。ちょうどハリーがホグワーツ特急という汽車に乗ったシーンだ。そこでハリーは空いているコンパートメントに座ることにしたのだが、そのコンパートメントに1人だけ座っていた少女がハリーにこう自己紹介するのだ。

『初めまして。私、ハナ・ミズマチっていうの』


お手紙    応援する

PREV | LIST | NEXT