ここで、まだ生きてる


 イギリスから帰国して数日後――毛利探偵事務所には依頼人の女性の姿があった。相変わらず憔悴した様子で、ほとんど元気はなく、どこか痩せているようにも見える。最初に依頼に訪れた時から僅かに伸びている髪も染め直された様子はなく、根元の黒い部分は初対面のころより増えていた。

「タイミングよくイギリスに行けることになりまして、実際に現地にある水町さんの自宅に行ってみました。中に入ることは叶いませんでしたが、窓から覗いてみたところ、どうも人がいる気配はありませんでした。これ以上調べるとしたら現地の警察に相談して玄関を壊し、家の中に入るしかないでしょう――心苦しいですが、私が出来るのはここまでが限界かと。国内なら警察にも伝手があるのでなんとかなったんでしょうが……」

 申し訳なさそうに報告する小五郎の向かい側で、依頼人の女性は肩を落として俯いていた。こんなにも友人の手掛かりが掴めないことに、言いようのない焦燥感を感じているように思える。毛利小五郎にまで依頼したのにやはりダメだったのか、という思いがあるのだろう。それでも彼女はイギリスにまで行って調べてくれたことをとても感謝して、深々と頭を下げた。

「毛利先生、手を尽くしてくださってありがとうございました」

 無理を言ってこの場に立ち会わせて貰ったコナンは小五郎の隣で、果たして彼女に真実を伝えるべきか否かを悩んでいた。友人が本の中に吸い込まれただなんて、到底信じられるものではない。しかも、現在進行形で水町波奈は本の中で生きているのだ。だからこそコナンはこの摩訶不思議な現象を最初に本を読んだ時に居合わせた阿笠博士と哀以外には話していなかった。簡単に話せるものではないだろう。

 やがて、報告が終わり依頼人の女性が帰るころになると、コナンは前回と同じように女性のあとを追った。雑居ビルの階段を駆け下りて、米花駅の方へと歩いている女性を呼び止める。

「お姉さん! 待って!」

 コナンが大声で呼び止めると依頼人の女性はゆっくりと振り返った。コナンが目の前まで来るのを待って、目線の高さを合わせるように腰を屈める。

「コナン君だったかしら? どうしたの?」
「あの借りていた本だけど……」
「ああ、毛利先生にお貸しした本ね」
「え? ああ! そうなんだ、その本だけど……」

 そういえば小五郎が借りたいと言っているという態で本を借りたのだと思い出して、コナンは慌てて話を合わせた。本の中に吸い込まれてしまうという衝撃的な事実を前にして、そんなことすっかり頭から吹き飛んでいたのである。しかし、小五郎が借りたにしてもコナンが借りたにしても、借りたものはいずれは返さなければならない。いずれはあの本の真実に依頼人の女性も気付くだろう。だったら――コナンはぎゅっと拳を握りしめて、依頼人の女性を見つめた。

「僕、お姉さんだけに話したいことがあるんだ」


 *


 後日、コナンは本を借りた時と同様に阿笠博士と哀を伴って、依頼人の家へと向かった。ハリー・ポッターのグッズで溢れた部屋は賑やかだけれど、どこか物悲しい雰囲気に包まれている。

「それで、私だけに話したいことって?」

 3人を部屋に通し、テレビの前にある小さなローテーブルに向かい合うように座ると、依頼人の女性が訊ねた。ローテーブルの上には麦茶が入ったグラスが3つだけ置かれている。コナンと阿笠博士と哀の分だ。

「この借りていた本のことなんだ」

 コナンはそう切り出すと、借りていた本をローテーブルの上に置いた。

「お姉さんに『賢者の石』を読んでみて欲しい」

 本を借りる際、依頼人の女性は「最近はまったく読んでいない」と話していた。だからこの本の変化に長い間気が付いていなかった。けれどもこれから先もずっと読まないなんて保証はない。それに、こんなに手がかりを探し回って憔悴しているのだ。そんな彼女にこそ、真実を知る権利があるだろうとコナンは思っていた。あとは彼女がそれを信じるかどうかだ。

「信じるか信じないかはお姉さん次第だけど、そこに真実があると僕は思ってる」

 コナンの言葉に怪訝な顔をしつつも依頼人の女性は『賢者の石』を手に取りペラペラと捲り始めた。最初はゆっくりと捲られていたそれは次第に速くなり、途中からは何かに取りつかれたようにしてほとんど本にかぶりついていた。驚きに目を見開いて、震えている。

「これは……波奈がいる……」
「実はお姉さんから本を借りてすぐに僕が目を通した時には、そんな状態だったんだ。僕は最初、誰かが意図的に本の内容を書き換えたんじゃないかとも考えたんだけど、見て――本の内容がどんどん書き変わっていくんだ」

 イギリスにいた当初、ハロウィーンまで進んでいた物語は今やクリスマスの目前まで来ていた。コナンがページを捲り指し示すと、丁度そこの文字が組み替わり、ハナ・ミズマチがクリスマス休暇にロンドンにある自宅に帰る旨の記述が加わったところだった。

「文章が変わった……まるで、この中で生きてるみたい……」

 依頼人の女性が驚いたように呟いた。

「いえ、確かにここで生きてるんだわ。一体何があったのかしら……。ハリーの視点で進んでいるから細かい部分が分からないわね……。でも、ダンブルドアが後見人だってことは保護して貰ったってことよね。悪いことにはならないはず……それに生きてる……ここで、まだ生きてる……」

 それっきり、依頼人の女性はポロポロ泣いて話せなくなった。震える手で本を抱き締めて、「生きてる……良かった……」と繰り返している。彼女にとって、親友の無事こそが一番の願いだったのだろう。

「どうしてこうなったのかは分からない。でも、本に吸い込まれたとしか考えられなかったんだ。小五郎のおじさんにも話してないし、お姉さんにも話すべきか迷ったんだけど……」

 コナンは遠慮がちに告げた。すると、依頼人の女性は首を横に振って袖口で乱暴に涙を拭った。

「いいえ、波奈を見つけてくれてありがとう。小さな探偵さん」

 この2日後、毛利探偵事務所には正式にお礼と依頼の取り下げの連絡が入った。依頼人の女性はそれ以降、本のことを誰にも話す素振りはなかったが、時々コナンの元に訪れては水町波奈の様子を教えてくれた。捜査協力してくれた安室はそれ以降も水町波奈の行方を気にしている様子だったけれど、コナンも依頼人の女性の意思を汲んで、この事件を口外することはなかった。

 そして、この奇妙な事件は静かに幕を下ろした。コナンにとって、忘れられない事件の1つとして――。


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