降り注がれたのは大量の塩


 とある組織の幹部「バーボン」として潜入捜査をしている警察庁警備局警備企画課所属の公安警察官「降谷零」というのが安室の本当の顔だった。そんな降谷が安室透として私立探偵を名乗る傍ら喫茶ポアロでアルバイトを始めたのは、組織に所属していたシェリーに関して探偵の毛利小五郎を調べる必要があったからだった。毛利小五郎を調べるに当たり、その探偵事務所の真下にあるポアロは降谷にとっては非常に都合が良かったのだ。

 そんな風にして降谷は安室透としてポアロで働くことになったのだが、安室透として生活するに当たり必要となったのが家だった。なるべく毛利小五郎を調査しやすい範囲に住む必要があったし、本当に実在する人物として安室透を演じるには、住む家というのは欠かせないものだったからだ。

 そういう訳で、降谷は毛利探偵事務所からそれほど離れていない場所に部屋を借りることになった。しかし、公安警察であり潜入捜査をしているという身分上、空いている部屋ならどこでもいいという訳にはいかなかった。事前に目星をつけた物件を借りている住民の中に怪しい人物がいないか調べる必要があったのである。

 水町波奈の名前を目にしたのはその調査資料の中でだった。降谷が目星をつけた物件は2件あり、そのうちの1つである「サラミス」というマンションの一室に住んでいるのが水町波奈だったのだ。当然資料の中には他にも様々な人物の経歴や家族構成が書かれていたのだが、警察学校時代の友人を次から次に亡くしていた降谷にとって、水町波奈の経歴は特に印象的なものだった。

 調べたところ肉親の死に組織との関わりやその他の事件に関わるような怪しい点は見受けられなかったが、次々と肉親を亡くしている水町波奈に降谷が自分を重ねてしまうのは、至極自然なことだった。しかし、結局降谷はサラミスを選ばなかった。水町波奈に近付くことを本能的に避けたのだ。

 降谷がサラミスすぐ近くにあった「MAISON MOKUBA」の一室を借りることに決め、安室透としてポアロでのアルバイト生活が始まると、水町波奈について考えることは一切なくなっていた。そもそも資料で一度名前と顔写真を見ただけの人物のことをあれこれ考えられるほどの時間が降谷にはなかった。

 そんな日々の中、とある出来事は起こった。

「二度と波奈に近付くな! この最低野郎!」

 それは降谷がポアロでアルバイトをしていた時に起こった。注文されたアイスティーを用意していると突然テーブル席に座っていた女性客が怒鳴り声を上げ、向かいに座っていた男性客に水を浴びせかけたのだ。降谷の隣で洗い物をしていた同僚の榎本梓が驚いて悲鳴を上げたのが、降谷の耳に微かに届いた。

「波奈がどんなに辛い思いをしてこれまで生きてきたかも知らないくせに! 波奈はね、あんたみたいな金目当ての最低野郎が近付いていいような女じゃないのよ!」

 一体何があったというのか――降谷がよくよく見てみると怒鳴り声を上げている女性客の奥にもう1人女性客が座っているのが目に止まった。少し明るめの黒髪にヘーゼルの瞳をした女性で、降谷はその人物の顔が見えた瞬間、驚きのあまり声が出なくなった。少し前に資料で見かけた水町波奈がそこに座っていたからだ。

 それと同時に降谷はどうして女性客が怒鳴り散らしているのか、ある程度の事情を察することが出来た。金目当てと話していたことからするに恐らく、水町波奈は亡くなった肉親の遺産金を結構な額相続していて、それを知った男性客が近付いたのだ。誑かして金を巻き上げようとでも思ったのだろう。きっと怒鳴り声を上げているのは水町波奈の友人で、男性客の目的に気付いて怒りのあまり先程の行動に至ったのだろう。降谷は当たっているであろう自分の推測に僅かに顔を歪めた。すると、

「金と顔以外でこいつに価値があるのかよ」

 水を滴らせながら男性客が開き直った態度で口を開いた。そのあまりの言葉に降谷が拳を握り締めるのと、梓が何かを引っ掴んだのはほぼ同時だった。梓は引っ掴んだ何かを持ってカウンターの中からホールに飛び出しズンズンと騒ぎの起こっているテーブルに向かうと、男性客の頭上からどっさり何かを降り注いだ。

「お客さま、粗相をしてしまい申し訳ございません。お代は結構ですので、とっととお帰りください」

 降り注がれたのは大量の塩だった。まさか店員が客に塩を浴びせるとは誰も想像していなかったのか、友人の女性も水町波奈もポカンと梓を見上げいる。男性客の方も一瞬何が起こったのか分からないとばかりに呆然としていたが、すぐに自分に起こったことを理解すると逆上して立ち上がった。

「テメェ、何すんだ!」

 今度は男性客が怒鳴り声を上げ、梓に掴みかかろうとすると、降谷は急いでカウンターから飛び出した。振りかざされた男性客の腕を押さえ付け、ギリギリと捻り上げるとたまらず男性客が呻き声を上げた。

「お客さま、これ以上騒ぎを起こした場合、業務妨害で警察に通報させていただきます」

 降谷はなるべく安室透の穏やかな口調で告げた。

「それと、先程のお客さまの発言は侮辱罪にあたります。金銭を騙して巻き上げようとする行為も詐欺罪に当たる可能性がありますし、ここにいる女性に対してこれ以上付き纏うことになれば、ストーカー規制法違反の可能性があり警察に届けられることになるかもしれませんね。それでも良ければまだ騒ぎを続けられますか?」

 ニッコリと笑みを張り付けてそう言ってのけると、男性客もこれ以上騒ぎを起こすのはマズイと思ったのだろう。やがて逃げるようにしてその場を去っていった。

「あの、お騒がせしてすみません!」

 しばらくの間呆然とした様子で席に座っていた水町波奈だったが、梓が怒りに震えながら「入口にも塩を撒いておきます! あんなの許せません! 女の敵です!」と言ってポアロを出て行くと、ハッとしたように立ち上がり降谷や周りの客に対して頭を下げた。降谷は柔和な笑みを浮かべながら「大丈夫ですよ」と答えた。周りの客も平気だというように声を掛けて、近くに座っていた中年女性は「貴方美人なんだからきっとそのうち誠実でいい男を見つけられるわ! あんな最低な男相手にしちゃダメよ!」と言って、持っていたらしい飴玉を何個も水町波奈に握らせていた。

 そのことがきっかけで私立探偵としての名刺を渡したこともあり、降谷は水町波奈と顔見知りとなった。あんなことがあったので落ち込んでいるかと思っていたが、彼女は意外とケロリとしていて「私には例の友人がついてるので平気です」と笑っていた。もしかしたらこれまでも似たような経験をしていて、強くならざるを得なかったのかもしれないと降谷は考えたが、そのことを訊ねることはなかった。

 あれから一度友人の女性と街ですれ違って話をする機会があったが、「あの子は今でこそこういうことも笑ってますけど、昔は大変だったんです。あの子のことを悪く言ったり、面白おかしく噂する人が多くて――だから、私があの子の一番の味方でいるって決めてるんです!」と話していて、水町波奈がケロリとしていられるのはこの友人の存在が大きいのだろうと降谷は思った。

 友人の女性もそうだが、近所に住んでいるということもあり、この出来事以降、トレーニングをしている最中や買い物をしている時など、降谷は水町波奈と顔を合わせる機会がグンと増えた。もちろん、顔を合わせれば挨拶をしたし、時には雑談もしたが、降谷は顔見知りという距離感を保ったし、彼女もまた降谷に踏み込んで来ることはなかった。

 けれども水町波奈は降谷にとって「特別な顔見知り」だった。小さな名探偵から失踪したことを聞かされた時、動揺してしまうくらいには――。


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