口を開けばまるで幼子のような


 ダイアゴン横丁で彼女と話してから幾日か過ぎ、ホグワーツの5年目が始まった。あの日、夜の闇ノクターン横丁へ行っていた母が思ったよりも早くに戻ってきてあの後彼女がどうなったのか分からないが、僕がその場を去るまで彼女は霧となって消えることはなかった。恐らく、召喚魔法の完成が本当に近いのだろう。

 しかし、一体誰がこんなおぞましいことを考えるというのか。僕は自分が調べ上げた召喚魔法について思い出して思わず身を震わせた。あれは手を出してはいけない魔法だ。あんなものを使おうとしているのは果たして誰なのか――いや、本当はもう検討がついている。そんな残虐なことをいとも簡単にやってのけるのは1人しかいない。名前を言ってはいけない例のあの人だ。

 僕はあの人を尊敬していた。あのお方こそが古き良き魔法界を取り戻してくれるのだと信じて疑わなかった。しかし、召喚魔法について調べれば調べるほど分からなくなる。あの人は本当に僕の理想だったのだろうか? 僕は本当にそれを求めていたのだろうか?僕は――。

 そんなことを永遠と考えながら1日の授業を終え、今日も僕は図書室に向かっていた。召喚魔法について調べている最中に発見したのだが、あそこの一番奥の席は穴場でほとんど誰も立ち寄らない。そこを見つけたからというものその席で誰にも邪魔されずに静かに勉強するのが僕のお気に入りだった。しかし、

「なんでここに……?」

 例の席にやってくるとそこには先客がいた。今の今まで僕の頭の中を占領していたハナ・ミズマチその人である。彼女は僕がいつも座っている席に腰掛けて、テーブルに顔を突っ伏してスヤスヤと眠っていた。その表情はどこかあどけなくて、本当に元の年齢は僕よりずっと大人なんだろうかと疑いたくなるが、今目の前にあるものこそがここ数年僕が思い描いていた理想そのもののような気がしていた。

 そう、僕はいつしか彼女に憧れていたのだ。
 あの人を中心に回っていた世界が彼女を中心に回っていたのはいつからだろう。あの人の記事を集めなくなり、彼女に掛けられた魔法を調べることに夢中だったのはいつからだろう。彼女が僕の隣でニコニコ笑っていると驚くほど心が穏やかになり、「レギュラス」と名前を呼ばれると満たされた気分になったのはいつからだろう――この感情に名がついたのは、果たしていつからだろうか。

「ハナ」

 名前を呼ぶと彼女の瞼が震えてゆっくりと眩しいくらいに輝くヘーゼルアイが姿を現した。彼女は辺りをキョロキョロとして、それから僕の姿を捉えるとハッとしたように上体を起こした。

「レギュラス!」
「静かに――ここは図書室です」
「あ、ごめんなさい。でも、良かった。貴方に会いたかったの。ねえ、実はあれから本当に名前を聞かれたの」

 彼女はそう言って、僕とダイアゴン横丁で別れてからの話を聞かせてくれた。彼女はダイアゴン横丁から漏れ鍋を通り、無事にチャリング・クロス通りに戻ったあと自宅に戻ったらしいのだが、なかなか元の世界に帰ることが出来ずにいたらしい。そこで、眠ってみたところ甲高い声の男に名前を問われたのだという。しかし、彼女は名前を教えなかった。

「どうしてですか?」

 僕は眉根を寄せて訊ねた。

「無事でいられる方法は名前を教えることだと言ったはずです。このまま教えないでいたら貴方は危険なんです」
「分かってたの。それは分かってたんだけれど、私、今の貴方にどうしても話したいことがあったの。どうしても――」

 彼女はどこか思い詰めたような顔をして僕を見ていた。その表情を見るにどうやら穏やかな話ではないらしい。それを見て、余程重要な話なのだろうということはすぐに察することが出来たものの、その内容を聞くことが僕には出来なかった。彼女がぎゅと握り締めた拳が突然霧に包まれ始めたのだ。

「そんな――もう少しだけ――お願いよ」

 時間がないことに気付いたのは彼女も同じだった。霧は次第に範囲を広げ、濃さを増し、彼女をこの場から連れ去ろとしていた。宝石のように美しいヘーゼルの瞳からポタリと涙が落ちて、その瞬間、僕は衝動的に彼女を抱き締めた。

「レギュラス――」

 小さく儚げな彼女の身体を抱き締めてきつく背中に腕を回すと、胸元で驚いたような彼女の声がくぐもって聞こえた。僅かに身体を離し、そんな彼女の顔を覗き込むと彼女はポロポロと涙を零しながら、僕に抱き締められている驚きと戸惑いの表情を浮かべていた。

 涙で滲んだ瞳と視線が絡むとそれ以上言葉を交わすことは出来なかった。口を開けばまるで幼子のような子どもじみた我が儘しか出てこない気がして、けれどもこの胸に燻る衝動を抑えきれなくて、僅かに震えている彼女の唇を自らのそれで塞いだ。

 彼女は確かにその瞬間、僕の腕の中にいた。


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