The beginning - 005

2. メアリルボーンの白昼夢



 ロンドンの中心地にあるキングズ・クロス駅から電車で20分ほどのところにあるメアリルボーンという地域に、母方の祖父母の家はあった。日本を夜の7時に旅立った私がそんなメアリルボーンの家に辿り着いたのは、翌日の夕方のことだった。13時間のフライトでヒースロー空港に到着し、そこからメアリルボーンまで1時間ちょっと掛かるので、なかなかの移動時間である。

 メアリルボーンの自宅近くには、かの有名なベイカー通りがあったり、少し足を延ばせば大英博物館だってある。結構高級住宅街なのだ。祖父母が亡くなった時に売却して手放すことも考えたけれど、相続した遺産金で維持費はなんとかなりそうだったので、そのまま所有し続けることにしたのだ。将来はこっちに住んでもいいかもしれない、と少し考えたのも売らなかった理由の1つだ。

 キングズ・クロス駅から20分とはいえ、ヒースロー空港からメアリルボーンに行くまでにはキングズ・クロス駅は経由するわけではないので、あの大きな駅には寄らずに自宅に辿り着いた。久し振りの我が家は年末年始にこちらを訪れてから掃除をしていないので、少し埃っぽい感じがするが、こちらは日本より埃が積もらない気がする。気候の違いだろうか。日本だとすぐに埃が積もるんだけど。

 ロンドンに滞在するのは今日から1週間の予定だ。ゴールデンウィークの前後で有給休暇を取ったので、それくらい滞在しても大丈夫なのである。祖父母の墓参りに行ったり、掃除をしたり、観光をしたりしてロンドンを満喫する予定だ。

 因みに日本では賃貸マンション住まいだったりする。両親は持ち家はなかったし、父方の祖父母も持ち家はなかったからだ。なので私も日本では安い家賃のマンションに住んでいる。それもあってか、年に数回こちらに来るのが私の楽しみでもあった。高級住宅街にある戸建てなんて、夢がありすぎる。

 メアリルボーンに家があるのは、母方の祖父が会社の重役で、収入に余裕があったからだ。どこの会社かは覚えていないのだけれど、大企業だったらしい。そのときからの貯金を私が相続して、全額家の維持費に当てている、というわけだ。遺産で遊んで暮らせたりもするだろうけど、それをしたら家の維持は出来ないからね。

 着いて早々にベッドルームやバスルーム、トイレなど、最低限使う所だけはなんとか掃除を済ませた。ここまでするともう移動疲れもあってかクタクタで、夕食は途中で買ったものを食べ、早めにお風呂に入ることにした。なんと、聞いて驚くなかれ、この家のお風呂は猫足のバスタブである。祖母が憧れていたんだって。

 バスルームはとても夢が詰まっている。白いタイル貼りの床に猫足のバスタブが置いてあって、周りには観葉植物――全部フェイクグリーン――が置かれ、オーロラ色の磨りガラスの窓辺には円形のドリームキャッチャーがゆらゆらと揺れている。そういえば、海外ではバスルームとトイレが一緒なことが多いイメージなんだけれど、祖母は日本人だったから、この家は別になっている。なんて素敵な家なんだろう。おじいちゃん、ありがとう。


 *


 とても疲れていたからか、久し振りに夢を見ずに朝を迎えた。早起きが出来て清々しい気分で、朝食はどこかのカフェで食べようと、着替えて軽くメイクをしてから家を出た。それから花を買って、祖父母の墓参りに行こうと思う。

 途中電車に乗るものの、結構歩かなければならないので、歩きやすい靴で出掛けることにした。予定通りカフェで朝食を食べ、花屋さんで花を買い、祖父母の墓がある墓地へと向かう。歩くには大分遠いけど、祖父母の墓からもう少し足を伸ばすとビッグ・ベンがある。有名だよね、ビッグ・ベン。今日は行かないけど。

「ハナ?」

 無事に祖父母の墓参りも終わり自宅へ帰る途中、チャリング・クロス通りを歩いていると、誰かに声を掛けられて私は振り返った。こちらに知り合いはいないから人違いかもしれないと思いつつも見てみれば、本屋とレコード店の間にある薄汚れたパブの前に見慣れた顔が立っているのが見えた。まさか。

「やっぱり! ハナじゃないか!」

 こちらを見てパッと笑顔を見せたのは、ジェームズだった。私はこちらに駆け寄ってくる彼を見つめたまま、その場に縫い付けられたかのように動けなくなった。まさか、そんなことあり得るはずがない。これは現実だったはずだ。それとも、これはまだ夢なのだろうか。私はまだ、自宅で眠っている、とか。いや、そうに違いない。夢を現実と勘違いするだなんて、疲れているのかも。

 パブの入口のガラスに映った自分の姿を確認すれば、私は10代の女の子だった。ホグワーツ特急の中でも見た、あの夢の中の姿だ。

「こんにちは、ミスター・ポッター」

 これはまだ夢の中だ、と混乱する頭の中を切り替えて彼の名前を呼んだ。ホグワーツ特急の中で会った時よりも幾分か大人びているところから察するに、前に会った時からまた期間が大分空いてしまったらしい。

「やあ、ハナ。今日は1975年8月31日だよ」
「1975年? えーっと、2年も経ったの?」
「そうさ。僕達明日から5年生だよ。あ、例の部屋友好的に使わせて貰って――」
「ジェームズ!!」

 ジェームズが嬉々と話し始めたと思ったら、突然パブから年配の男性が出てきて彼の首根っこをむんずと掴んだ。まるで猫のように男性に捕まってしまったジェームズは明らかに「しまった」という顔をしている。

「ダイアゴン横丁には自由に行ってもいいと言ったが、マグルの街に出ていいとは言っていないよ、ジェームズ」
「違うんだ。出て行こうなんて思ってないよ。友達を見つけただけなんだ」

 マグルといえば、確か非魔法族のことだっただろうか。ジェームズのことだから、きっとロンドンの街に繰り出そうとしていたんだろうなとは思ったが、彼の名誉の為に、そのことは口に出さないでおいた。私ってば優しい。

「友達……?」
「ほら、目の前にいる女の子がそうだよ」

 男性は今まで私の存在に気付いていなかったらしい。ジェームズの言葉でようやく私に気付い男性は、慌ててジェームズを離すと「失礼」と大袈裟に咳払いをした。

「見苦しいところを見せてしまったね。それに、こんなに可愛いお嬢さんに気付かなかったとは。ジェームズの父のフリーモント・ポッターだよ」
「ハナ・ミズマチです。お会い出来て光栄です」

 自己紹介をして挨拶を交わすと、ここではマグルに見られるからと目の前のパブに入ることになった。漏れ鍋という名のそのパブは最近読んでいる『賢者の石』の中に登場していた気がする。確か、ハリーが初めてダイアゴン横丁に行く時に。

「君も今日は漏れ鍋に泊まるのかね?」

 漏れ鍋は言っちゃなんだが、薄汚れたちっぽけなパブだった。中は暗くて、隅の方で老婦人がお酒を飲んでいたり、また違う席では中年の男性が長いパイプをくゆらしている。

 フリーモントさんの言葉を聞きながら私は、キョロキョロと辺りを見渡した。この先にダイアゴン横丁があるだなんて信じられない。あとで、ちょっとだけでいいからジェームズが連れて行ってくれないかなぁ。

「私達も今日はここに泊まって、明日キングズ・クロスに行く予定なんだ」

 つい初めての漏れ鍋に夢中になってしまった。申し訳なく思いながらフリーモントさんに視線を戻すと、私は首を横に振った。

「いいえ、私の家はここから近いので――」
「ここから近いだって?」

 私が言葉を言い切ろうかというところでジェームズが割って入ってきた。見てみれば、「行きたい!」と思っていることが丸分かりの爛々と輝いた目でこちらを見ている。そんなにマグルの街に繰り出したいのだろうか。

「父さん、行ってもいい? もうすぐシリウスとリーマスが来るから3人で」
「3人で押し掛けたらご迷惑だろう、ジェームズ」
「心配いらないよ。僕達はいつだって紳士的さ。それにほら、名誉ある監督生・・・・・・・に選ばれたリーマスがいるし――」

 フリーモンさんは困ったように「うーん」と唸った。どうやら懇願する息子に「NO」と突き付けることを忍びないと思っているようだった。きっと、息子の願いを出来るだけ聞いてあげたいと考えているのだろう。それだけで、ジェームズが彼にとても愛されて育っているということが分かって、私も少し両親が恋しくなった。いけないいけない。センチメンタルになるところだった。

「私は、3人とも大歓迎です」

 沈みかけた気持ちを誤魔化すように、私は笑顔で告げた。