Make or break - 036

4. マグルのキャンプ場



 森の中の小道を20分ほど歩き、私達は遂に森の反対側に出た。鬱蒼と生い茂る木々が途切れ視界が広がると、目の前には巨大な競技場が姿を現し、道行く人々は皆一様に上を見上げ、興奮したように囁き合った。競技場は壮大な黄金の壁に囲まれ、両端がどこにあるのかまるで見えなかったが、ウィーズリーおじさん曰く、10万人収容出来るらしく、日本の国立競技場より遥かに大きいことは確かだった。

「魔法省の特務隊500人が、丸1年がかりで準備したんだ。マグル避け呪文で一分の隙もない。この1年というもの、この近くまで来たマグルは、突然急用を思いついて慌てて引き返すことになった……気の毒に」

 1番近くの入口に向かうと、そこには既に競技場のスタッフである魔法使いや魔女達が待ち構えていた。スタッフの人達は差し出されたチケットを検め、どの席へ向かえばいいのか大声で叫んでいる。ウィーズリーおじさんがチケットを差し出すと、スタッフの魔女がチケットを確認して叫んだ。

「特等席! 最上階貴賓席! アーサー、真っ直ぐ上がって。1番高いところまでね」

 大勢の観客共に私達は競技場の中へと吸い込まれていった。競技場の階段は、剥き出しのコンクリートではなく深紫色の絨毯が敷かれ、みんな自分の席へと向かうためにその階段を上がった。上がり始めた時、私達の前にはたくさんの観客が階段を上がっていたけれど、等間隔に設けられた左右の扉からそれぞれのスタンド席へと消えていき、最上階へ着くころには私達の前を歩く人達はいなくなっていた。

 最上階の貴賓席は、両サイドにある金のゴールポストのちょうど中間に位置していた。小さなボックス席で、紫に金箔で装飾が施された椅子が20席ほど、2列に並んでいるばかりだ。私達の席は前列で、みんな一列になって座り、私はハーマイオニーとビルの間だった。また気を遣ってくれたのだと分かってビルに小声で「ありがとう」と言うとビルは爽やかに笑った。

 観客席からピッチを見下ろすと、そこにはホグワーツのそれとは比べ物にならないほど素晴らしい光景が広がっていた。ホグワーツの競技場の収容人数は1000人ほどなので、観客席だけでも圧巻だ。神秘的な金色の光がまるでスポットライトのように辺りを明るく照らす競技場内には、細長い楕円形のピッチに沿って観客席が階段状に空高く迫り上がっている。貴賓席の真正面には、巨大な掲示板があり、さながらマグルの競技場の電光掲示板のように魔法で次々に広告が現れてはサッと流れて消えていった。

 ブルーボトル――ご家族全員にピッタリの箒――安全で信頼出来て、しかも防犯ブザー付き……

 ミセス・ゴシゴシの魔法万能汚れ落とし――手間知らず、汚れ知らず……

 グラドラグス魔法ファッション――ロンドン・パリ・ホグズミード……

「うわあ、本当にすごい」

 私は競技場のあちこちを見渡しながら言った。

「絶対オリンピックの競技場よりずーっと大きいわ。セドはどの辺りかしら……」
「セドリックのお父様も魔法省にお勤めだからきっと上の方じゃないかしら」

 観客席を覗き込みながらハーマイオニーが言った。けれども、近くの席以外は観客席に座る人々の顔なんて見えるはずもなく、私は少し残念に思った。

「キャンプ場が違うから入口も違うし、きっとここからは見えないのね……」
「彼もキャンプ場が一緒だったらよかったのに。でも、朝一緒の移動ポートキーだったのは驚いたわ」
「昨日、ハナ宛に手紙が来たんだ」

 話が聞こえたらしいビルがニヤッと笑いながら言った。

「その分だとやっぱり今朝会えたみたいだな」
「えー! そんなこと昨日言わなかったじゃない!」

 ハーマイオニーが非難がまい声を上げて私を見た。

「じゃあ、貴方達、お互いに今朝会うのを知っていたのね。ああ、でも、貴方ったら学年末の時、本当にぎこちなかったから、今朝、話をしている姿を見てホッとしたのよ。それに、移動ポートキーを使う時、セドリックったら、とってもスマートだったわ――」

 うっとりした様子のハーマイオニーがそう言った途端、2席向こうに座っていたハリーが「ドビー?」と訊ねる声が聞こえて私は驚いてそちらに視線を向けた。ハリーは後列の奥の方を見ていて、私もその視線を辿って奥の席を見てみると、後列の奥から2番目の席に屋敷しもべ妖精ハウス・エルフが1人座っているのが分かった。短い足を椅子の前方にちょこんと突き出し、大きなキッチンタオルを古代ローマ人のように身に纏っている。

 屋敷しもべ妖精ハウス・エルフは、両手で顔を覆って俯いていたが、ハリーに呼びかけられると顔を上げて、指を開いた。大きな茶色の目と大きな丸鼻が指の間から覗いている。ドビーでも、ホグワーツで働いている子達とも違う、私が初めて会う屋敷しもべ妖精ハウス・エルフだった。

「旦那様はあたしのこと、ドビーってお呼びになりましたか?」

 屋敷しもべ妖精ハウス・エルフが、怪訝そうに甲高い声で訊ねた。この声の高さは女の子だろう。私はホグワーツで働いている女の子の屋敷しもべ妖精ハウス・エルフ達の声の高さと比べながらそう思った。ドビーは、1年前にハリーが自由にしてあげる前までマルフォイ家に仕えていたけれど、彼女も同じようにどこかの魔法使いの家に仕えているに違いない。

「ごめんね。僕の知っている人じゃないかと思って」

 ハリーが謝った。その様子をロンとハーマイオニーも振り返って見つめ、ウィーズリーおじさんも興味深そうに振り返っている。私も両手で顔を覆ったままの屋敷しもべ妖精ハウス・エルフを見ながら、一体どこの家に仕えている子だろうかと考えた。先程から顔を覆っているところを見るに、高いところが怖いのではないだろうか――この子の主人は果たしてそのことを知っているのだろうか。考えていると、屋敷しもべ妖精ハウス・エルフが続けた。

「でも、旦那様、あたしもドビーをご存知です! あたしはウィンキーでございます。旦那様――」

 ウィンキーと名乗った屋敷しもべ妖精ハウス・エルフはやっぱり顔を覆ったまま、指の隙間からハリーを見遣って答えた。大きな茶色の目がハリーの顔をジーッと見つめ、そして、額の辺りを見たと思ったら、感動で打ち震えたようになって続けた。

「貴方様は、紛れもなくハリー・ポッター様!」
「うん、そうだよ」
「ドビーが、貴方様のことをいつもお噂してます!」

 ウィンキーは、もう少しハリーの姿をよく見ようと両手を下にずらした。どうやらドビーとはよく話をするらしい。ホグワーツの屋敷しもべ妖精ハウス・エルフ達もそうだったけれど、屋敷しもべ妖精ハウス・エルフは独自の連絡手段などがあるのかもしれない、と私は思った。でなければ、各家々に仕えながら頻繁に会えるはずがない。

「ドビーはどうしてる? 自由になって元気にやってる?」

 ハリーが訊ねると、ウィンキーはそんなのとんでもないとばかりに首を横に振った。去年の10月にホグワーツの屋敷しもべ妖精ハウス・エルフの子達が教えてくれたけれど、仕事に手当てを貰おうとする屋敷しもべ妖精ハウス・エルフを雇う魔法族はほとんどいないし、その考えは仲間内からも嫌煙されている。みんなが、手当てを貰うなんて不名誉だ、と考えているのだ。

「決して失礼を申し上げるつもりはございませんが、貴方様がドビーを自由になさったのは、ドビーのためになったのかどうか、あたしは自信をお持ちになれません」

 ウィンキーが悲観的な声で言った。

「どうして? ドビーに何かあったの?」
「ドビーは自由で頭がおかしくなったのでございます、旦那様。身分不相応の高望みでございます、旦那様。勤め口が見つからないのでございます」
「どうしてなの?」
「仕事にお手当てをいただこうとしているのでございます」
「お手当て?」

 ハリーはポカンとして訊ねた。

「だって――どうして給料をもらっちゃいけないの?」

 すると、ウィンキーはそんなこと考えるだけでも恐ろしいという顔で少し指を閉じた。屋敷しもべ妖精ハウス・エルフにとって最大の名誉は、主人に生涯無償無給で仕えることだ。彼らは自らの主人の役に立つことが生き甲斐であり、自らの存在意義だ。多くの屋敷しもべ妖精ハウス・エルフが、手当てを貰おうとするドビーは不名誉・・・だと考えるのは、そう言った思想があるからなのである。

 そして、屋敷しもべ妖精ハウス・エルフは、やりきれなほどの仕事を与えられることが大好きだ。無償無給で働いてくれるにもかかわらず、比較的裕福な家にしかいないのは、そちらの方がやることがたくさんあるからだ。1日中広い屋敷の中を掃除したりするのが好きだし、ドビーも恐らくそうだろう。

 ただ、裕福だからといって、手当てを欲しがる屋敷しもべ妖精ハウス・エルフを雇うかと言えば、答えは「NO」だ。他に無償無給で働いてくれる人がいるのに、敢えてそちらを選ぶ魔法族はほとんどいない。私の家でドビーを雇ってもいいけれど、私は働いてないのでそう簡単に給料をぽんぽんあげられない上、仕事があまりなくてドビーは退屈だろう。

屋敷しもべ妖精ハウス・エルフはお手当てなどいただかないのでございます!」

 決して自分はそんな不名誉な・・・・妖精ではないと言いたげにウィンキーは押し殺したようなキーキー声で言った。

「ダメ、ダメ、ダメ。あたしはドビーに仰いました。ドビー、どこかよいご家庭を探して落ち着きなさいって、そう仰いました。旦那様、ドビーはのぼせて、思い上がっているのでございます。屋敷しもべ妖精ハウス・エルフに相応しくないのでございます。ドビー、貴方がそんな風に浮かれていらっしゃったら、仕舞いには、ただの小鬼ゴブリンみたいに、魔法生物規制管理部に引っ張られることになっても知らないからって、あたし、そう仰ったのでございます」
「でも、ドビーは、もう、少しぐらい楽しい思いをしてもいいんじゃないかな」

 戸惑ったようにハリーが言った。けれども、ウィンキーは顔を覆った手の下で、きっぱりと言った。

「ハリー・ポッター様、屋敷しもべ妖精ハウス・エルフは楽しんではいけないのでございます。屋敷しもべ妖精ハウス・エルフは、言いつけられたことをするのでございます。あたしは、ハリー・ポッター様、高いところがまったくお好きではないのでございますが――」

 ウィンキーはボックス席の前方をチラリと見遣って、ゴクリと生唾を飲んだ。

「――でも、ご主人様がこの貴賓席に行けと仰いましたので、あたしはいらっしゃいましたのでございます」
「君が高いところが好きじゃないと知ってるのに、どうしてご主人様は君をここに寄越したの?」
「ご主人様は――ご主人様は自分の席をあたしに取らせたのです。ハリー・ポッター様、ご主人様はとてもお忙しいのでございます」

 そう言って、ウィンキーは隣の空席に頭を傾げると、またハリーの方を指の隙間からチラリと見遣って続けた。

「ウィンキーは、ハリー・ポッター様、ご主人様のテントにお戻りになりたいのでございます。でも、ウィンキーは言いつけられたことをするのでございます。ウィンキーはよい屋敷しもべ妖精ハウス・エルフでございますから」

 それから、ウィンキーはボックス席の前端をもう一度恐々見て、それからまた完全に手で目を覆ってしまった。確かに屋敷しもべ妖精ハウス・エルフは働くことや主人の役に立つことが大好きだ。私はそんな彼らの思想を否定しないし、働き者の彼らが大好きだったけれど、一方で一部の魔法族が逆らわないからといって、屋敷しもべ妖精ハウス・エルフ達に怖い思いをさせたり、手酷く扱ったりするのは好きではなかった。

 恐らくは、私と同じように感じたのだろう――隣では、ハーマイオニーが眉間に皺を寄せてウィンキーを見つめていた。