Make or break - 027

3. 夢

――Harry――



 ハナが教えてくれた変な夢を見なくなる方法というのは、「ザゼン」というものだった。姿勢を正して座った状態で精神統一を行う仏教の基本的な修行法の1つだという。朝食後、ハリーはハナに連れられて小さな大草原に行くと、池のほとりにあるブナの木の下に座り、早速このザゼンをすることになったのだが、開始数分でこれが嫌になった。普段あんなに優しいのに、ハリーがザゼンをしている間、ハナがとにかく厳しかったからだ。ザゼンの間、ハナはハリーの背後を行ったり来たりし続け、ちょっとでも身じろぎをすると厳しく注意した。

「自分の意識と対峙せず、呼吸を整えることに集中して」

 こんなことをして本当に夢を見なくなるのだろうか。ハリーがそんなことばかり考えていると、そのことを見透かしたように背後からハナの鋭い声が飛んできてハリーはげんなりした。ハナ曰く、ザゼンの間は雑念を取り払って心を空にし、すべての感情を棄て去らなければならないらしいが、そんなこと本当に可能なのだろうか? 自分の意識と対峙しないって、どういうことだろう? けれども、ハナのやることに一切反対しないところを見るに、シリウスもリーマスもザゼンは必要だと考えているらしかった。

「これで本当に夢を見なくなるの?」

 10分は経ったかというころ、とうとう我慢出来なくなってハリーは訊ねた。振り返ってみるとハナが難しい顔をしてハリーを見返している。

「ハリー、貴方が私を信じるのなら、これを毎日続けて欲しい。朝起きた時でも寝る前でもいつでもいいの。とにかく、毎日1分でもいいから続けるのよ」
「毎日?」

 まさか、毎日やれと言われるとは思わず、ハリーはギョッとした。こんなことを毎日続けるなんてとてもじゃないがやりたくなかった。けれども、ハナは本気だった。本当にこれがハリーの役に立つと信じている顔だ。

「続けなければ、貴方はまたヴォルデモートの夢を見るわ。あれがただの夢ではないと、貴方は分かったはずよ」

 ハナがそう言って、ハリーは奇妙なひっかかりを覚えた。ハナの口調がまるで自分も経験したことがあるかのように聞こえたからだ。思わず、ハリーは訊ねた。

「もしかして、ハナもあの夢を見たことがあるの?」
「そうよ。だからハリー、必ず毎日やって。心を空にして感情を棄て去ることが出来れば、悪いものから自身の心を守る助けになるわ。吸魂鬼ディメンターと対峙した時と同じよ。恐怖を棄て去り、集中出来なければ、守護霊を創り出すことは出来ないわ」

 ハナはきっとザゼンをして、変な夢を見なくなったに違いない――ハリーはそう思った。だからこそハナはハリーも出来るようにと厳しく教えているのだ。きっと、言われたとおり毎日ザゼンをやれば本当に夢を見なくなるのだろう。そう考えたものの、果たしてハナと同じように出来るのか、ハリーには分からなかった。だって、ハリーにはどうやったら自分の意識と対峙しないように出来るのかさえ分からないのだ。

 それでも、確実に変な夢を見なくなる方法があるということは、ハリーの気分を上昇させるのに一役買い、ザゼンを終えて4人でイレブンジスティーを楽しむころには明後日に控えているクィディッチ・ワールドカップを楽しみにする余裕が出てきた。予言者新聞によるとハリーが観戦する決勝戦は、アイルランド対ブルガリアだという。アイルランドは準決勝でペルーをペシャンコにしてしまうくらい強いチームだが、その対戦相手であるブルガリアにもビクトール・クラムという素晴らしいシーカーがいた。ハリーはイギリス勢を応援していたが、イングランドはトランシルバニアにペシャンコにされたし、ウェールズはウガンダにやられ、スコットランドはルクセンブルクにボロ負けし、残るはアイルランドだけだった。

 ハリーはこれまで予言者新聞で読んできた試合結果を思い出しながら、ウィーズリー家に向かうための荷造りをワクワクとした気分で行った。なんたって初めてのクィディッチ・ワールドカップだ。マグルにもワールドカップやオリンピックなどのスポーツイベントはあったが、当然ダーズリー家がこれらのイベントにハリーを連れていくはずもない。ダーズリー家が進んでハリーを連れていくとしたら、せいぜいリトル・ウィンジングのウィステリア通りにある猫臭いフィッグばあさんの猫屋敷ツアーくらいなものだろう。

 誕生日にハーマイオニーから貰った砂糖なしスナックがまだたくさん残っていたので、ハリーはお菓子がたくさん詰まっている魔法の巾着袋の中にそれを入れると、忘れ物がないようにトランクに教科書や服を詰めていった。しかし、この夏休みの間にハリーの服は倍以上に増えていたので、とてもじゃないけど全部は入りきらない――ハリーはトランクの中から教科書などを全部抜いて巾着袋に移すとあれこれ試行錯誤しながらどうにかして服を全部持っていこうとした。ダドリーのお下がりを捨ててもよかったが、それは次の夏にダーズリー家で過ごす用に取っておくことにした。もしハリーがダーズリー家で真新しい服を着ていたりしたら、捨てられてしまうかもしれないからだ。

 いつもはのろのろと時間をかけなければすぐに終わってしまう荷造りも今回ばかりはすぐには終わらなかった。教科書を全部抜いても服がトランクに入らなかったからだ。それにハリーの父親がハナに宛てた手紙――両親がどうやって付き合い始めたかの馴れ初めが延々と書き綴られている自伝小説並のもの――だって忘れられない。ハリーはこの手紙だけは大事にトランクに入れておきたかった。というのも巾着袋の中は一切整理していなかったからだ。手紙を入れてしまえば、あっという間にぐしゃぐしゃになってしまうだろう。

 とはいえ、トランクに荷物が全部入りきらないというアクシデントさえ、今のハリーにとっては楽しいことだった。なんたってトランクに入れたいものは、どれもハリー宛のプレゼントなのだ。ハリーは昼食を終え、アフタヌーンティーの時に「プレゼントしてもらった服をどれも全部持っていきたいのに、トランクになかなか全部入りきらなくてあれこれ試行錯誤しているんだ」とハナに話すと、ハナは優しげに笑っていた。ザゼン中でさえなければ、ハナはいつもの優しいハナだった。


 *


 翌日の日曜日は、ハリーとハナが隠れ穴に向かう日だった。事前のやりとりで、ハリーはハーマイオニーが土曜日から隠れ穴に滞在することを知っていたが、ハリー達はギリギリまで幽霊屋敷で過ごすため、夕方5時に隠れ穴に向かう予定だった。

 約束の時間が近づくにつれ、ハリーは幽霊屋敷を離れるのが寂しくて仕方なくなった。確かにクィディッチ・ワールドカップはとても楽しみだし考えるだけでワクワクするけれど、同時に、幽霊屋敷での素晴らしい日々が終わってしまうのは嫌だった。ハリーは残りの時間を惜しむように、約束の夕方5時になるまで、出来る限りハナ、シリウス、リーマスのそばで過ごした。

 アフタヌーンティーを終えると、ハリーとハナは自室で荷物の最終確認を済ませ、5時になる少し前にリビングに下りた。杖を途中で落とすのが怖かったので、杖ホルダーベルトは外し、杖はトランクの中だ。荷物をパンパンに詰めたトランクはずっしりと重かったけれど、ハナが煙突飛行の際に危ないからとハリーのトランクを魔法のポシェットに入れてくれたので、ハリーは手ぶらで隠れ穴に向かうことになった。それに忘れ物がないか十分に確認したけれど、もし忘れ物をしたってハナが届けてくれるので安心だ。けれどもリーマスだけは大丈夫だと思っていないらしかった。

「2人共、忘れ物はないかい?」

 支度を終えてリビングにやってくると、リーマスはこの短時間の間に5度目となる質問をハリー達に繰り返した。5度目となると流石にハリーも「またその質問なの?」と言いたくなったが、その時、リーマスの隣にいるシリウスがハリー向かって「過保護」と口だけ動かして知らせたので、ハリーはこれが噂のやつかと納得して頷いた。どうやらリーマスの過保護はこの夏からハリーにも有効になったらしい。ハナはすっかり慣れっこなのか、何回聞かれても「ええ、大丈夫よ」と笑顔で受け流した。

「手土産も持ったし、バッチリよ」
「クィディッチ・ワールドカップを楽しんでくるといい」

 リーマスが6回目の質問をする前にシリウスが言った。

「それからハリー、何か少しでも気になることがあれば、私達の誰かやダンブルドアに言うんだ。いいね?」
「うん、ありがとう」

 シリウスの言葉に返事を返した途端、いよいよ幽霊屋敷を離れるのだと感じてハリーはたまらなく寂しくなった。新学期が始まれば、ハナとは引き続き会うことが出来るが、シリウスとリーマスとはなかなか会えなくなる。ハリーはいつも早く新学期が始まればいいのにと思っていたが、今夏ばかりはずっと夏休みのままでいいのにと思った。そうすれば、隠れ穴に何日泊まっても、また幽霊屋敷に帰ってきて4人で一緒に過ごせるのだから。

「僕、2人に手紙を書いてもいい?」
「もちろん。私達は大歓迎だ」
「ハリー、ワールドカップがどうだったか教えてくれ」
「うん。ハナと一緒に2人へのお土産を買うよ」

 そうこうしているうちにいよいよ約束の5時になり、ハリーは暖炉に入る前にシリウスとリーマスと順番にハグをした。この1ヶ月が本当に信じられないくらい楽しかった。あたたかで優しいスープの味、夜中にシリウスと語り合ったこと、サプライズの誕生日パーティー、小さな大草原でのクィディッチ――夢のような日々が幽霊屋敷には詰まっていた。

「それじゃあ、ハリー、いっておいで」
「ロンによろしく伝えてくれ」
「うん、行ってきます!」

 別れを終え、ハリーは暖炉の前に進み出た。暖炉の上に置かれている花瓶の中から煙突飛行粉フルーパウダーをひとつまみ取り出すと、パチパチと火の粉が爆ぜている暖炉に粉を投げ入れる。すると、炎はたちまちエメラルド・グリーンに変わり、頭上高く燃え上がった。ハリーは炎が少し落ち着くのを待ってから暖炉の中に入ると、シリウスとリーマスに手を振り、そして唱えた。

「隠れ穴!」

 次の瞬間、ハリーの視界から幽霊屋敷の暖炉が消え去った。巨大な穴の中に吸い込まれる直前、ハリーが見たのは、寂しげに手を振るシリウスの顔だった。