Make or break - 026

3. 夢

――Harry――



 ロンからクィディッチ・ワールドカップのチケットが取れたと連絡があったのは、8月も半ばになろうかというころだった。なんと、以前ガリオンくじに当選した時、ウィーズリーおじさんが聖マンゴ魔法疾患傷害病院に多額の寄付したことから、決勝戦のチケットを融通してもらえたという。

 これにはウィーズリー家の子ども達同様ハリーも大喜びした。なんたって生まれて初めてのクィディッチ・ワールドカップで、しかも決勝戦だ。ハリーは幽霊屋敷に毎日届く予言者新聞のスポーツ欄で試合の様子をチェックし、その日が来るのを今か今かと待っていたが、ワールドカップの観戦日が近付くにつれ、次第に複雑な心境を抱くようになっていた。

 なぜなら、ワールドカップ以降の2週間、ハリーは新学期になるまでそのまま隠れ穴で過ごすことになっていたからだ。つまり、ワールドカップの観戦は、幽霊屋敷での素晴らしい生活の終わりを意味していた。どういうわけかダンブルドアが「ハリーはダーズリー家にいるべきだ」と主張したので、もし1年経ってまた夏休みが来ても、ハリーの帰る家は幽霊屋敷ではなくダーズリー家なのだ。

 それでも楽しい日々は矢のように過ぎ去り、迎えた8月下旬――ウィーズリー家に向かう前日――の朝、ハリーは最低最悪な夢を見て目が覚めた。あまりに生々しくおぞましい夢で、たった今目覚めたばかりだというのに、ハリーは仰向けに横たわったまま、まるで全力疾走した直後のように荒い呼吸を繰り返している。それに――ハリーは無意識のうちに両手をギュッと額に押しつけた。稲妻の形をした額の古傷が、今しがた熱した針金を押しつけられたかのように痛い。

 最悪な気分のままハリーはのろのろと上体を起こすと、片手で傷を押さえながら、暗がりの中、もう片方の手をベッドのヘッドボードに置いていた眼鏡に伸ばした。眼鏡をかけるとぼんやりとした視界がはっきりして、ハリーはようやく外からほんのり明かりが見えることに気付いた。ハナがもう起きている時間帯なのか、ベッドの枕元の方にある窓のカーテン越しに階下にあるダイニングの明かりがぼんやりと漏れている。どうやら、少なくとも夜中というわけではないらしい。ハリーはもう一度、指で傷痕をなぞった。まだ疼いている。

 ハリーはベッドから這い出すと枕元のカーテンを開け、窓を覗き込んだ。痩せてはいるが、このひと月の間に随分と健康的になった14歳の自分が夜明け間近のほんのりと明るいだけの薄暗い窓ガラスに映り込んでいる。黒い髪はくしゃくしゃで、その下に見える緑の目が戸惑った表情をしている。

 ハリーは前髪を掻き上げて、窓ガラスに映る稲妻形の傷痕をじっくり調べた。傷痕は、いつもと変わりはないように見えるのに、いつまで経っても刺すように痛い。それもこれも先程まで見ていた夢のせいだろうか……。ハリーは、目が覚める前にどんな夢を見ていたのか、思い出そうとした。

 夢は、夢と呼ぶにはあまりにもリアルで生々しかった。男が3人出てきて、そのうち2人は知っていたが、1人は知らない人だった……ハリーは顔をしかめ、夢の内容を仔細に思い出そうと懸命に集中した。暖炉の炎だけが照らす薄明るい部屋……暖炉マットにいる大蛇……そこにビクビク怯えながらペティグリューが立っていて、冷たい甲高い声がそいつのことをワームテールと学生時代のあだ名で呼んでいた……ハリーの両親を殺した闇の魔法使いヴォルデモートがワームテールと――……。

 ハリーはゾッとするような感覚がして、固く目を閉じた。ヴォルデモートがどんな姿だったのか、はっきりと見た気がするのに、いざ思い出そうとするとどんな姿だったのか、思い出すことが出来なかった。ただ、最後にヴォルデモートの椅子がくるりとこちらを向き、そこに座っている何物かが見えた途端――ハリー自身がそれを見た瞬間――恐ろしい戦慄で目が覚めたことだけははっきりと覚えている。いや、そう思っただけで実際には傷痕の痛みで目覚めただけなのだろうか?

 それにしても、あのペティグリューとヴォルデモートのそばにいたあの男性は一体誰だったのだろう――ハリーは見知らぬ老人がその場にいたことを思い出して、考えた。あの場には確かに老人がいて、ハリーは彼が床に倒れるのをはっきりと見た。殺されたのだ――ハリーは何が何だか混乱したまま、それでも思い出さなければならない気がして、両手に顔を埋め、あの薄明かりの部屋へ意識を戻そうとした。

 しかし、思い出そうとすればするほど、細かなことが指の隙間から零れ落ちていくような気がした。ヴォルデモートはペティグリューのことをワームテールと呼んでいた。親友達をこっ酷く裏切ったというのに未だに学生時代のあだ名で呼ばれているとは反吐が出るが、おそらくそれはペティグリューが生きていると予言者新聞に載ってしまったから違いない。だからワームテールと呼ばれているのだ。

 そして、ヴォルデモートとワームテールは、ハナの召喚に苦労したとか、既に誰かを殺したとか話していた。殺したのは、あの場にいた老人ではない別の誰かだ……ハリーはそれが誰だったのか懸命に思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。けれども、2人が更なる殺人を犯そうと計画しているのだけははっきりと思い出せた。ハリーと、そして、ハナだ。

 途端、ハリーは落ち着かない気分になって両手に埋めていた顔を上げると何かいつもと違うものを見つけようとするかのように、幽霊屋敷にある自分の部屋をじっと見渡した。しかし、先月この家にやってきた時に与えられた幽霊屋敷の2階にある階段を上がってすぐのこの部屋は、特に変わったことは何もない。トランクなどの荷物は全部クローゼットの中だし、出ているものといえば、机の上にある空っぽの鳥籠と羊皮紙の束だけだ。

 次にハリーはクローゼットの真正面――裏庭に面している方の窓のカーテンを開けて下の様子をうかがった。幽霊屋敷の小さな裏庭には暖炉の薪置き場と小さな物置小屋があるだけで、特段変わったところはない。裏手にある民家もそこに連なる他の家々もまだきっちりとカーテンが閉められたままで、見る限り人っ子1人、猫の子1匹見当たらなかった。

 けれども、どうにも落ち着かない。
 ハリーは2つの窓のカーテンをきっちりと閉めるとベッドの縁に腰掛け、また傷痕を指でなぞった。傷痕がいつまでも痛み続けていることが気になっているのではない。痛みや怪我なら、ハリーは嫌というほど経験している。一度は右腕の骨が全部なくなり、一晩中痛い思いをして再生させたし、再生した何ヶ月か後には30センチもある毒牙が同じ右腕を刺し貫いた。飛行中の箒から15メートルも落下したのは前学年の時だ。

 なので、ハリーが気になっているのは痛みそのものではなかった。それでも何か気になって落ち着かない気分なのは、前回傷が痛んだ時にヴォルデモートが近くにいたからだった。しかし、ヴォルデモートが今幽霊屋敷にいるはずがない。そもそもこの家には来訪者探知機という来訪者を知らせる便利な魔法道具があるし、敷地内にヴォルデモートが来たのなら、たちまち探知機が声高に叫び出すはずだ(「トム・マールヴォロ・リドル! 本物! 危険!」)。

 ハリーは頭を振った。もう既に起きているであろうハナは何事もなく過ごしているし、シリウスやリーマスだってヴォルデモートが来たと騒いでないというのに、ヴォルデモートがバルカム通りに潜んでいるなんて、バカげた考えだ。そんなことありえるはずがない。それでもハリーはこのどうにもならない不安を誰かに聞いて欲しいと願ってやまなかった。傷痕が痛むことやヴォルデモートが近くにいるのではないかと不安に駆られることをバカにしないで聞いてくれる誰かに。ハリーのことを真剣に心配してくれる誰かに。闇の魔術に詳しい誰かに。いや、こんなことを考え込むことこそバカげている。

 ――僕にはもう家族がいるじゃないか。

 考え込んでいる間にカーテンの隙間からはもう朝の光がほんのりと差し込んでいた。ハリーはベッドから立ち上がって再びカーテンを開け、バルカム通りを明るく照らす朝日を部屋の中に入れると、朝食に下りていくために着替え はじめた。先月の誕生日の際、服をたくさんプレゼントして貰ったので、ハリーはもうダドリーのお下がりを着る必要はなくなっていた。

 着替えを済ませ、ハリーが階段を下りるともうみんな起きていたのか、ハナとシリウスとリーマスの話し声が微かに聞こえてきた。楽しげな声に、ハリーはどうやって傷痕が痛むことを切り出そうかと考えながら扉を開け、リビングを横切るとダイニングに向かった。さりげなく、心配させ過ぎないように話すにはどうしたらいいだろう。考えているうちに傷痕がまだ微かに痛み、ハリーは無意識のうちに額を揉んだ。

 けれども、心配させ過ぎないように話すというハリーの目論見は敢えなく失敗に終わった。ハリーがダイニングに足を踏み入れた途端、キッチンからちょうどスープカップを持ってハナが出てきて、ハリーが額を揉んでいることに気付いたからだ。

「ハリー? 痛むの?」

 手にしていたスープカップを急いでダイニングテーブルの上に置き、こちらに駆け寄ってきたかと思うと、ハナがハリーの顔を覗き込んだ。まだどう話を切り出すのかも考えていなかったハリーは、なんと言っていいのか分からず、口を開いては閉じ、を繰り返した。傷痕のことだけを話すべきだろうか。それとも――。

「さあ、ハリー座って」

 考えていると、何か察したようにハナが優しく促して、ハリーは言われるがままにダイニングテーブルの方へ歩み寄った。シリウスとリーマスは気遣わしげにハリーを見ていたが、ハリーがダイニングテーブルの方へ歩いていくと、シリウスは隣に座るよう言ってくれ、リーマスはハリーのためにミルクをたっぷり使ったミルクティーを淹れてくれた。

 長い間、ハリーを不幸せにすることに余念がなかったダーズリー家で過ごしてきたハリーにとって、これは信じられない光景だった。なんたってこの幽霊屋敷では、全員が当たり前にハリーのことを気遣い、寄り添い、元気付けようとしてくれている。ハナもシリウスもリーマスも、ハリーとはまったく血の繋がりなんてなかったけれど、血の繋がりのあるペチュニアおばさんやダドリーより、ここにいる3人の方がずっと家族らしいと言えた。

「僕、傷痕が痛んだんだ……」

 ミルクティーを一口飲むとハリーは呟いた。どうやって話したらいいのか未だに上手い言葉が浮かばなかったが、どんなに上手く話せなくとも、3人がハリーの話をバカげたことだと笑わずに真剣に聞いてくれるという安心感が今のハリーにはあった。

「僕、前に痛んだのはヴォルデモートが近くにいた時だった……だから、僕……」
「不安になったのかい? ハリー」

 優しい声音でシリウスが言って、ハリーは素直にこくりと頷いた。ハリーの予想どおり、不安になったことを笑う人は誰もいなかった。プリベット通り4番地の階段下の物置で寝起きしているころの自分がこのことを知ったのなら、きっと嘘だと思っただろう。こんなに親身になってくれる人達が3人も出来ただなんて――ハリーは信じられない思いに駆られながらも、3人なら聞いてくれるはずだと、また思い切って不安を口にした。

「でも、ヴォルデモートがバルカム通りにいるはずない。そうだよね?」
「ああ、バルカム通りにはいない。この家の戸口にヴォルデモートが立った形跡もない」
「それに、ヴォルデモートがここにやってきたら、たちまち来訪者探知機が反応したはずだ。探知機はどんな者でも必ず反応する。ヴォルデモートがやってきたら、私達に危険を知らせていただろう。そもそもこの家にはスリザリン避けがかけられている。スリザリン出身の魔法使いはこの家には近付けない」

 リーマスがきっぱりと言って、ハリーは内心安堵した。やっぱり来訪者探知機は反応していないし、ヴォルデモートはバルカム通りにはいない。そもそもヴォルデモートはスリザリン出身だからこの家には近づくことすら出来ない――そう思うと少しだけ気が楽になったような気がした。けれど、だとしたらどうして傷痕が痛んだのだろう。ハリーが考えていると、リーマスが続けた。

「ただ、今もどこかで復活のために動いているかもしれない」

 復活と聞いてハリーはあのおぞましい夢のことを思い出してビクリとした。3人の顔を見渡して恐る恐る訊ねる。

「復活……ヴォルデモートはもう動いてると思う?」
「そう考えていた方がいいでしょうね。ペティグリューはヴォルデモートがアルバニアの森に身を隠していることを知っていたんですもの」

 今度は何やら難しい顔をしてハナが答えて、ハリーはハナが元々暮らしていた世界に予言書――この世界について書かれた本――があることを思い出した。ハナなら、もしかすると何か知っているかもしれない。ヴォルデモートがどうやって復活するのかだとか、何を企んでいるのかという具体的な何かを。

「ハナ、ヴォルデモートが復活のために何をするか、君なら分かる? 君の世界には予言書があったし――」
「ハリー、私が知っていたのは3年生の学年末までだったの。ヴォルデモートがどうやって復活するのか、私には分からないわ」

 ハリーが期待を込めて訊ねると、ハナがやんわりも首を振って答えた。ハナが分からないのなら、本当に何も分からないということだ。ヴォルデモートがどうやって復活しようとしているのかも、何もかもだ。それこそ、ヴォルデモートがもう既に誰かを殺したと話していたことさえ――ハリーはそこまで考えて咄嗟とっさに俯いた。あれは夢だったはずだ。ヴォルデモートが実際に殺したと直接耳にしたわけではない。ハリーが見た夢だ。けれど――。

「僕……あの、夢を見たんだ。どこか知らない場所で、ヴォルデモートとペティグリューが話してた……誰かを殺したって……」

 迷いながらハリーは口を開いた。こんな夢のことを話しても仕方がないと心のどこかで思いつつも、やっぱり3人なら真剣に聞いてくれるだろうという思いもあった。すると、シリウスが鋭い声で訊ねた。まるで夢だとは思っていない口振りだ。

「誰かを殺した? ハリー、ヤツらは誰を殺した?」
「僕、分からない……」

 あれはただの夢ではないのだろうか。戸惑いつつハリーは答えた。

「名前を言っていた気がするけど思い出せなくて……でも、ハナの話をしてた。召喚にかなり苦労したとか、それに……それに……」

 そこで、ハリーは言葉を詰まらせた。ヴォルデモートが自分とハナを殺そうとしているなんてことを口にするのが怖かった。それに、せっかくワールドカップが明後日に控えているのに、ハナを不安にさせるようなことまで言いたくはなかった。

「ハリー、今までそういう変な夢を見たことは?」

 ハリーが口籠もっていると、ハナが訊ねた。ハナはやけに真剣な表情だ。

「夢を見ていて、妙にリアルだなと感じたりしたことはあった?」
「ううん……今までこんなことなかった。あれってなんなの?」
「ハリー、私、変な夢を見なくなる方法を知ってるわ」

 ハリーの問いにハナがそう答えて、ハリーは質問の答えをはぐらかされたことに気付かず、純粋に驚いた。まさかヴォルデモートの夢を見なくなる方法があるなんて思いもしなかったのだ。予言書にそういうことに対する知識が書いてあったのだろうか? それともダンブルドアから何か教えて貰っていたのだろうか? 疑問は尽きなかったが、あの夢を見なくなる方法があると知って、ハリーはただただ安堵した。