Make or break - 020

3. 夢



「さあ、ハリー、深く呼吸することだけに集中して」

 朝食後、私はハリーを連れて小さな大草原へ行くと座禅の組み方を徹底的に教え込んだ。雑念を取り払って心を空にし、すべての感情を棄て去る練習をすることは後々閉心術を教わる時に大いに役立つからだ。逆に、いざという時自分の感情に支配されるようなことになれば、閉心術の習得はグッと難しくなり、ヴォルデモートに入り込まれる隙を与えてしまう要因となる。

 しかしながらハリーは、この「雑念を取り払って心を空にする」ということがかなり苦手なようだった。座禅を始めても妙に落ち着かなげで常に何かの思考に支配され、その思考をどうにかしようとすればするほど、逆にその思考に囚われて感情を棄て去ることが出来ずにいるのだ。イライラしていることを考えれば考えるほどイライラが増してしまう――今のハリーはそんな感じだろう。

「自分の意識と対峙せず、呼吸を整えることに集中して」

 座禅は青空の下、ブナの木の下で行った。動くものを見てしまうと気を取られてしまうので、池を背にする形だ。私は、教えたとおりに足を組んで目を瞑っているハリーの後ろを行ったり来たりしながら、目敏く身じろぎをするのを見つけては厳しい口調で声をかけた。そんな私達の様子を小さな大草原の家の窓から顔を出したシリウスが心配そうに見ていたが、やがて、リーマスに何か言われると渋々顔を引っ込めた。

「これで本当に夢を見なくなるの?」

 10分は過ぎただろうか――痺れを切らしたハリーがそう言って私を見た。一体こんなことをして何になるんだと疑問に思っているような、そんな顔だった。このままではダンブルドア先生がハリーにも閉心術を教えると言い出した時、ハリーはとても苦労するだろう。しかも、ハリーが閉心術を学ぶ時、ダンブルドア先生が教えるという保証はどこにもないのだ。

 ヴォルデモートの復活の予言が出た以上、ダンブルドア先生は私に指導していた時に比べてかなり忙しくなるだろう。だとすると、ハリーに閉心術を教えるのはダンブルドア先生ではない可能性が高い――以前、ダンブルドア先生はスネイプ先生が優れた閉心術士だと仰っていたけれど、もし、ハリーがスネイプ先生に指導を受けるとするなら最悪だ。私はもしそうなってもいいように、出来る限り下地を整えておかなくてはならない。

「ハリー、貴方が私を信じるのなら、これを毎日続けて欲しい」

 念を押すように私は言った。

「朝起きた時でも寝る前でもいつでもいいの。とにかく、毎日1分でもいいから続けるのよ」
「毎日?」

 私の言葉に、ハリーはギョッとして声を上げた。こんなこと毎日したくはないという顔だ。どうやら本当に座禅が苦手らしい。初めにしては厳しく言いすぎたかとも思ったが、ハリーのためにも優しくは出来なかった。敵は私以上に容赦なく心の中を覗き込もうとするし、必ずしもハリーに好意的な人物が閉心術を教えるとは限らないのだから。

「続けなければ、貴方はまたヴォルデモートの夢を見るわ。あれがただの夢ではないと、貴方は分かったはずよ」
「もしかして、ハナもあの夢を見たことがあるの?」
「そうよ。だからハリー、必ず毎日やって。心を空にして感情を棄て去ることが出来れば、悪いものから自身の心を守る助けになるわ。吸魂鬼ディメンターと対峙した時と同じよ。恐怖を棄て去り、集中出来なければ、守護霊を創り出すことは出来ないわ――今日はここまでにしましょう」

 一度中断してしまったし、これ以上集中することは無理だろう――そう考えて私が終わりにすると告げると、ハリーはあからさまにホッとした表情で立ち上がった。そんなハリーに私は苦笑いを溢したが、これ以上あれこれ言うのは悪手だろうと何も言わなかった。すると、終わった気配を感じたのか、タイミングよくリーマスとシリウスが小さな大草原の家の中から顔を出した。

「2人共、お茶にしよう」
「美味しいビスケットもあるぞ」

 これには私もハリーもお互いニッコリして顔を見合わせた。時刻は11時を回ろうかというころで、イレブンジスティーの時間だった。イレブンジスティーは、昼食前のちょっとした休憩時間に飲むお茶のことで日本でいうと10時の休憩の感覚に近いかもしれない。

 私とハリーが家の中に入るともう既に紅茶が用意されていて、大皿にビスケットが載っていた。私達は、私の大鍋が置かれているエリアを避けてテーブルを囲むと、4人でお茶を始めた。夏休みが始まったころは3つ並んでいた大鍋は今や1つのみとなり、残すはレポートと生ける屍の水薬のみというところまで来ていた。

「ハリー、荷物はまとめたかい?」

 ビスケットを1枚手に取りながらリーマスが訊ねた。ハリーは紅茶を一口飲むと首を横に振った。

「ううん、これからまとめなくちゃ。それにヘドウィグを先に隠れ穴に送り出さないと。ヘドウィグは煙突飛行と姿くらましが嫌いみたいだから」
「もし忘れ物をしても安心してね。来月ホグワーツ特急に乗る時に私が一緒に持っていってあげるわ」
「うん、ありがとう、ハナ。僕、またここに泊まりに来ることは出来るかな? クリスマスは?」
「クリスマスはきっとホグワーツに残ることになる」

 シリウスが少し寂しそうに言った。

「今年はホグワーツでいろいろあるからね」
「いろいろって?」

 ハリーが興味を唆られたように訊ねた。

「ホグワーツで何があるの?」
「ハリー、子どもにはまだ秘密だそうよ」

 私が肩を竦めながら答えた。

「大人達はみーんなそのことを知ってるのに私達には教えようとしないの」
「じゃあ、ハナも何も知らないの?」
「ええ、そうなの。みんな、何かあるってこと以外何も教えてくれないのよ」

 イレブンジスティーを終えると、私達は昼食までそれぞれ自分の時間を過ごすことになった。私は魔法薬学の課題の続きを、ハリーは荷物をまとめるために自分の部屋へ、リーマスは読書、シリウスはバックビークの世話に森へと入っていった。バックビークのエサの時間はもう既に終わっていたが、明日にはハリーがこの家からいなくなる寂しさを少しでも紛らわせたいのだと思って、私もリーマスも1人寂しげに森へと向かうシリウスを黙って見送った。

 昼食を挟んで午後になると、4人で森に入ってヘドウィグを探し出し、ひと足先に隠れ穴へ送り出した。それからハリーはまた荷物をまとめる続きをするために部屋に戻り、私もお泊まりの準備をするために自分の部屋へと引っ込んだ。今回隠れ穴に1泊し、クィディッチ・ワールドカップの競技場のそばでも最低1泊――試合が長引けばもう何泊か――する予定なのでいつもより荷物は多めだ。しかもあと数日で満月なので、もし試合が早めに終わっても私もそれまで隠れ穴で過ごす予定だった。

 ハリーは初めてのクィディッチ・ワールドカップに終始ワクワクとした様子だった。アフタヌーンティーの時には、プレゼントしてもらった服をどれも全部持っていきたいのにトランクになかなか全部入りきらずあれこれ試行錯誤しているんだと楽しげに話していた。シリウスは相変わらず私とリーマスの前では寂しげにしていたけれど、4人で囲む最後の夕食の時にはいつもどおり明るく振る舞おうと努めていた。


 *


 翌日の日曜日は、私とハリーが隠れ穴へ行く日だった。昨日は終始ワクワクとした様子だったハリーもこの日ばかりはなんだか名残惜しげで、時間の許す限り私達のそばで過ごそうとした。そんなハリーのために私はすっかりハリーのお気に入りとなったクリームスープを朝食に作り、昼には半熟の目玉焼き付きのナポリタンを振る舞った。

「2人共、忘れ物はないかい?」

 夕方の5時――隠れ穴に向かう時間――になる少し前に私達は全員リビングに集まった。ハリーは手ぶらだったが、私はマローダーズ特製ポシェットを肩から提げている。煙突飛行ネットワークを利用する際、トランクを持っていると大変なので、ハリーの荷物はすべて私のポシェットの中に入っているのだ。もう準備は万端だったが、リーマスの心配性がひょっこり顔を出し、この日5度目となる質問を私達に繰り返した。

「ええ、大丈夫よ」

 私はにこやかな笑顔で頷いた。心配性のリーマスが私に何度も同じことを言うのはもう慣れっこになっていたけれど、ハリーは初めてだからか「またその質問なの?」という顔をしている。けれども、リーマスの隣にいるシリウスが「過保護」と口だけ動かして告げるとハリーは納得したように頷いた。

「手土産も持ったし、バッチリよ」
「クィディッチ・ワールドカップを楽しんでくるといい」

 寂しさを感じさせない様子でシリウスが言った。

「それからハリー、何か少しでも気になることがあれば、私達の誰かやダンブルドアに言うんだ。いいね?」
「うん、ありがとう」

 ハリーが名残惜しげに返事した。

「僕、2人に手紙を書いてもいい?」
「もちろん。私達は大歓迎だ」
「ハリー、ワールドカップがどうだったか教えてくれ」
「うん。ハナと一緒に2人へのお土産を買うよ」

 最初に隠れ穴に向かうのはハリーだった。ハリーはこれから夏休みが終わるまで隠れ穴で過ごすことになる。シリウスとリーマス曰く、クリスマス休暇はホグワーツに残ることになるらしいので、次にハリーがこの家で過ごせるのは少なくとも1年後だ。いざ隠れ穴に向かうとなると、急に寂しさが優ったのか、ハリーは暖炉に入る直前、シリウスとリーマスと順番にハグをし、しばしの別れを惜しんだ。

「僕、信じられないくらい楽しかった」かい 「これがいつか君にとって当たり前になるんだ、ハリー」

 リーマスがハリーとハグをして言った。

「そうなるなら僕、誰かと相部屋でもいいよ」
「それじゃあ、私と相部屋にしよう」

 今度はシリウスとハグをして言った。

「うん、また父さんと母さんの話を聞かせてね、シリウス」

 私はそんな3人の姿を見ながら少しだけ複雑な心境だった。もし魔法省がシリウスに対し理不尽な仕打ちさえしなければ、そもそもこんな風に別れを惜しむなんてことをしなくて済んだのだ。それに、私達はこの1ヶ月間をもっと楽しめただろう。買い物だってシリウスは犬の姿でなくてもよかっただろうし、ダイアゴン横丁だって4人で堂々と歩けた。ヴォルデモートの復活という懸念事項はあるが、近場くらいなら出掛けることだって出来たかもしれない。それでも、ハリーがこの家での暮らしを心から楽しんでくれたことが私達にとっては唯一の救いだった。

「それじゃあ、ハリー、行っておいで」
「ロンによろしく伝えてくれ」
「うん、行ってきます!」

 いよいよ隠れ穴に向かう時間がやってきて、ハリーが暖炉の前に進み出た。暖炉には既に薪が焚べられ、炎がゆらゆら揺れ動いていた。

煙突飛行粉フルーパウダーは暖炉の上にある花瓶の中よ、ハリー」
「うん、ありがとう、ハナ」

 私の言葉に、ハリーは暖炉の上に置かれている花瓶の中からキラキラと光る煙突飛行粉フルーパウダーをひとつまみ取り出した。パチパチと火の粉が爆ぜている暖炉に粉を投げ入れると、炎はたちまちエメラルド・グリーンに変わり、頭上高く燃え上がった。とはいえ、この炎は熱くない。ハリーは炎が少し落ち着くのを待ってから暖炉の中に入ると、シリウスとリーマスに手を振り、そして唱えた。

「隠れ穴!」

 瞬間、炎がハリーを覆い尽くした。エメラルド・グリーンの炎がゴーッと音を立て、またゆっくりと小さくなっていくと、炎は元の色に戻り、そこにハリーの姿はなくなっていた。

「それじゃあ、あとはよろしくね」

 ハリーが完全に姿を消したのを確かめてから私は言った。

「ダンブルドア先生に必ず連絡を」
「ああ、このあとすぐに連絡しよう」

 シリウスが頷いた。

「ハナ、念のためこれを持っていってくれ」

 リーマスがいくつかの薬瓶を差し出しながら言った。瓶の形や大きさも様々で2種類ほど色がある。

「これは?」
「ハナハッカ・エキスと一般的な解毒剤だ――君とハリーが荷造りに部屋に籠っている間にダイアゴン横丁へ行って買ってきた」
「全然気付かなかった。ありがとう、リーマス」
「ワールドカップには魔法省の職員がたくさんいるからそう心配はないだろうが、何があるか分からないからね」
「君が出掛けている間に私が真実薬の解毒剤を調合するつもりだ。君は閉心術が既に使えるし、解毒剤があれば、まず真実薬は上手く作用しない。戻ってきたら、これらのものをいつでも持ち歩けるよう杖ホルダーベルトに通せる小さなポーチを用意しよう」
「とりあえず、今はポシェットに入れておいてくれ。ポシェットは肌身離さず持っているように」
「分かったわ」

 薬瓶を受け取りながら私は頷いた。昨日のハリーの話では、ペティグリューは既にヴォルデモートと一緒で、誰かを殺したと言っていた。だからこそ、シリウスもリーマスも私の身を案じて、ここまでしてくれるのだ。それは、もう既にこれが大袈裟ではない時代がすぐ目の前まで来ていることを示していた。

「これが必要ないことを祈るよ」
「ワールドカップを楽しんで来てくれ」
「ありがとう、2人共。満月の夜、気をつけてね」

 シリウスとリーマスとハグをすると、私は暖炉の前に立った。花瓶の中から煙突飛行粉フルーパウダーをひとつまみ取り出すと、暖炉に投げ入れた。再びエメラルド・グリーンに燃え上がった炎の中に入り、そして、

「隠れ穴!」

 私はあっという間に炎に包まれ、吸い込まれるようにしてその場から消えた。