Make or break - 017

2. 幽霊屋敷

――Frank――



 その夜、フランクが目覚めたのは足が痛んだからだった。第二次世界大戦の従軍中に悪くなってしまった片足は、歳とともに痛みがひどくなるばかりで、フランクが足の痛みで目が覚めるのはこのところしょっちゅうだった。なので、最近では少しでもその痛みを和らげようと就寝時には湯たんぽを布団の中に入れるのが常だったが、寝ている間にすっかりぬるくなってしまったらしい。

 フランクは湯たんぽの湯を入れ替えようと起き上がり、1階のキッチンへ向かった。リドルの館に比べたらフランクの住む家はボロ小屋も同然だったが、家は2階建てだったし、住むには申し分ない広さだった。痛む足を引きずりながら流し台の前に立つと、フランクは蛇口を捻ってヤカンに水を入れ始め、ふと、正面の窓から何やら明かりがチラつくのを感じて屋敷の方に視線を移した。

 フランクが見上げてみると、今は誰も住んでいないはずの屋敷の2階にチラチラと明かりが揺れているのが見えた。どうやらまた近所の子どもが入り込んで悪さをしているらしい。あの明かりのちらつきようから見るに、火を焚いているようだ。放火しようなんて、そうはいかない――フランクはヤカンをその場に放り投げると、痛む足の許す限り急いで2階に戻った。そうして、服を着替え、再びキッチンに戻ってくると、扉の脇にかけてある錆びた古い鍵を取り外し、壁に立てかけてある歩行杖を掴んで外へ出た。家には電話はなく、リドル一家死亡事件で尋問されて以降、フランクは警察を信用していなかったので、自分でなんとかするしかなかった。

 リドルの館の玄関は、こじ開けられた様子がなかった。ならば、どこかの窓から侵入したのか――フランク屋敷の裏へと回りながら窓という窓を確かめて回ったが、不思議なことにどの窓にもこじ開けられた形跡は残されていなかった。しかし、2階の窓には確かにチラチラと明かりが揺れている。フランクは、ほとんど蔦の陰に隠れてしまっている勝手口までやってくると、古い鍵を引っ張り出して鍵穴に差し込み、音を立てないよう気をつけながら扉を開け、屋敷の中に入り込んだ。

 勝手口の先は屋敷のだだっ広い厨房だった。何年も使われていないからか、むっとするほどカビ臭く、明かりもついていないため、何も見えないほどの真っ暗闇だ。けれども、フランクはまるでどこになにがあるのかすべて見えているかのように真っ暗な厨房を進んだ。もう何年もそこに足を踏み入れてはいなかったというのに、フランクの痛む足はどこをどう歩けば玄関ホールへ出られるのかしっかりと覚えていた。

 玄関ホールへ続く扉の前までやってくると、フランクは上階から足音や人声が聞こえないか耳をそばだて、慎重に扉を開いた。玄関ホールは厨房よりも少しばかり明るい。玄関扉の両脇にある格子窓から月明かりが差し込み、なんとか足元が見えている。それに、新しい持ち主がまったく屋敷内の掃除をしなかったお陰で、石張りの床を覆うほど分厚く埃が積もり、フランクの足音も歩行杖の音も掻き消していた。

 これはしめたぞ――フランクは分厚い埃を有り難く思いながら玄関ホールを横切り、上階へ続く階段を上がった。侵入者がどこにいるのかは割とすぐに分かって、フランクが階段を上りきり右に曲がると、廊下の1番奥にある部屋の扉が半開きになって、そこからチラチラと明かりが漏れていた。真っ暗な床に金色の細長い筋が出来ている。フランクは歩行杖をしっかりと握り締め、じりじりと扉に近付いていった。すると、扉から数10センチ手前のところで、半開きの扉の隙間から部屋の中の様子を僅かにうかがい知ることが出来た。

 フランクはてっきり放火かと思っていたが、驚くことに火は暖炉の中で燃えていた。暖炉に火をつけて、一体何をしているというのか――フランクは更に近付こうとして、やおら立ち止まった。中から男の声が聞こえている。フランクはじっと耳を澄ませた。

「ご主人様、まだお腹がお空きでしたら、今少しは瓶に残っておりますが」

 やけにおどおど怯えた様子で男が言った。

「あとにする」

 別の男が答えた。こちらはおどおどとはしていなかったが、不自然に甲高く、寒風が吹き荒んでいるかのように冷たい、どこかゾッと背筋が凍るような声だった。全身が粟立ち、まばらになったフランクの後頭部の毛が逆立った。

「ワームテール、俺様をもっと火に近付けるのだ」

 フランクは話をもっとよく聞こうと右耳を扉の方に向けた。年老いて耳もすっかり遠くなっていたが、左耳よりかは右耳の方がまだマシだった。フランクが耳をそばだてていると、瓶を棚の上か何かに置く音がして、まもなく、重い椅子を引き摺る鈍い音が聞こえた。椅子を押している小柄な男の背中が視界に入り、フランクはあれがおどおどしていた方か、と密かに思った。小男は黒くて長いマントを着ていて、後頭部が禿げている。小男は、椅子を暖炉の前に運び終えると再びフランクの視界から消え、代わりにまたあの身の毛もよだつような冷たい声がした。

「ナギニはどこだ?」
「わ――分かりません。ご主人様」

 小男がびくびくしながら答えた。

「家の中を探索に出掛けたのではないかと……」
「寝る前にナギニのエキスを絞るのだぞ、ワームテール」

 また冷たい声の男が言った。

「夜中に飲む必要がある。この旅で随分と疲れた」

 ナギニのエキスとは一体なんだろうか。そもそも、ナギニというのはなんだろう。出掛けているというからには生き物らしいが、何かの動物か、それとも虫のようなものか――フランクは眉根を寄せながら右耳を更に近付けた。

「ご主人様」

 先程ワームテールと呼ばれていた小男が訊ねた。

「ここにはどのぐらいご滞在のおつもりか、伺ってもよろしいでしょうか?」
「1週間だ――もっと長くなるかもしれぬ。ここはまあまあ居心地がよいし、まだ計画を実行は出来ぬ。クィディッチ・ワールドカップが終わる前に動くのは愚かであろう」

 クィディッチだって? フランクは節くれだった指を思わず右耳に突っ込んでほじった。クィディッチなんていう奇妙な言葉が聞こえたのは、このところ耳掃除をしていなかったせいに違いない。

「ご主人様、ク――クィディッチ・ワールドカップと?」

 しかし、またもやクィディッチと聞こえて、フランクはますます耳をほじった。

「お許しください。しかし――わたくしめには分かりません――どうしてワールドカップが終わるまで待たなければならないのでしょう?」
「愚か者めが。まさに今、世界中から魔法使いがこの国に集まり、魔法省のお節介共がこぞって警戒に当たり、不審な動きがないかどうか、鵜の目鷹の目で身許の確認をしている。マグルが何も気付かぬようにと、安全対策に血眼だ。だから待つのだ」

 どうやら自分の耳がおかしかったわけではないらしい。フランクは耳をほじるのをやめて、再び聞き耳を立てた。今、あの冷たい声の男が間違いなく、「魔法省」「魔法使い」「マグル」と言った。これは何かの暗号だ――スパイか、はたまた犯罪者か――話の内容が気取られないよう隠語を使って話しているに違いない。フランクはもう一度歩行杖を固く握り締めた。

「それでは、貴方様は、ご決心がお変わりにならないと?」
「ワームテールよ。もちろん、変わらぬ」

 有無を言わさぬような、脅すような響きの籠った声だった。フランクからはワームテールの姿は見えていないというのに、フランクにはワームテールが一瞬言葉に詰まったのがその空気感で分かった。言葉が途切れ、一瞬、暖炉の炎がパチパチと爆ぜる音だけが響いた。やがて、ワームテールがまたおずおずと口を開いた。

「ご主人様。ハリー・ポッターとハナ・ミズマチなしでもお出来になるのではないでしょうか」

 また言葉が途切れ、先程よりも長い沈黙が流れた。

「ハリー・ポッターとハナ・ミズマチなしでだと? なるほど……」
「ご主人様。わたくしめは何も、あの小僧と小娘のことを心配して申し上げているのではありません! あんな小僧と小娘、わたくしめは何とも思っておりません! ただ、誰か他の魔女でも魔法使いでも使えば――どの魔法使いでも――事はもっと迅速に行えますでございましょう! ほんのしばらくお側を離れさせていただきますならば――ご存知のようにわたくしめは、いとも都合のよい変身が出来ますので――ほんの2日もあれば、適当な者を連れて戻って参ることが出来ましょう――」
「確かに、他の魔法使いや魔女を使うことも出来よう」

 冷たい声の男が低い声で言った。

「確かに……」
「ご主人様。そうでございますとも」

 ワームテールが明らかにホッとした様子で言った。

「ハリー・ポッターとハナ・ミズマチはなにしろ厳重に保護されておりますので、手をつけるのは非常に難しいかと。それに、小娘の方は未来を知っています。ご主人様の手の内も知っている可能性が――」
「だから貴様は進んで身代わりの誰かを捕まえに行くというのか?」

 疑わしそうに冷たい声の男が訊ねた。

「果たしてそうなのか……ワームテールよ。俺様の世話をするのが面倒になってきたのではないのか? 計画を変えようというお前の意図は、俺様を置き去りにしようとしているだけではないのか?」
「滅相もない!」

 ワームテールの声がキーキーと上擦った。

「わ、わたくしめが貴方様を置き去りになど、決してそんな――」
「俺様に向かって嘘をつくな!」

 冷たい声の男が歯噛みしながら言った。

「俺様にはお見通しだぞ。ワームテール! 貴様は俺様のところに戻ったことを後悔しているな。貴様は俺様を見ると反吐が出るのだろう。お前は俺様を見る度にたじろぐし、俺様に触れる時も身震いしているだろう……」
「違います! わたくしめは貴方様に献身的に――」
「貴様の献身は臆病以外の何物でもない。今や貴様が生きていることが知れ渡り、行く場所がないから俺様のところに来ただけだ。どこか他に行くところがあったら、貴様はここにはおるまい。数時間毎に食事をせねばならぬのに、お前がいなければ俺様は生き延びることは出来まい? 誰がナギニのエキスを絞るというのだ!」
「しかし、ご主人様。前よりずっとお元気におなりでは――」
「嘘をつくな」

 冷たい声の男が咎めるように低く唸った。

「元気になってなどいるものか。2、3日も放置されれば、お前の不器用な世話で何とか取り戻した僅かな力もすぐ失ってしまうわ――小娘さえ手に入っていればこうはならなかったものを。俺様がどれほど苦労して小娘を召喚したことか……術を行使した場所に現れないのは予想外だった……しかし、最も繋がりのある場所に現れるというのは道理に適っている。術は、繋がりが必要だ……」
「小娘とダンブルドアは、ご主人様が術を成功させる過程で、世界を行き来することになったと――本の記憶があるために、過去に行くことになったと」
「そうだ。小娘の世界にこの世界に関する本があるというのは盲点だった……しかし、本こそ、世界と世界を繋ぐ濃い繋がりに他ならぬ……。術を成功させるためには多くの犠牲が必要だった。俺様は、犠牲を増やし、何度か術をやり直した。名を知るためにも力を使う必要があった……おそらくは、その過程で世界を行き来させてしまったのだろう。小娘がダンブルドアに先に会っていたとは……」

 冷たい声の男が「ダンブルドア」という名を口にする時、フランクにはなぜか在らん限りの憎しみが込められているような気がした。ダンブルドアというのも何かの隠語か、それとも人の名かは最早フランクには判別出来なかったが、そのダンブルドアが「ハナ」という娘――小娘というからにはまだ成人もしていない少女――をこのスパイか犯罪者のような男達から守っているのだろうということは容易に想像がついた。

 しかし、男達の話は分からないことが多すぎる。術だの、召喚だの、世界を行き来だの、一体どういうことだろうか。フランクは眉根を寄せた。

「忌々しい、ダンブルドアめ……」

 冷たい声の男が低い声で言った。

「2年前も俺様はあやつのせいで逃げるしかなかった。ダンブルドアがあの場にやって来さえしなければ、俺様はあの場で小娘の体に取り憑けたのだ。クィレルはその命をすべて喰らい尽くしても俺様にホグワーツから逃げ去るだけの力しか与えられなかったが、小娘はそれよりずっと俺様に力を与えてくれただろう。以前は逃したが、今度こそ逃しはしない。小娘は必ず俺様の力を取り戻す糧となるのだ――しっ、黙れ!」

 突然、冷たい声の男がそう言って制すると、三度沈黙が訪れた。暖房の炎が弾ける音が聞こえ、数秒後、また男が囁いた。シューシューと息が漏れるような囁き声だった。

「小娘はもう言うまでもないだろうが、あの小僧を使うにも、お前にももう話したように、俺様なりの理由がある。他のヤツは使わぬ。あと数ヶ月が何だというのだ。あの小僧と小娘の周辺が守られている件だが、俺様の計画は上手く行くはずだ。あとは、ワームテール、お前が僅かな勇気を持てばよい――ヴォルデモート卿の極限の怒りに触れたくなければ、勇気を振り絞るがよい――」

 これは、大変なことを聞いてしまったのではないだろうか。フランクは思わず生唾を呑み込んだ。警察は嫌いだが、事の次第によってはこの場を離れ、丘を駆け下り、公衆電話まで走るしかないだろう。しかし、何をしでかすのか、もう少し聞かなければならない。フランクはいつでも反撃出来るよう歩行杖をギュッと握り締め、扉の隙間に更に右耳を近付けたのだった。