Make or break - 006

1. 小さな大草原の家

――Harry――



 ホグワーツに入学して以降、絶対に家に帰らなければなない夏休みだけがハリーにとって憂鬱な時間だった。ハリーの母方の親戚に当たるダーズリー一家は、揃いも揃ってハリーを冷遇し続けるし、不可思議な現象が大嫌いな彼らは魔法の「ま」の字すら耳にするのを嫌がった。それに加えて夏休みのダーズリー家では必ず嫌な出来事が起こった。一昨年はドビーのお陰で部屋に軟禁状態になったし、去年はハリーの天敵マージおばさんがやってきて、ハリーをいびり倒した。そして今年も例外なく、ハリーにとって素晴らしく最低な夏休みとなりつつあった。

 7月23日土曜日の朝、ハリーは2階の部屋から朝食のためにダイニングに下りてきた。ハリーはホグワーツの入学許可証を受け取るまでずっと階段下の物置暮らしだったが、入学が決まって以降は、ダドリーがおもちゃ置き場にしていた2階の1番小さな部屋がハリーの部屋だった。バーノンおじさんが物置からそこに移れと言ったのだ。

 ハリーはどうしてバーノンおじさんが移れと言ったのか分からなかった。入学許可証の住所に「階段下の物置」と書かれてあったことに恐怖したのかもしれないし、ハリーの機嫌を取ろうとしたのかもしれない。兎にも角にも、ダドリーがいくらごねてもこの決定は覆らず、バーノンおじさんが2つあったダドリーの部屋の1つをハリーに与えて以降、2階の1番小さな部屋がハリーの部屋になった。かつてハリーの寝室だった階段下の物置は、夏休みの間ハリーの学用品を封印しておく場所に変わり、バーノンおじさんはハリーが帰ってくるなり真っ先にハリーの荷物をそこに押し込めた。

 ハリーが階下に下りていきダイニングに入ると、そこには、ダーズリー一家がもう既に全員揃っていた。しかし、ハリーが下りてきたにもかかわらず、誰も彼もが知らんぷりをしている。でっぷりと太ったバーノンおじさんはデイリー・メールの朝刊の陰に隠れたままだし、細長いペチュニアおばさんは馬のような歯の上で唇をきっちり引き結び、グレープフルーツを4つに切っているところだった。大きいのが1つ、中くらいが2つ、薄っぺらが1つなのできっちり4等分ではなかった。

 バーノンおじさんとペチュニアおばさんの最愛の1人息子であるダドリーはかなり不機嫌な様子でダイニングテーブルの一画を占領していた。ただでさえ父親同様でっぷりと太っているのにふんぞり返って座っているので、いつも以上に幅をとっているようにハリーには感じられた。おばさんは不機嫌な様子の息子におろおろ声で「さあ、可愛いダドちゃん」と言いながらグレープフルーツの1番大きな四半分をダドリーの皿に取り分けたが、機嫌は更に悪化して、ダドリーは怖い顔をしておばさんを睨みつけただけだった。

 ダドリーの機嫌がこんなにも悪いのは、グレープフルーツに砂糖がかけられていないからではなく、夏休みが始まって以降、食事制限が始まったからだった。バーノンおじさんもペチュニアおばさんも、ダドリーの通知表に書かれた成績がどんなに悪くても気にもしなかったし、いじめをしているという報告だって「息子は元気がいいだけで蝿一匹殺せやしない」と涙ぐむだけだったが、あまりに適切な言葉で書かれた息子の体型に対する養護教諭の指摘だけはやり過ごせなかった。それでも、おばさんは散々息子は骨太なだけだと泣き叫んだが、学校にはもうダドリーに合うサイズの制服がないという現実を前に、どうすることも出来なかった。

 そこで、この砂糖も何もかけられていないただ酸っぱいだけの四半分のグレープフルーツというわけだ。スメルティングズ校の養護教諭がご丁寧にダイエット表まで作って送ってきたものだから、それに合わせて厳しい食事制限が始まったのだ。ダイエット表は冷蔵庫に貼られ、当然ダドリーの好物であるソフトドリンク、ケーキ、チョコレート、バーガー類は全部冷蔵庫から消えた。代わりに冷蔵庫の中にはバーノンおじさんぎウサギの餌と呼ぶ、果物や野菜なんかが詰め込まれ、今やダドリーは草食動物並の食事しかしていなかった。

 しかも、最悪なことにペチュニアおばさんはダドリーの気分が少しでもよくなるよう、家族全員に食事制限を言い渡したので、ハリーはたまったものではなかった。今日の朝食なんて、ダドリーに配られたものよりずっと小さな1番薄っぺらな四半分だけだ。おばさんは、ハリーより大きなものを食べられるということがダドリーの機嫌を保つ最もよい方法だと信じて疑っていなかった。

 ただしペチュニアおばさんは、ハリーにまったく食事制限の効果が現れていないことに、全然気付いていなかった。なぜなら2階の自室にハリーが魔法の巾着袋を隠し持っていることを知らないからだ。巾着袋はベッド下の床板の緩くなったところに隠されていて、ハリーはその中に帰りの汽車の中で買い込んだ食べ物を大量に隠し持っていた。巾着袋はそんなに大きなものではないけれど、中は魔法で広げられていて中には驚くほど多くのものが入った。早く部屋に戻ってちゃんとした朝食をとりたい――ハリーはそう思いながら、黙ってグレープフルーツを食べはじめた。すぐそばでは、おじさんがこれだけかと文句を言っている。

 ハリーはグレープフルーツをスプーンで掬いながら、去年の夏、ハナと2人で漏れ鍋に泊まっていた日々のことを思い出していた。8月のたった1ヶ月間だけだったけど、ハリーにとって、あの1ヶ月は何より素晴らしい1ヶ月だった。朝は好きな時間に起きて、それでパブに下りて行ったら、先に起きていたハナが予言者新聞を読んでいて、ハリーに「おはよう」とニッコリしてくれる。それから一緒に朝食を食べて、アイスクリームパーラーで勉強して、一緒に昼食をとり、ダイアゴン横丁を隈なく探検する。ファイア・ボルトの箒を好きなだけ眺めまくって、夜は「おやすみ」と言い合って眠りにつく。たったそれだけのことが、ハリーにはとてもかけがえのないものだった。ああ、家族ってこんな感じなのかな、と夢描いたりしたものだ。

 ハナは、ハリーが今まで出会ってきた女の子の中で1位2位を争うほど可愛くて美人な女の子だった。初めて出会ったのは1年生の時のホグワーツ特急の中で、最初に見た時、魔法界にはこんなに可愛い女の子がいるのかと素直に驚いたものだ。アジア系には珍しい明るいヘーゼルの瞳が印象的なハナは、勉強が出来ておまけに優しく思いやりがあって、周りの子より遥かに大人びた性格だった。いつもみんなのお姉さんのような感じなので、ハリーは常々、いとこがダドリーではなくハナだったらよかったのに、と思っていた。

 そんなハナだが、実は違う世界からやってきた人だった。そもそもハリーと同年齢ですらなかった。ハナは、自分が乗り移るための体が欲しかったヴォルデモートによってこの世界に呼び寄せられ、その影響で子どもの姿になり、元の年齢に戻れなくなってしまったのだ。しかも、召喚魔法が成功するまでの過程でいろいろあり、過去に飛ばされてしまったために学生時代のハリーの父親と出会っていたというから驚きだ。ハナはハリーの父親の友達だったのだ。

 ハリーの父親は違う世界からやってきたハナのことをとても気に入っていた。数えるほどしか会ったことがなかったというのに自分の親友としてその身を案じ、召喚を阻止しようとヴォルデモートと戦い、もし阻止出来なくとも、自らが後見人になり家族になると決意していた。どうしてハナに後見人が必要かといえば、ハナが元の年齢に戻れないことが、既に分かっていたからだ。ならば身寄りのないハナの後見人には自分がなるとハリーの父親が真っ先に名乗りを上げたのだ。

 けれども、ハリーの両親は亡くなってしまった。ペティグリューの裏切りによってポッター家の居場所を知ったヴォルデモートに殺されてしまったのだ。しかしながら、ハナがヴォルデモートの手に渡ることはなかった。ハリーの父親とその仲間が最後の最後でハナをダンブルドアに会わせていたので、事前にヴォルデモートの企みを知っていたダンブルドアが早々にハナを保護して守ったのだ。ハナの後見人も結局ダンブルドアになった。

 ハナはハリーの正式なお姉さんにならなかった。それでも、この事実を知った時の喜びは誰にも分からないだろうとハリーは思っていた。だって、ずっと本当のお姉さんだったらよかったのにと思い続けていた人が、自分の家族同然で、お姉さんになるはずの人だったのだ。結果としてお姉さんにはならなかったけど、ハリーにはちっともそんなこと問題ではなかった。ハナはハリーのことを弟のように可愛がってくれたし、ハリーだってそんなハナのことをずーっと姉のように思っていたのだから。その関係性は最早ハリーとダーズリー一家より遥かに家族らしいと言えた。キングズ・クロス駅で思い切って「姉さん」と呼んだ時のハナの嬉しそうな顔が何よりの証だった。

 それに、シリウスだ。シリウスはハリーの両親の友達で、ハリーの正式な後見人だった。長らく無実の罪を着せられてアズカバンという魔法界の監獄にいたが、先月、無実であったことが明らかになり、今は魔法省で聴取を受けている。シリウスの正式な無罪判決はまだだし、ハリーはすぐにシリウスと暮らすことは叶わなかったけれど、すべてが終わった暁には、一緒に暮らすことが出来るだろう。ハリーはその日が待ち遠しくて仕方なかった。その時にはハナとシリウス、そして2人の親友であるルーピン先生も一緒に暮らすのだ。

 ハナ、シリウス、ルーピン先生――もう先生を辞めたので先生ではないが――の存在は、夏休みに入って以降ハリーを大いに助けた。今年の夏は学用品が階段下の物置行きにならず、全部自分の部屋に持ち込むことが出来たのも、3人のお陰だった。ハナが学年末のキングズ・クロス駅でバーノンおじさんを脅したことがかなりの効果を発揮したのだ。危険な殺人犯や狼人間、学年一の才女――しかも怒った顔がかなり怖い――がハリーのバックにいると分かると、ダーズリー達の態度が一変したのだ。ハリーは「僕の姉さんは誰より呪文を使えていろんな呪いを知ってる」とダーズリー一家に教えるのを忘れなかった一方で、シリウスは無実だと告げることは都合よく忘れた。

 ハリーは一口、グレープフルーツを口に運んだ。そばではもう既に自分の分を平らげてしまったダドリーが恨めしそうにこちらを見ていて、バーノンおじさんはこんなの人間の食べ物ではないという顔で渋々グレープフルーツを口に運んでいる。ペチュニアおばさんは、食後の紅茶を淹れるため、キッチンで湯を沸かしているところだった。

 玄関のチャイムが鳴ったのは、まさにそんな時だった。バーノンおじさんはグレープフルーツを食べかけのまま皿の上に放置すると、こんな時間から誰だとばかりに腰を上げて廊下に出ていった。ダドリーはこの隙を逃すまいとしてバーノンおじさんの残したグレープフルーツを掠め取り、ペロッと平らげた。ペチュニアおばさんはヤカンに気を取られ、息子のしでかしたことに気付いてすらいなかった。

 玄関からは誰かの話し声と笑い声、それからバーノンおじさんが短く答えている声が微かに聞こえていた。まもなく、玄関扉が閉まると廊下で紙を破る音が聞こえ、ペチュニアおばさんがティーポットを持って戻ってきた。チャイムが聞こえていなかったのだろう。おじさんはどこに行ったのかとキョロキョロしている。おじさんは、それから1分後にカンカンになって戻ってきた。

「来い」

 ハリーに向かっておじさんが言った。

「リビングに。今すぐだ」

 何かしでかしただろうか。ハリーはわけが分からないまま立ち上がり、バーノンおじさんに続いてダイニングの隣にあるリビングに入った。ダイニングとリビングの間には扉があって、おじさんはハリーが入るなり、扉をピシャリと閉めた。

「おい」

 暖炉の方にツカツカと歩いていったおじさんがくるりとハリーに向き直って言った。今にもハリーを逮捕してやるとでもいうような雰囲気だ。しかし、ハリーには何が何だかさっぱり分からない。黙っていると、おじさんがまた言った。

「どういうことだ」

 何が「どういうこと」なの?
 ハリーはそう言いたいのをグッと我慢した。ただでさえバーノンおじさんはダドリーの食事制限に付き合わされて機嫌が悪いのだ。それなのにハリーがわざわざこんな朝早くからどれだけ虫の居所が悪いのかを調べる必要はなかった。

「こいつが今、届いた。お前に関する手紙だ」

 バーノンおじさんがハリーの鼻先に紫色の紙をヒラヒラ振って、ハリーはますます混乱した。一体誰がハリーについておじさん宛に手紙を書くと言うのだろうか。しかも、マグルの郵便配達を使って、だ。そんな知り合い、ハリーにはいなかった。おじさんは何も言わないでいるハリーをギロッと睨みつけると、手紙を見下ろし、読み上げ始めた。



 親愛なるダーズリー様、御奥様。

 わたくしどもはまだ面識がございませんが、ハリーから息子のロンのことはいろいろお聞き及びでございましょう。

 ハリーがお話ししたかと思いますが、現在イギリスでは、クィディッチ・ワールドカップが行われております。夫のアーサーが、魔法省のゲーム・スポーツ部に伝手がございまして、来月、そのチケットを手に入られることになりました。

 つきましては、ハリーを試合に連れていくことをお許しいただけませんでしょうか。これは一生に一度のチャンスでございます。イギリスが開催地になるのは30年振りのことで、チケットはとても手に入りにくいのです。もちろん、開催日までも、それ以後も、夏休みの間はずっと、喜んでハリーをお預かりいたしますし、学校に戻る汽車に無事乗せるようにいたします。

 お返事は、なるべく早く、ハリーから普通の方法でわたくしどもにお送りいただくのがよろしいかと存じます。なにしろマグルの郵便配達は、わたくしどもの家に配達に来たことがございませんし、家がどこにあるのかを知っているかどうかも確かじゃございませんので。

 ハリーにまもなく会えることを楽しみにしております。

 敬具

 モリー・ウィーズリーより

 追伸 切手は不足していないでしょうね。



 読み終えると、バーノンおじさんは胸ポケットに手を突っ込んで今度は別の何かを取り出した。今度も紙のようだ。おじさんは怒りの形相でハリーの目の前にそれを掲げた。

 それは、ウィーズリーおばさんの手紙が入っていた封筒だった。