Make or break - 001

1. 小さな大草原の家



 イギリスの首都であるロンドンは、ロンドン市とその他32の特別区で構成されており、大ロンドンとも呼ばれている。そんな大ロンドンの中心部にあるウェストミンスター市は、ロンドン市のすぐ西に位置している。市内には、広い公園や広場、バッキンガム宮殿やウェストミンスター寺院などの歴史的名所が数多く点在する一方、英国議会議事堂や首相官邸のあるダウニング街、中央官庁、英最高裁などが集まるホワイトホール一帯の他、マグルの政府中枢が集中して立地している。

 また、多くのマグルは知る由もないが、このウェストミンスター市内にはイギリス魔法界の有名な施設や機関がいくつか存在している。たとえば、チャリング・クロス通りにはイギリス魔法族であれば誰でも必ず訪れるとされるかの有名なダイアゴン横丁の入口「漏れ鍋」があるし、そのチャリング・クロス通りを南に下ったところにあるホワイトホールの真下にはイギリス魔法界の中枢である魔法省が存在している。

 そのウェストミンスター市の北西に、メアリルボーン地区はあった。大通りにはおしゃれなレストランやブティックが立ち並び、ホテルも数多く点在しているが、一方で住居も多く、通りを1本入れば、そこには閑静な住宅街が広がっている。メアリルボーンは所謂高級住宅街とされ、通りの両側にはビクトリアン様式のこれぞロンドンとも呼べる家々が軒を連ねている。

 バルカム通りも、そんなメアリルボーン地区の住宅街を構成する1つであった。メアリルボーン駅とベイカー・ストリート駅のほぼ中間に位置するこの通りには、1番地から順に規則正しく住宅が並んでいるが、いつのころからか27番地が消え去ったことに、住民達はまったく気付いていなかった。バルカム通りに住む人々は、27番地の所在を訊かれても決まってこう答えた。

「バルカム通りに27番地はないじゃないか。26番地の次は28番地だろう」

 けれども、27番地は確かにそこにあった。2階建てのなんの変哲もない戸建てで、外観はロンドンの街並みに合うクラシカルな雰囲気だ。前庭はそれほど広くはなく、向かって右側――歩道に面したところに数段程度の階段のついた玄関ポーチがあり、左側には大きな腰窓が2つ並んでいる。ポーチを上がって玄関扉を開けると、真っ直ぐに廊下が伸び、突き当たりに洗面所がある。廊下の中程には2階へと上がる階段があり、その向かい側――左手にはリビングへ入る扉がある。

 リビングは応接間を兼ねていて、入ると正面には今時珍しく電気式ではなく薪を使用する暖炉があり、その暖炉の前に2台のソファーとローテーブルが並んでいる。扉を入ってすぐ左側――テレビの真向かいの壁際――にはテレビも置かれていたが、もう何年も前から配線が抜かれ、それが戻された試しはなかった。

 暖炉に向かって右側、トップオーバルの開口が設けられた壁を挟んだ隣にはダイニングがあって、5人掛けのダイニングテーブルが置かれている。祖父母が大きな絵画を飾りたいと敢えて廊下側には扉が設けられず、ちょっぴり不便だ。そのダイニングから更に進むと広々としたL字型のキッチンがあり、裏庭に抜ける勝手口が設けられていた。

 勝手口から裏庭に出ると、前庭よりは広めのスペースが確保されていた。左手に薪を保管しておくスペースがあり、右手にはこぢんまりとした小屋が建っている。以前は小屋側の方から表に回ることも出来たが、小屋が建ってしまった今では私が横歩きしてようやく通り抜けられるかどうかの隙間しか残っておらず、裏庭から表に出ることも、表から直接裏庭へ出ることも難しくなっていた。ならば反対側から回ればと思うだろうが、そちらは隣家との塀が迫っていて、元々通り抜けは出来なかった。

 小屋は、煉瓦造りの三角屋根だった。広さは精々畳2畳分ほどと狭く、軒先も扉の高さほどしかない。扉はウォールナット材の片開きで、アンティークのような雰囲気があった。真鍮製のドアノブのすぐ上に鍵穴があり、中心よりやや上に同じく真鍮製のドアノッカーがある。ドアノッカーは円形の止まり木に止まっているふくろうの形をしていて、止まり木がノッカーになっていた。

 ノッカーの真下には長方形のサインプレートがあった。やっぱり真鍮製で、名前が刻まれている。今は「物置小屋」だ――私はドアノッカーを握ると、4回ノックした。当たり前だが、ただの物置小屋の中からは何の返事もない。私は、そのことには特に気にも止めずに鍵を取り出すと鍵穴に鍵を差し込み、左に1回、右に1回、回した。すると、たちまちカチャッと小さな金属音がして、サインプレートが右にスライドし、別の名前が表示された。



 小さな大草原



 扉を開くと、そこはただの狭い物置小屋ではなかった。入口から中程までは青々とした芝の草原が広がり、クィディッチ競技場ほどはある。奥には小さな池と鬱蒼と木々の茂る森があり、森もまたクィディッチ競技場くらいの広さがあった。入口から森まで小道が続いていて、池の近くにこれまたこぢんまりとした――でも、物置小屋よりは十分に広くて高さもある家が建っている。上を見上げれば、空は見渡す限りの青空で、太陽は私の頭からずっと高い位置にあった。扉を閉めると、カチャッと小さな音がしてサインプレートが元に戻った。

 ここは、私の家に出来た新たな建物だった。物置小屋や中にある家自体は流石に中古販売されていたものを購入して持ってきたものだけれど、それ以外は私がホグワーツから帰ってくるまでのほんの半月ちょっとの間にシリウスとリーマスが互いの能力を思う存分発揮して造ったものだ。それほど大きくはないとはいえ、家自体を運び込むなんてとんでもない人達である。

 物置小屋の中には当然ながら検知不可能拡大呪文がかけられて驚くほど広くなっていた。天井は気象変更呪文がかけられ、本物の空のようになっている。かなり高度な呪文だと思うけれど、それをあっさりやってのけるのだから2人の能力の高さが窺える。因みに、この物置小屋は手順を踏まずに普通に開けてしまうと本当にただの物置小屋になってしまう。扉は、振り返ると草原の中に奇妙にぽつんと残されていた。

 私はこの小さな大草原がかなり気に入っていた。ホグワーツから帰宅した翌日にこれを見せられた時にはそれはもう驚いたけれど、物置小屋の中なのにまるで外を散歩しているかのような気分になるし、思う存分運動も出来る。そして何より、ホグワーツの校庭と隠れ穴やディゴリー家があるオッタリー・セント・キャッチポール村を合わせたような雰囲気が私は大好きだった。

 1ヶ月前にシリウスと一緒に逃げ去ったバックビークもこの小さな大草原で暮らしていた。ここをかなり気に入ってくれているようで、今では物置小屋の森の中で自由に過ごしている。バックビークは、ハグリッドほどとはいかないものの、1ヶ月の間にシリウスとリーマスには大分慣れ、時々背に乗せて飛んでくれるらしい。私は夏休みが始まってまだ2週間なので、もう少し仲良くなれたら乗せて貰えないか頼んでみるつもりだ。

 小道を進み、私は家が建っている池の方へと足を進めた。家は、イギリスの田舎町を連想させる三角屋根の石造りで、煙突があった。小さな物置が併設されていて、中にはバックビークの餌が置かれている。その家の周りには、私が好きだろうと、リーマスがラベンダーや白バラを植えてくれていた。どういうわけか植えたばかりのバラはぐんぐん育ち、もう既に外壁に蔦を張り巡らせている。

 家のすぐそばには大きなブナの木が1本あり、小鳥が数羽、枝に止まって囀っていた。小鳥は裏庭にいたのをシリウスが誘い込んでいつの間にか入れていた、とリーマスが教えてくれた。どうやらバックビークが寂しくないようにと考えたらしい。森には実をつける木を多く植えているので、食べ物には困らないだろう。池には小魚が泳いでいて、陽射しに反射して時折キラッと煌めいる。これはリーマスがどこからか連れてきたものだ。私がいない間、魚釣りをして競い合ったりして遊んでいたらしい。

「ハーマイオニーに荷物は送り終えたかい?」

 あともう少しで家に着くというところで、開いていた窓からリーマスが顔を出して訊ねた。実は、日課の運動をして朝食を食べたあと、先月大活躍してくれたクルックシャンクスにプレゼントを送ったところだったのだ。リーマスは雑誌を手にしていて、表紙には『呪文の挑戦』と書かれている。『呪文の挑戦』とは、呪文の学術雑誌だ。いろんな有識者の論文が載っていて、興味深いのだと一昨日話していた。ホグワーツを退職以降時間が出来たので、リーマスはこのところ新たな知識を取り入れることに精を出していた。

「たった今出してきたところよ。喜んでもらえるといいけれど。ところで、シリウスは?」
「バックビークの朝食だ。もう10時だからね――ハナ、お茶を淹れるかい?」
「ええ、ありがとう。これからレポートを書かなくちゃ。それからまたあれの原因について調べないと……昨日、上手くいかなかったから……」

 溜息を1つ溢すと、私は戸口に回り家の中へと入った。家の中はシンプルな造りで、部屋が1つと、あとはシャワー室とトイレが奥にあるだけだ。戸口のすぐ右側に箒を立てかけられる場所があり、今は2本だけ立てかけてある。左側には、一人暮らしのアパートにあるような小さなキッチンと食器棚があって、お茶くらいなら出来るようになっていた。

 中央には、3人で使うにしてはやけに大きなテーブルが1台置かれていた。テーブルの上には大鍋が3つに羊皮紙の束と本が積み上げられ、壁の一面を埋め尽くすように備えつけられた棚にも本や魔法薬の材料がぎっしりと詰まっている。リーマスは戸口から1番遠い窓際の特等席に椅子を置いて『呪文の挑戦』を読んでいたが、私が家に入るとテーブルの端にそれを伏せて置き、お茶の準備をしてくれた。

 私は左端の大鍋の様子を見て、それから真ん中の大鍋を覗き込んで顔をしかめると、それを一旦見なかったことにして、羊皮紙の束の前にある椅子に腰掛けた。本を数冊引き寄せると、そばに置かれたままのガラスペンを握りまだ5センチしか進んでいないレポートに取りかかった。リバチウス・ボラージ著の『上級魔法薬』やジグムント・バッチ著の『魔法薬之書』やクリスマスの時にダンブルドア先生から貰った魔法薬学の本を手当たり次第広げていき、役立ちそうな記述を探していく。

「“魔法薬という、古代から近代に至るまでmetaphysics的洞察を欠いた物理学は、物理的顕現を欠いたmetaphysicsと同じくらい満足のいかないものであった”――メタフォジックス? 聞き慣れない単語だわ」
形而上学けいしじょうがくだよ。世界の根因や、物や人間の存在理由や意味など、感覚を超越したものについて考える哲学の一種だ」
「紅茶をありがとう――魔法薬学にも哲学的な観点が必要なの? えーっと、“秘密保持の必要性から、聖書や異教の神話、占星術、数秘術、その他の神秘的・秘教的な分野の用語や記号を借りてきたため、非常に単純な調合法でさえ、難解な呪文のように捕らえられていた”――なるほど、その用語や記号を解き明かすために形而上学けいしじょうがく的観点が必要だったのね。物理的な考えだけでは、調合法を解き明かせなかったんだわ。魔法薬学の概念やプロセスを示す言語が統一されたのは、研究者達の努力の賜物ね」

 私は小難しく書かれた内容をようやく理解すると、その部分をレポートに書き足した。リーマスは、濃い紅茶を注いだカップを私のそばに置くと、また特等席に戻って伏せていた雑誌を手に取り、続きを読み始めた。そんなリーマスの手首には真新しい真紅の革製のブレスレットが嵌められ、私の左手首にも青い革製のブレスレットが戻っていた。1ヶ月前、リーマスには、シリウスと連絡を取るために私のものを貸していたんだけれど、新たにリーマス専用のものを用意したのである。とはいえ、同じ家に暮らしているので、今のところブレスレットの出番はなかった。

 私が取り組んでいるのは、スネイプ先生から出された魔法薬学の特別課題だった。レポートに与えられたテーマは『魔法薬学の理論と古代から近代に至るまでの魔法薬の推移』だ。習っていない範囲のレポートを書くのはかなり骨が折れる作業で、先程のように聞き慣れない単語が現れては頭を悩ませる日々だ。私は日中のほとんどを小さな大草原の家の中で過ごし、レポートや魔法薬調合の課題に取り組んでいる。リーマスは「君は自らやるべきことを増やしすぎる。私のことは気にしなくていい」と言っていたが、シリウスの方はスネイプ先生に教えを乞うということ以外は賛成で「材料費なら心配いらない。私の金庫に掃いて捨てるほどある」と語った。

 結局、リーマスが早々に折れ、夏休みが始まってから1週間ほどで小さな大草原にこの家の内装を整えてくれ、私が思う存分魔法薬を調合出来るようにしてくれた。レポートを書くだけなら自宅の方でも問題なかったが、やっぱり魔法薬を煎じるとなるとそれ専用の部屋なりスペースなりが必要だったのだ。今では暇を持て余したシリウスも大鍋を1つ持ち出してポリジュース薬の精製に励んでいる。去年私が渡したものは物置小屋の準備でほとんど飲み終え、残り1本になってしまったので、作り方を覚えたいらしい。私もスネイプ先生に提出する魔法薬の1つはポリジュース薬を作る予定だったので、今は2人でクサカゲロウを煎じているところだ。クサカゲロウは21日間も煎じる必要がある。

 魔法薬調合の課題では、魔法薬を3つ作るよう指定された。その1つが今取りかかっているポリジュース薬である。スネイプ先生は私が調合出来ることを知っているので、実力を見たかったのだろう。それ以外に指定されたのは、安らぎの水薬と生ける屍の水薬だ。安らぎの水薬はO.W.Lレベルだし、生ける屍の水薬に関しては6年生にならないと習わない上級の魔法薬だ。私は教科書を持っていなかったけれど、リーマスが綺麗に保管していた――魔法薬学が苦手であまり開かなかったと打ち明けた――ものを貸してくれて、2つの魔法薬はそれを見て調合する予定だ。

 実は、昨日早速生ける屍の水薬に挑戦したのだけれど、あえなく失敗に終わっている。作り方どおりに調合したというのにどういうわけかまったく上手く出来なかったのである。それが先程私が覗いてしかめっ面をしていた真ん中の大鍋の中身、というわけだ。一体何がどう悪かったのか、要検証のため、失敗作は捨てずに取っている。だって、間違いなく教科書どおりに調合したのに失敗したのだ。これは教科書が間違っているとしか思えない。

「教科書が間違ってる?」

 私はふと思い至って、たった今レポートに書き込んだ内容を読み返した。そこには「秘密保持の必要性から、聖書や異教の神話、占星術、数秘術、その他の神秘的・秘教的な分野の用語や記号を借りてきたため、非常に単純な調合法でさえ、難解な呪文のように捉えられていた」と一言一句間違いなく記載されている。リーマスが私の独り言に不思議そうに顔を上げて訊ねた。

「どうしたんだい?」
「難解な呪文よ!」

 私は叫んだ。

「きっとそうだわ。古代から近代までに発明された魔法薬なら、用語や記号を読み解くのに苦労したはず……この作り方でもおおよそは正しいのかもしれないけれど、もっと上手く出来るやり方があるはず……要検証よ!」
「セブルスは君がその考えに至らないと踏んでその魔法薬を指定したんだろうな」
「将来の野望のためにも絶対負けないわ」
「将来の野望?」
「医療用に使われる魔法薬を飲みやすくするのよ。あんな美味しくないもの、苦しみながら飲みたくないもの」

 胃を痛めた時に飲まされた魔法薬の味を思い出しながらそう言うと、リーマスは「それは大それた野望だな」と笑った。確かに今のレベルではそんなこと夢のまた夢だろう。けれど、それが実現出来たらどんなにいいか、と思うのだ。もし実現出来たら、リーマスは苦しみながら脱狼薬を飲まなくても済む――私は、3年生の時、毎月リーマスが脱狼薬を飲むのをそばで見ながら本当にそう思ったのだ。私が脱狼薬を作れるようになりたいのには、そういう理由もあった。

「ハナ、荷物はロキだけで大丈夫だったか?」

 私がレポートを始めてまもなくして、シリウスが小さな大草原の家に帰ってきた。森にいるバックビークのところへ箒で行っていたシリウスは、既に2本立てかけてある箒置き場に自分の箒を立てかけるとサッと杖を振って紅茶の準備をしながら、1番右側の大鍋を覗き込んだ。1番右側の大鍋はシリウスがクサカゲロウを煎じている鍋だ。

「ええ、大丈夫だったわ。ねえ、シリウス、昨日失敗した魔法薬だけど、調合法を少し検証してみようと思うの」
「調合法を?」
「ほら、『上級魔法薬』のこの記述見て――興味深いでしょ?」
「確かに興味深いが、くれぐれもスネイプのようにだけはならないでくれ。くれぐれも、だ」

 シリウスはそう言ってドカリと私の隣の椅子に腰掛けると飛んできた紅茶のカップを手に取った。その表情はどことなく不機嫌だ。どうやら私がスネイプ先生に教えを乞うことに、まだ納得していないらしい。スネイプが教えるくらいなら自分が教えると言いたいのに、脱狼薬は作れないのでシリウスは余計イライラしているのだ。私は雑誌から顔を上げて呆れたような顔をしているリーマスと顔を見合わせると肩を竦めた。

 1994年7月13日――4度目の夏のはじまりだった。


 第5章を読むに当たり、こちらを必ずお読みください。