The ghost of Ravenclaw - 238

26. 逆転時計タイムターナー

――Harry――



 暴れ柳のウロからクルックシャンクスが飛び出してきたのは、スネイプが叫びの屋敷に向かってから1時間半近く過ぎてからだった。クルックシャンクスがコブに触れて柳の動きを止め、スネイプ、ペティグリュー、ロン、ハリー、ハーマイオニーが次から次にウロの中から這い出してくる。みんな迫りくるルーピン先生から一刻も早く遠ざかろうとトンネルの中を急いできたものだから、息も絶え絶えだ。ハリーはスネイプがあんなにゼーゼーいって汗だくになっているのを初めて見た気がした。

 いつの間にか雲が流れ、明るい満月の光が辺りを照らしていた。一行は、全員が暴れ柳の外に這い出ると、休むもなく全速力で城に向かって進んだ。ヒーヒー言っているペティグリューをスネイプがあまりにも乱暴に引っ張るので、ペティグリューが引っ張られる度に、ペティグリューて手錠で繋がっているロンも引っ張られた。3人のあとには「ハリーとハーマイオニー」が続き、最後に全員が樹下から出たあと、クルックシャンクスが一行を追った。

 今、ペティグリューを捕まえられたらどんなにいいだろう。ハリーは暴れ柳からもう十分に離れたかというところで崩れ落ちるようにして「自分達」がその場に倒れ込むのを見ながら思った。スネイプのローブから飛び出している杖をペティグリューが狙っているのは知っている。ペティグリューがその杖を手に取る前に、全身金縛りにでもかければ――。

「ハリー」

 ハリーの考えを見抜いたかのようにハーマイオニーが釘を刺した。

「じっとしていなきゃいけないのよ。誰かに見られてはいけないの。私達にはどうにも出来ないことなんだから……」
「じゃ、またペティグリューを逃してやるだけなんだ……」
「暗闇で、どうやってネズミを探すっていうの? 鷲になったハナだって見つけられなかったのに!」

 ハリーが拗ねたような声を出すと、ハーマイオニーがピシャリと言った。

「私達にはどうにも出来ないことよ! 私達、シリウスを救うために時間を戻したの。他のことは一切やっちゃいけないの!」
「分かったよ!」

 半ば投げやりにハリーが返事を返してまもなく、鷲が暴れ柳のウロから飛び出してきた。このあとは確かシリウスとルーピン先生が出てきて、それからペティグリューが逃げて、ルーピン先生が――。

「ハーマイオニー!」

 ハリーはハッとしてハーマイオニーに言った。

「行かないと!」
「ダメよ。何度も言ってるでしょ――」
「違う。割り込むんじゃない。ルーピンがまもなく森に駆け込んでくる。僕達のいるところに!」

 ハリーとハーマイオニーは大急ぎで木に結びつけていたバックビークの手綱を解いた。これからバックビークを連れて急いで隠れるところを探さなければならない。ハーマイオニーが青い顔をして呻いていた。

「早く! ねぇ、どこへ行ったらいいの? どこに隠れるの? 吸魂鬼ディメンターがもうすぐやってくるわ――」
「ハグリッドの小屋に戻ろう!」

 ハリーは先程ハグリッドが城の方へ向かったのを思い出して言った。

「今は空っぽだ――行こう!」

 転がるようにして、ハリーとハーマイオニーは森を走り抜けハグリッドの小屋を目指した。バックビークはハグリッドの小屋に戻れるのが嬉しいのか、手綱を引かれ、2人のあとを悠々と走っている。けれども、2人はそんなバックビークの様子を気にしている場合ではなかった。背後から狼人間の遠吠えが聞こえている。2人は全力疾走し、やがて、ハグリッドの小屋が見えてくるとバタバタと中に駆け込んだ。小屋の中では突然飛び込んできた2人と1匹にボアハウンド犬のファングが驚き、吠え立てた。

「シーッ、ファング。私達よ!」

 ハーマイオニーが急いで駆け寄って、耳の辺りを撫でるとファングはようやく飛び込んできたのが知っている人物だと分かり、静かになった。その間にバックビークはそそくさと暖炉の前に寝そべって翼をたたみ、ひと眠りしようとしていた。ハグリッドの小屋に戻れたのがとても嬉しそうで満足気だ。

「危なかったわ!」

 ハーマイオニーが青い顔のまま言って、ハリーはそれに短い返事を返しつつ、難を逃れたことに胸を撫で下ろしながら、窓から外を覗き込んだ。ここからだと暴れ柳もはっきりとは見えないし、何が起こっているのかさっぱり分からなかった。これではいつシリウスが8階に連れて行かれるのかも分からない――。

「ねえ、僕、また外に出た方がいいと思うんだ。何が起こっているのか、見えないし――いつ行動すべきなのか、これじゃ、分からない――」

 ハリーがハーマイオニーを振り返りながら言った。ファングから顔を上げてこちらを見たハーマイオニーはなんだか胡散臭げにハリーを見ている。これまでの言動からハリーが本当は過去にちょっかいを出そうとしているのではないかと怪しんでいるらしい。ハリーは慌てて付け加えた。

「僕、割り込むつもりはないよ。でも、何が起こっているのか見えないと、シリウスをいつ救い出したらいいのか分からないだろ?」
「ええ……それなら、いいわ……」

 それはもっともだと思ったのか、ハーマイオニーが納得したように頷いた。

「私、ここでバックビークと待ってる……でも、ハリー、気をつけて――狼人間がいるし――吸魂鬼ディメンターも――」

 不安げにしているハーマイオニーをハグリッドの小屋に残し、ハリーは再び外に出た。そうして、扉の前で小屋に沿って湖の方へと回り込もうかと考えていると、遠くでキャンキャンという鳴き声が聞こえ、ハリーは顔を上げた。あれは、シリウスが吸魂鬼ディメンターに襲われている声だ。まもなく、「自分とハーマイオニー」がシリウスのところに駆けつけるだろう。

 ハリーは少し先にある湖の方をじっと見つめた。ハーマイオニーには状況を知るためだなんだと言って出てきたが、ハリーの中にはちょっとした期待のようなものが渦巻いていた。これからもっと湖の方に近づき、様子をうかがっていたら、あの守護霊を送り出した誰かが現れるのをこの目で見られるかもしれない。

 けれども、時間を巻き戻ってきたハリーは誰にも見られるわけにはいかなかった。本当にこのまま湖の方へ近付いていいのか分からず、ハリーはハグリッドの小屋の扉の前で立ち止まった。ハーマイオニーが口を酸っぱくして、姿を見られてはならないと言っていた。でも、でも――ハリーは見られたいのではない。こっそり、状況を見たいだけなのだ。どうしても、真相が知りたかった。

 ハリーが迷っている間にも、吸魂鬼ディメンターが四方八方からやってきて、湖のへと向かっていた。このまま近づき過ぎれば、自分の方にも吸魂鬼ディメンターがやってくるかもしれない……。ハリーは一瞬そんな不安に駆られたが、吸魂鬼ディメンターはどういうわけかハリーの方には一切近付かず、湖の向こう側へと動いていた。

 これなら、対岸から様子を見るだけなら何の問題もないはずだ。ハリーはその場から走り出し、湖の方へと近付いていった。ハリーの頭の中にはもう、父親のことしかなかった。あれがもし、父親だったとしたら、この目でちゃんと確かめて、焼き付けておきたかった。しかし、湖の目の前にきても、ハリーの他に誰かいる気配はない。ただ、湖の向こう岸に小さな銀色の光が見えるばかりだ。

 「ハリー」が守護霊を出そうと奮闘していた。ハリーは水際にあった低木の陰に飛び込み、木の葉の隙間から対岸の様子を眺めた。「ハリー」の弱々しい銀色の光がふっと消え、吸魂鬼ディメンターが「ハリー」に群がり始めた。1番手前にいる1人がフードを脱いでいる。空を覆い尽くす黒い塊の中に一羽の鷲がまるで飛矢のごとく飛び込み、パッと銀色の光が現れると、吸魂鬼ディメンターの行く手を阻んだ。

「早く」

 ハリーは辺りを見渡しながら呟いた。

「父さん、どこなの? 早く――」

 しかし、誰も現れない。ハリーは顔を上げて向こう岸の吸魂鬼ディメンターの輪を見た。もう救い主が現れてもいいころなのに、一向にその姿が見えない。ハリーの記憶が確かなら、ここに現れるはずなのに――ここに?

 ハリーはハッとして湖の対岸を見た。今、ここにいるのは自分自身だ――僕は父さんを見たんじゃない。自分自身を見たんだ――ハリーは低木の陰から飛び出すと、杖を取り出して叫んだ。

「エクスペクト! パトローナム!」

 何が最も幸せかなんて、最早考えるまでもなかった。だって、もう誰もハリーのことを両親が死に、家族のいない可哀想な男の子なんて呼べなくなるからだ。ハリーには、素敵な家族が一気に2人も増えた。これ以上の幸せがあるだろうか。

 対岸が一層眩しくなった瞬間、ハリーの杖の先から目も眩むほど眩しい銀色の動物が吹き出した。ハリーは目を細めて、自分の守護霊が何なのか見ようとした。まるで馬のようだ。暗い湖面を向こう岸へと音もなく疾駆していく。ハリーには守護霊が頭を下げて、群がる吸魂鬼ディメンターに突進して行くのが見えた。

 ハナの守護霊がふっと消え去り、ハリーの守護霊の銀色の光に照らされて呆然と立ち尽くしているのが見えた。守護霊は、そんなハナと地面に倒れている黒い影の周りをぐるぐると駆け回り、吸魂鬼ディメンターを退却させると、静かに水面を渡り、こちらに戻ってきた。

 守護霊が近づくにつれ、ハリーはその姿を次第にはっきりと見て取れるようになった。馬のようだと思ったが、馬ではなかった。一角獣ユニコーンのように角が生えているが、一角獣ユニコーンでもなかった。牡鹿が、空にかかる月ほどに眩い輝きを放ち、ハリーのほうに戻ってきていた。

 ハリーは父親のあだ名が「プロングズ」である意味がようやく理解出来たように思えた。牡鹿の頭に生える角は枝分かれし、凛々しくも美しい。この立派な角をもじって、ハリーの父親には「プロングズ」のあだ名が贈られたのだろう。プロングズには枝分かれ、の意味がある――。

「プロングズ」

 ハリーは呟き、震える指で手を伸ばした。岸辺まで戻ってきた牡鹿はじっとハリーを見つめ返したあと、頭を下げて、そして、ふっと消えた。