The ghost of Ravenclaw - 236
26. 逆転時計
――Harry――
「危険生物処理委員会は、ヒッポグリフのバックビーク、以後被告と呼ぶ、が、6月6日の日没時に処刑さるべしと決定した――」
ファッジが死刑執行の通知を読み上げている声が裏口の隙間から聞こえていた。バックビークに速やかに近付いていったハリーは、秋学期の最初の授業でやったことを思い出しながら、瞬きをしないように注意しつつ、バックビークの荒々しいオレンジ色の瞳を見つめ、お辞儀をした。バックビークはこの1年の間にすっかりハリーに見慣れたのか、ハリーがお辞儀するとすぐに鱗で覆われた膝を曲げて一旦身を低くし、お辞儀のような動作をした。
「……死刑は斬首とし、委員会の任命する執行人、ワルデン・マクネアによって執行され……」
ハリーは速やかにバックビークに近付き、バックビークと柵とを繋いでいるロープを解いた。
「バックビーク、来るんだ」
ハリーが囁くように話しかけた。
「おいで、助けてあげるよ。そーっと……そーっと……」
しかし、ロープを引っ張っても、バックビークはビクともしない。その間にファッジは通知を読み終わり、いよいよ署名する段階まで来ていた。
「以下を証人とす。ハグリッド、ここに署名を……」
もうあまり時間がない。ハリーは、全体重をかけてロープを引っ張った。けれども、やっぱりバックビークはビクともしない。それどころか、バックビークは前脚で踏ん張ってさえいた。
「さあ、さっさと片づけましょうぞ」
ハグリッドの小屋から委員会の老魔法使いのヒョロヒョロとした声が聞こえた。まずい――ハリーは慌てて力いっぱい引っ張った。茂みの陰からハーマイオニーが真っ青になって顔を突き出している。
「ハグリッド、君は中にいた方がよくはないかの――」
「いんや、俺は――俺はあいつと一緒にいたい……あいつを独りぼっちにはしたくねえ――」
それから少しして、小屋の中から足音が聞こえてくるとハリーはいよいよ焦った。このままでは見つかってしまう――。
「バックビーク、動いてくれ!」
懇願しながら、ハリーが渾身の力でバックビークの首にかかったロープを引っ張ると、イライラと翼をこすり合わせながらも、バックビークはとうとう歩きはじめた。しかし、森までまだ3メートルはある。それにハグリッドの裏口から丸見えだ。どうしよう――ハリーがそう思っていると、タイミングよくダンブルドアの声がした。
「マクネア、ちょっと待ちなさい。君も署名せねば」
小屋の足音が止まり、ハリーは今のうちだとばかりにバックビークを引っ張って森へと向かった。バックビークは不機嫌そうに嘴をカチカチ言わせながらも、少し脚を速め、ハリーについてくる。ハーマイオニーはなおも青い顔をしてこちらに顔を突き出しながら「早く!」と口だけを動かした。
ダンブルドアが話している声を聞きながら、ハリーはもう一度ぐいっとロープを引っ張った。バックビークは遂に観念したのか、諦めたように早脚になり、ハリーはやっとの思いでハーマイオニーのそばに辿り着いた。
「早く! 早く!」
茂みの陰からハーマイオニーが飛び出してきて、自分も手綱を取りながら呻くように言った。ハリーとハーマイオニーは力を合わせて全体重をかけ、バックビークを森の奥へ奥へと急かした。ハリーが肩越しに振り返ると、もう既に視界は遮られ、ハグリッドの裏庭はもう見えなくなっていた。
「止まって! みんなが音を聞きつけるかも――」
ハリーがそう囁いてから数秒後、ハグリッドの裏口がバタンと開く音がした。ハリー達はじっと音を立てずにその場に潜んだ。バックビークも大人しくしていて、ハリーには、まるでバックビークまでも耳を
「どこじゃ?」
老魔法使いの声がした。
「ここに繋がれていたんだ! 俺は見たんだ! ここだった!」
次はマクネアがカンカンに怒っている声だ。
「これは異なこと」
今度はダンブルドアが言った。素っ惚けているような、どこかこの状況をおもしろがっているような声だった。
「ビーキー!」
ハグリッドが声を詰まらせた。それから、シュッという音に続いて、ドサッと斧を振り下ろす音がした。前の時にはそれがバックビークを処刑してしまった音に聞こえたけれど、ハリーとハーマイオニーはようやくそれが間違いだったと気付いた。あの音は、マクネアが癇癪を起こしてかぼちゃ畑の柵を壊した音だったのだ。そして、これも前の時には聞こえなかったハグリッドの言葉が、啜り泣きに混じってハリー達の耳に届いた。
「いない! いない! よかった。可愛い嘴のビーキー、いなくなっちまった! きっと自分で自由になったんだ! ビーキー、賢いビーキー!」
間に合ってよかった――ハリーがホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、バックビークがハグリッドのところへ行こうとロープを引っ張り始めて、ハリーとハーマイオニーは大急ぎでロープを握り直した。バックビークの力は強く、ハリー達はそれを押さえ込むのに踵が森の土にのめり込むほど足を踏ん張らなければならなかった。
「誰かが綱を解いて逃がした! 探さなければ。校庭や森や――」
「マクネア、バックビークが盗まれたのなら、盗人はバックビークを歩かせて連れて行くと思うかね? どうせなら、空を探すがよい……ハグリッド、お茶を一杯いただこうかのをブランデーをたっぷりでもよいの」
「は――はい、先生様。お入りくだせえ、さあ……」
ハリー達が耳を澄ましていると、マクネアがブツブツと悪態をつく声と足音が聞こえ、やがて裏口がバタンと閉まると再び森に静寂が訪れた。
「危なかったわ――」
まるで今の今まで息を止めていたかのようにどっと息を吐きながらハーマイオニーが言った。
「私、ハナに見つかるかと思ったわ。でも、どうしてあそこにセドリックが来たのかしら? ハナはどこに連れて行かれたの?」
「さあ、分からない――でも、セドリックはハナとシリウスの協力者だったんだと思う」
「セドリックが? 本当に?」
「覚えてない? クリスマス休暇の直前の3本の箒で、ハナとセドリックのテーブルの上にバタービールが3本あった。それに、セドリックは前々から鷲のことを気にしていたし、2人は仲直りしてから夕食後に頻繁に会うようになってた――セドリックはハナの秘密を僕達が知るよりずっと前に知ってたんだと思う。ハナが入院した時だって、セドリックが代わりにシリウスの食事を運んだに違いないよ。だからシリウスはハナが倒れたことも知ってたんだ。だって、ハナが自分からそれを言うわけないし……それより、これからどうする?」
ハリーが周りを見回しながら訊ねた。これからシリウスが8階のフリットウィック先生の事務室に入れられるまで、どう行動していいのかさっぱり分からなかった。なにせ、これから数時間、バックビークを連れていなくてはならないのだ。
「ここに隠れていなきゃ」
ハーマイオニーが言った。
「みんなが城に戻るまで待たないといけないわ。それから、バックビークに乗ってシリウスのいる部屋の窓まで飛んでいっても安全だ、というまで待つの。シリウスはあと2時間ぐらいしないとそこにはいないのよ……ああ、とても難しいことだわ……」
ハーマイオニーは緊張した面持ちでそう続けると、恐々と森の奥を見た。太陽が沈みかけ、暗闇が次第に迫ってきている森の中は視界が悪くなりつつある。このままでは、何が起こっているのかまったく分からなくなってしまうのではないだろうか。ハリーは状況が分からないことに不安になった。何が起こっているのか把握していなければ、シリウスを助けに行くなんて無理だ。シリウスを助けるためにはタイミングは重要なのだ。
「移動しなくちゃ」
よくよく考えてからハリーは言った。
「暴れ柳が見えるところにいないといけないよ。じゃないと、何が起こっているのか分からなくなるし」
「オッケー。でも、ハリー、忘れないで……私達、誰にも見られないようにしないといけないのよ」
暗闇が急速に森を覆い尽くそうとしていた。視界は狭まり、もう数メートル先を見るだけでやっとだ。ハリーとハーマイオニーはバックビークの手綱をしっかりと握り締めて暗い森を進んだ。校庭が見える場所をつかず離れず、木々を縫うようにを進み、ようやく暴れ柳が見えるところまでやってきた2人は木立の陰に隠れた。
「ハリー達」がハグリッドの小屋を離れてからもうしばらくが経っているが、暴れ柳のそばには誰の姿も見えない。もう、みんな叫びの屋敷に行ってしまったのだろうか? ハリーがそっと木立の陰から顔を出して様子を窺っていると、誰かが猛スピードで近付いてきていることに気付いてハリーは声を上げた。
「ロンが来た!」
どうやら暴れるスキャバーズに手こずっていて、まだ暴れ柳の方まで来ていなかったらしい。見てみると、オレンジ色の猫と黒い影が芝生を横切って駆けてきているのが分かった。クルックシャンクスとロンだ。ロンの声がハリー達の耳にはっきりと届いた。
「スキャバーズから離れろ――離れるんだ――スキャバーズこっちへおいで――」
ロンがやって来てから少しして、「ハリーとハーマイオニー」がロンを追ってこちらに走ってきた。ロンがスライディングしてスキャバーズを捕まえ、「ハリーとハーマイオニー」がその手前で急停止すると、今度は柳の根元から大きな犬が姿を現した――シリウスだ。2人は犬が「ハリー」を転がし、ロンを咥えたのを見た。
「ここから見てると、余計ひどく見えるよね?」
あの時は無我夢中だったから気にする余裕はなかったが、端から見るとどうにもひどい有り様だ。ハリーはシリウスがロンを柳の根元に引き摺り込むのを眺めながら言った。最後にロンの足が折れるところなんて最悪だ。すると、
「アイタッ――見てよ、僕、今、木に殴られた――君も殴られたよ――ヘンテコな気分だ――」
ロンに近付こうとした「自分達」が暴れ柳の太枝に殴りつけられて、ハリーは思わず呻いた。樹下に入られ怒り狂っている暴れ柳は、ギシギシと軋みながら、低い方の枝を鞭のように動かしている。2人は「自分達」が木の幹に辿り着こうとあちこち走り回るのを見ていた。そして、クルックシャンクスがサーッと暴れる枝を掻い潜り、根元のコブに触れると柳はピタリと止まり動かなくなった。
「クルックシャンクス! この子、どうして分かったのかしら――?」
「あの犬の友達なんだ。僕、2匹が連れ立っているところを見たことがある。行こう――君も杖を出しておいて――」
2人は「自分達」がそう話して、暴れ柳に近付くのを見つめた。まず、「ハリー」がウロの中に入り、それから「ハーマイオニー」が入った。透明マントは柳のそばに落ちて忘れ去られたままだった。