The ghost of Ravenclaw - 233

26. 逆転時計タイムターナー



 私達も一旦湖に行くべきか、それともこのまま医務室のそばで「私」が現れるのを待つべきか――外壁の窪みに隠れたまま、私は思案した。過去に影響を及ぼさないように行動しつつ、最善な結果を引き出すにはどう行動するのがいいのか、慎重に考えなければならない。

 今、何が起こっているのか知るには湖に行くのが最善だろう。けれど、かと言って、湖に行ったとしても、私達に出来ることは何もない。襲われているのをただ見ていることしか出来ないのだ。それは、とてもじゃないけれど我慢出来そうにない。そりゃ、牡鹿の守護霊を誰が創り出したのかは知りたいけれど、その感情は今優先されるべきではないだろう。なら、このまま医務室の方へと移動するしかないだろうが、果たしてそれは最善なのだろうか。

「君達が吸魂鬼ディメンターに襲われた時、牡鹿の守護霊が助けてくれた……」

 考え込んでいると、隣からセドリックのポツリと呟くような声がして私は顔を上げた。未だに目くらまし術はきっちりと仕事をしていてセドリックの姿は見えなくて、カメラが宙にぷかぷか浮いているだけだ。

「ハナ、牡鹿の守護霊はどこから現れた?」
「ええっと、確か、湖の対岸から……私、ジェームズだと思ったの。ジェームズは牡鹿の動物もどきアニメーガスだから……基本的に動物もどきアニメーガスが変身出来る動物は守護霊と同じになるって本に書いてあるのを読んだことがあるし……」
「考えたんだけど、それってハリーなんじゃないかな」

 セドリックがそう言って、私は俄かに衝撃を受けた。けれども、確かにセドリックの言うとおりだ。牡鹿の守護霊が現れた時はハリーが同時に2か所に存在するなんてありえないと思っていたからジェームズなんじゃないかと考えたけれど、時を戻れる魔法道具があるなら、ハリーが同時に2か所に存在するのは可能なのだ。だとしたら、あの時助けてくれたのはハリーで間違いない。様子を見るために――あるいは、ジェームズの姿を探して、湖の対岸にいたのだろう。

「だったら、私達はカメラに集中するべきだわ」

 そうと決まれば話は早い。私はきっぱりとそう言うと気持ちを完全にカメラの方に切り替えた。ハリーとハーマイオニーが湖の方にいてくれるなら、私達は私達のやるべきことをやるべきだろう。

「このまま時が過ぎるのを待ってから医務室に戻って、カメラを提出するのがいいかしら?」
「どうかな。ファッジは君が錯乱の呪文にかかっていると思ってるし……」
「そうなのよね。1番はやっぱり、その証言を信じて貰えそうなスネイプ先生みたいな人が提出することなんだろうけど……ねえ、スネイプ先生のローブのポケットにカメラを入れるっていうのはどうかしら?」
「スネイプ先生のローブのポケットに?」
「ええ。私が写真を撮りましたってカメラを手渡すより、スネイプ先生がミズマチが写真を撮ったってカメラを提出する方が信憑性が増すんじゃないかと思って……それに私達、湖に向かってからカメラがどうなったのかまったく分からないわけだし……」

 これはちょっと屁理屈が過ぎるだろうか。話しながら次第に自信がなくなってきて、私は最後の方をボソボソと喋った。スネイプ先生がその証言と共にカメラを渡すのが、どうにも最善だと思えてならなかったけれど、話しているうちに、もしかするとそれは過去に干渉することになるのではないかと思ったのだ。セドリックがいる辺りからは、「うーん」という唸り声が聞こえている。

「確かに君たちはカメラがどうなったのか知らない……でも、飛んでいったのは見ている……」

 迷うようにして、セドリックが呟いた。

「飛んでいったものをスネイプ先生が持ってるのは……過去の出来事に干渉することにあたるかどうか、判断がつかないな」
「いいアイデアだと思ったんだけど……」
「確かにスネイプ先生は目覚めた時、君の意図に気付いてくれるだろうと思う。ハリー達は君が何とかしたんだろうって考える――結果的に影響はないようにも思うけど」

 私もセドリックも互いに答えが出せず、うーんと唸った。けれども、ここで長々と考え込んでいる時間はあまり残されていなかった。時を戻ったハリーが吸魂鬼ディメンターを追い払えば、「私」が空飛ぶ車に乗ってここまで戻ってくるのだ。スネイプ先生のローブのポケットにカメラを入れるなら、それまでには判断を下して行動に移さなければならない。すると、突然セドリックが手にしていたカメラがクイッと下に引っ張られるのが見えて、私は下を向いた。そこには瓶洗いブラシのような尻尾がピンと立って揺れている。

「クルックシャンクス!」

 私は驚いて声を上げた。先程までは確かにロンとスネイプ先生のそばにいたはずのクルックシャンクスが私達のすぐ足元までやってきていたのだ。カメラの切れたストラップがゆらゆら揺れているのが見えて興味を唆られたのかもしれない。猫じゃらしにじゃれつくようにして、クルックシャンクスは前脚を伸ばしてストラップに飛びかかろうとしている。

「ごめんね、これは僕達の大事なものなんだ」

 セドリックが慌ててカメラを持ち上げて宥めるように言った。クルックシャンクスなら私達がこの場にいることは分かっているだろうし、賢い子だからダメだと言えばすぐに分かってくれるはずなのに、どうしてだか、何度言い聞かせてもストラップに前脚を伸ばすのをやめようとはしなかった。空中でブラブラしているストラップがそんなに気になるのだろうか。クルックシャンクスは、ひと声鳴き声を上げるとストラップに飛びつこうとし、それからロンとスネイプ先生を気にするようにチラリと視線を投げるのを繰り返した。

「なんだか変だわ……」

 クルックシャンクスの様子をじっと見つめて私は呟いた。こんなに賢い子がやめようとしないなんて、何かあるのではないだろうか。クルックシャンクスはそうだとばかりに再び鳴き声を上げると、ストラップに前脚を伸ばし、そしてロンとスネイプ先生の方に顔を向けた。もしかして、カメラを持って行きたいのだろうか……もしかして――。

「もしかして、私達の話を聞いていたの?」

 クルックシャンクスが言わんとしていることにようやく察しがついて、私は訊ねた。すると、クルックシャンクスはまたそうだと言わんばかりに鳴き声を上げ、ストラップに飛びかかるのをピタリとやめた。クルックシャンクスは私達の代わりにスネイプ先生のローブのポケットにカメラを入れると言ってくれていたのだ。

「僕達の代わりにやってくれるのかい?」

 セドリックが驚いたように声を上げた。クルックシャンクスのふさふさとした尻尾が自信ありげに揺れている。やる気は満々だ。

「シリウスを助ける手伝いをしてくれるの? ああ、なんてお礼を言ったらいいのかしら――私達、貴方にたっぷりお礼をするって約束するわ」
「飛んでいったはずのカメラをクルックシャンクスが取りに行ってスネイプ先生のローブのポケットに入れるなら、過去に干渉することにはならないし、問題ないと思う。“君達”が見ていない間にクルックシャンクスが何をしているのか、誰もまったく知らないわけだし――」
「ええ、やりましょう」
「その前に、呼び寄せ呪文が効かないようにしておこう。本で読んで一度試したことがあるから出来ると思う」

 そう言うとセドリックがすぐさま杖を取り出して呪文を唱え、カメラに呼び寄せ呪文が効かないように対策を施した。念には念をと、私が「アクシオ」と唱えてみたが、セドリックの呪文は無事に成功していて、カメラはピクリとも動かなかった。

「それじゃあ、クルックシャンクス、お願いね」

 確認を終えると、私達はカメラをクルックシャンクスに手渡した。流石にカメラは重いかとも思ったけれど、クルックシャンクスは切れたストラップの部分を器用に咥え、しっかりとした足取りでロンとスネイプ先生の下に戻っていった。私――おそらくセドリックもだが――は、外壁の窪みから顔を出してその様子を見守った。

 もしポケットにカメラを入れるのが難しかったら、少し手助けしようと思っていたけれど、クルックシャンクスは思った以上に上手く、与えられた任務を遂行した。スネイプ先生のそばに歩み寄ったクルックシャンクスは前脚でローブのポケットを探って顔を突っ込むと、中からズルズルと銀色の液体のようなもの引き摺り出し、そこにカメラをグイグイ押し込んだのだ。かなりの時間を要したが、最終的にカメラはスネイプ先生のローブのポケットに収まり、銀色の液体のようなものだけが校庭の芝の上にキラキラと折り重なって残った。

「あれ、透明マントだわ!」

 叫びの屋敷を出る時、スネイプ先生がポケットに入れていたのを思い出して、私は言った。叫びの屋敷ではそれどころではなかったので、実物をじっくりと見るのはこれが初めてだ。マントの形をしているはずだけれど、遠目から見るとそれは水のような不思議な見た目だった。クルックシャンクスは、私達と同じように校庭に無防備に転がったままの透明マントをしばらく見つめていたけれど、やがて端を咥えて持ち上げると、ズルズルと引き摺りながら城の方へと歩き始めた。どこかへ持っていくらしい。

「僕達もついていこう」
「ええ」

 私達はとうとう外壁の窪みから出ると、ロンとスネイプ先生のそばを通り過ぎ、クルックシャンクスのあとに続いて校庭を横切り始めた。クルックシャンクスは私達がついてきているのが分かっているのか、時々立ち止まっては、くるりと振り返って見えないはずの私達がきちんとついてきているか確認した。そして、もうまもなく正面玄関前だというところまでくると、セドリックが呻いた。

「まずい、この先に“僕”がいる」

 そう、3時間前のセドリックがこの先にいることを思い出したのだ。私は慌ててクルックシャンクスを呼び止めた。それに、私の記憶が確かなら、吸魂鬼ディメンターが湖に集まってきているのを目撃したファッジ大臣達がそろそろ校庭に現れるころだ。流石にクルックシャンクスが透明マントを引き摺って歩いているところを、ダンブルドア先生ならいざ知らず、ファッジ大臣やマクネアに見られるわけにはいかなかった。

「クルックシャンクス、待って――ねえ、どうしたらいいかしら。ファッジ大臣達も出てくるわ」
「ファッジ大臣達もそうだけど、“僕”にクルックシャンクスを見られるのもまずいんだ。だって、僕、3時間前に正面玄関の脇にいた時は、猫が通るのは見てないんだ――」
「じゃあ、クルックシャンクスを見えないようにするしかないわね。ちょうどいいアイテムがあるわ。私、一度でいいから使ってみたかったの――おいで、クルックシャンクス。貴方を隠すわ」

 私がそう言うと、クルックシャンクスはすぐにくるりと方向転換してこちらに戻ってきた。クルックシャンクスが目の前までやってくると、私はサッとクルックシャンクスを抱き上げて、透明マントで見えないように包んだ。初めて触る透明マントは、布というよりは見た目と同じように水を触っているようで、水を織り込んで作ったと言われても不思議ではなかった。

「ここからはなるべく音を立てないようにしないと。話も出来ないだろうから、君を見失わないようにしておくよ」

 クルックシャンクスが透明マントに隠れて見えなくなるとセドリックがそう言って、私の背中にするりと腕が回された。私は心臓が早鐘を打つのに気付かれないように腕に抱くクルックシャンクスをぎゅっと抱え直した。セドリックが触れている辺りだけが妙に熱を帯びて熱い。

「1回叩いたら“待て“、2回叩いたら“移動“でどうかな」

 私の背中を軽く叩いて、セドリックが言った。

「い――いいわ。それでいきましょう」
「じゃあ、行こう」

 背中がトントンと叩かれるのを感じると、私達は足音を立てないように気をつけながら正面玄関へ向けて歩き始めた。セドリックが潜んでいるであろう場所をそーっと通り過ぎ、それから反対側までやってくると、また背中がトン、と叩かれて私達は立ち止まった。その場でじっと潜んでいると、それほど時間が経たないうちにバタバタという足音が扉の向こうから聞こえてきて、やがて、正面玄関が開かれた。

「もう魔法省へ帰るところだったというのになんてことだ」

 最初に姿を現したのは、ファッジ大臣だった。そのあとにマクネアが続き、最後に出てきたのはダンブルドア先生だ。ダンブルドア先生は正面玄関の扉を綺麗に開いたまま、慌てて校庭を進んでいくファッジ大臣に続いて校庭を歩いていき、まもなく、見えなくなった。

 ダンブルドア先生の後ろ姿が見えなくなると、背中がトントンと叩かれて私達はそろりと動き出し、反対側にいる「セドリック」に気付かれないよう気をつけながら階段を上がって扉を潜り、玄関ホールへと入った。玄関ホールは閑散としていて、辺りを渡しても誰もいる気配はなかった。私は少しだけ考えを巡らせてから、声を潜めて言った。

「セド、このままリーマスの事務室まで行きましょう。もうすぐ他の先生達もやってくるから、その前に透明マントを置いてこなくちゃ」
「分かった。行こう」

 このまま透明マントとクルックシャンクスを置いていくことは出来なかった。これから城の中はシリウスが捕まったことによって騒がしくなっていくのだ。そんな中クルックシャンクスが透明マントを引き摺って歩いていたらどうなるか、考えたくもなかった。私達はすぐさま玄関ホールの正面にある大理石の階段を駆け上がると、3階のリーマスの事務室に急いだ。リーマスなら、マントを置かれていてもそれがなんなのかすぐに分かるだろうし、あとから私が伝えることも出来る。透明マントはハリーにきっちり返るだろう。

「とりあえず――ここに透明マントを――置いておけば――大丈夫だわ」

 3階まで駆け上がり、廊下を走り抜けてリーマスの事務室の中に滑り込むと息も絶え絶え、私は言った。リーマスの事務机の上には、無防備にも忍びの地図と脱狼薬が入ったゴブレットがそのままになっている。私はクルックシャンクスを床に下ろすと透明マントを受け取って、事務机の上に置き、それからサッと杖を取り出すと「悪戯完了!」と杖先で忍びの地図を叩いた。

「あとは、ここに鍵を掛けて医務室に戻りましょう。クルックシャンクス、貴方は先にグリフィンドール塔に戻っておいた方がいいわ。セド、貴方はどうする? 貴方もそろそろ寮に戻らないといけないわ――」
「僕は医務室には入れないけど、近くまではついていくよ。君が無事に医務室に戻ったら寮に戻ることにするよ」
「ありがとう、セド。行きましょう――クルックシャンクス、また会いましょう」

 クルックシャンクスと別れると、私達は階段を下りて玄関ホールに戻った。城の中はガヤガヤと騒がしく、いつもならぐっすりと眠っている絵画達もすっかり目を覚まし、興味津々といった様子で城の中で起こっていることを見ようと額縁から額縁へと忙しなく移動している。どうやら先生達が叩き起こされたあとらしい。

「セド、こっちに隠れましょう」

 セドリックの腕を掴んでグイッと引っ張ると私は玄関ホールの隅に身を隠した。息を潜めて待っていると、やがて、担架に乗せられたシリウスが正面玄関に入ってきた。ロープで縛られ、猿ぐつわを噛ませられているシリウスが、フリットウィック先生を先頭にして、ダンブルドア先生、ファッジ大臣、マクネアに運ばれていく。私はそれをぎゅっと拳を握り締めて見送った。

「大丈夫、真実は明らかになるよ」

 私の様子に気付いたのか、セドリックが優しくそう言った。けれど、私の背中を撫でるその手は、微かに震えていた。