The ghost of Ravenclaw - 227

25. 失われた証拠

――Harry――



 満月が照らす暴れ柳のそばで、ハリーは絶望に近い思いを抱いていた。あんなに必死になってここまで連れてきたというのに、ちょっと目を話した隙に、ペティグリューがネズミになって逃げてしまった。頼りのハナも鷲になってペティグリューを追いかけて行ってしまったし、シリウスはハリー達の方へ行かすまいとして、未だに狼に変身したルーピン先生と戦っている。

 残されたのは、ハリーとハーマイオニーだけだった。ペティグリューを追いかけた方がいいのかそれともロンとスネイプを城へ連れて行き、今度こそ助けを求めた方がいいのか、さっぱり分からない。すると、どこからともなくひと声高く吠える声と低く唸る声が聞こえてきて、ハリーは振り返った。狼人間が――ルーピン先生が、森に向かって疾駆していく。

「シリウス、あいつが逃げた。ペティグリューが変身した!」

 すかさず、ハリーは叫んだ。シリウスは長い間狼人間と戦っていたせいで鼻面と背に深手を負い、地面に伏していたものの、ハリーの言葉を聞くなり素早く立ち上がって、足音を響かせて校庭を走り去った。足音は急速に小さくなり、たちまち夜の静寂しじまに消えていった。

 シリウスが走り去って行くと、ハリーとハーマイオニーは急いでロンとスネイプに駆け寄った。2人共、目は半開きになっていて、口はだらりと開いている。けれど、生きているのは確かなようで、胸の辺りが上下して呼吸をしているのが分かった。ハーマイオニーがロンのそばに膝をつき、今にも泣き出しそうになりながら囁くように言った。

「ペティグリューは、ロンとスネイプに一体何をしたのかしら?」
「さあ、分からない」

 ハリーは返事をしつつ辺りを見渡した。ハナもシリウスもルーピン先生も行ってしまった。そばには気を失っているロンとスネイプしかいない。この場をハリーとハーマイオニーだけで何とか乗り切らなければならない。ハリーは目にかかった前髪をかき上げながら、何とか筋道を立てて考えようとした。

「2人を城まで連れていって、誰かに話をしないと」

 話はそれからだ。今夜何が起こったのか知らせ、シリウスが無罪だったと伝えなくてはならない――ハリーはハーマイオニーと共に急いでロンとスネイプを城まで連れて行こうとしたが、足を1歩と動かす前に、遠く、暗闇の向こうからキャンキャンと苦痛を訴える犬の鳴き声が聞こえてきて、このまま城に戻っていいのかと迷った。

「シリウス」

 暗闇を見つめて、ハリーは呟いた。ロンとスネイプをどうにかしなければならないのは分かっていたが、シリウスを助けたいという気持ちがハリーの中でみるみるうちに膨らんでいた。シリウスはハリーに出来た正真正銘の家族だ。自由の身になったら一緒に暮らそうと言ってくれた。ハナとルーピン先生だって一緒かもしれない――もし、ここでシリウスを助けに行かなかったら、どうなるだろう?

 気がつけば、ハリーは声のする方に駆け出していた。後ろからはハーマイオニーもついてきてくれている。シリウスが駆けて行った方へと、2人は無我夢中で疾走した。甲高い鳴き声は、どうやら湖の方から聞こえているらしい。2人はその方向に向かってどんどん進んでいった。湖に近付くにつれ、ひんやりとした冷気のようなものが漂い始め、ハリーは寒気を感じたが、今はそれを気にする余裕はなかった。

 やがて、2人が湖のほとりに辿り着いた時、突然キャンキャンという鳴き声がやんだ。見てみると、人の姿に戻ったシリウスが両手で頭を抱えて地面にうずくまっている。そのシリウスの数メートルほど上に真っ黒な塊が見えた。

「やめろおおおお」

 シリウスが呻いた。

「やめてくれええええ……頼む……」

 吸魂鬼ディメンターだった。少なくとも100人が湖の周りからこちらに滑るように近づいてくる。あの感じた寒気の正体は、これだったのだ。いつもの氷のように冷たい感覚が体の芯を貫き、目の前は霧のように霞んでいる。四方八方の闇の中から次々と吸魂鬼ディメンターが現れ、3人を取り囲んだ。

「ハーマイオニー、何か幸せなことを考えるんだ!」

 ハリーが杖を上げながら叫んだ。母親の最期の悲鳴が頭の中にこだまするのをぎゅっと目を瞑って振り払い、幸せなことに集中しようとした。幸せなこと、幸せなこと――初めて箒を乗った時、ハグリッドが現れて自分が魔法使いだと分かった時――けれどももっと幸せなことがある。ハリーに家族が出来た。一気に2人も。お姉さんだったらいいのにとあんなに願っていた人が本当にお姉さんだった。

「エクスペクト・パトローナム! エクスペクト・パトローナム!」

 ハリーは唱えた。しかし、なかなか上手くいかない。まもなく、シリウスが大きく身震いしてひっくり返ったかと思うと、地面に横たわり動かなくなった。顔が、死人のように青白い。ハリーは最悪の想像をしてしまいそうになるのを必死で振り払った。ここで諦めたら、本当に最悪な状態になってしまう。諦めるもんか! ハリーは力を振り絞って呪文を唱えた。

「エクスペクト・パトローナム! ハーマイオニー、助けて! エクスペクト・パトローナム!」

 ハーマイオニーは何とか呪文を唱えようとしたが、ハリーのようにはいかなかった。吸魂鬼ディメンターがすぐそばまで近付いて来ている。もう、3メートルほどしかない――3人の周りを壁のように取り囲み、迫って来ている。頭の中に母親の悲鳴がガンガン響いている。

「エクスペクト・パトローナム!」

 悲鳴を聞くまいと、ハリーは大声で唱えた。

「エクスペクト・パトローナム!」

 すると、杖先から銀色のものがひと筋溢れ出て、目の前にかすみのように漂った。しかし、呪文が成功するのが少し遅かったらしい――ハリーのすぐ隣でハーマイオニーが気を失って崩れ落ち、地面に倒れ込んだ。ひとりぼっちだ……ハリーは急に心細くなるのを感じた。ガックリと膝が折れて冷たい下草の上にハリーは膝立ちになった。かすみよりも霧の方が濃くなっていき、意識を保つことも難しい。けれども、ハリーは気を失うまいと堪えた。

 ――シリウスは無実だ――無実なんだ――僕達は大丈夫だ――僕は本当の家族と暮らすんだ――。

「エクスペクト・パトローナム!」

 再び杖先から飛び出して来たものは、何の形にもならない弱々しいものだったが、それは確かに守護霊として機能していた。追い払うまではいかなかったものの、吸魂鬼ディメンターは生み出された銀色のもやから先へはハリー達に近付けなかったのだ。吸魂鬼ディメンターはマントの下からヌメヌメした死人のような手を伸ばし、疎ましそうにもやを振り払う仕草をした。目の前を何度も手が横切る度、ハリーはどんどん幸福を吸い取られていくような気がした。

「やめろ――やめろ――」

 息も絶え絶え、ハリーは言った。体が冷え切っていて、寒かった。母親の悲鳴が嫌というほどこだましている。

「あの人は無実だ……エクスペクト――エクスペクト・パトローナム――」

 吸魂鬼ディメンターがこちらを見ていた。何かを吸い込もうとする息遣いが四方八方から聞こえている。ハリーの1番近くにいた吸魂鬼ディメンターがハリーをじっくりと眺めまわし、そして、腐乱した両手を上げ、フードを脱いだ。

 吸魂鬼ディメンターのフードの下は、口しかなかった。目があるはずのところには虚ろな眼窩がんかとのっぺりとそれを覆っている灰色の薄いかさぶた状の皮膚があるだけだ。そこに、口だけがぽっかり空いていて、死に際の息のように、ゼイゼイ空気を吸い込んでいる。恐怖がハリーの全身を麻痺させていた。動くことも声を出すことも出来い。

 守護霊は揺らぎ、果てた。ハリーはとうとう膝立ちになっているのもままならず、地面に倒れ伏した。真っ白な霧が目を覆って、何も見えない。それでも、手探りでシリウスを探し、その腕に触れた。シリウスを連れていかせてなるものか。すると、

「この――エクスペクト・パトローナム!」

 頭上から何かが猛スピードで突っ込んで来たかと思うと、ハリーと吸魂鬼ディメンターの間に突如、ハナが姿を現した。ハナの杖先から動物の形になり損なった銀色のもやが噴き出してきて、吸魂鬼ディメンターはハリーの守護霊と同じように手を振ってそれを追い払おうとした。

 100人の吸魂鬼ディメンターを前に、ハナの背中は震えていた。もやも次第に弱々しく萎んでいき、ハナはガタガタ震える杖腕を左手で懸命に抑え、なんとか保っている状態だった。

 助けなければ――ハリーは地面に倒れ伏したままシリウスに触れていない方の腕を上げようとした。ハナはハリーのお姉さんだ。血も繋がっていなければ、法律上だってそうではないけれど、初めて会った時からずっと、ハナはハリーの両親のことを想い、ハリーに対して姉のように振舞ってくれた。ピンチになるといつだって、助けようと駆けつけてくれた。ハナは友達だったけど、確かにいつでもハリーのお姉さんだった。

「この人達は私の家族も同然よ!  絶対守りきって見せるわ!」

 ハナがそう叫んだのは、ハリーがローブを掴んだ瞬間だった。ハナが驚いたように振り返って、そして、ハリーを見てしっかりと頷き返してくれた。ハナのことを「姉さん」って呼んだら、ハナはどんな顔をするだろう。ずっと兄妹がたくさんいて、賑やかな家族に囲まれているロンが羨ましかったけれど、これからはきっとハリーだってそうなれるはずだ。漏れ鍋でハナと過ごした時より素晴らしい日々が待っている。きっと――。

「エクスペクト・パトローナム!」

 渾身の力でハナが呪文を唱えた。ただのもやでしかなかったハナの守護霊が大きな鷲に姿を変えたかと思うと、それと同時に別の何かが姿を現した。何かは、ハリー達の周りをぐるぐる回り、吸魂鬼ディメンターを追い払っている。ゼイゼイという吸魂鬼ディメンターの息遣いが次第に聞こえなくなり、やがて、吸魂鬼ディメンターは逃げるように湖から離れた。

 ハリーは残された力を振り絞って、ほんの少し顔を持ち上げた。とっくの昔にハナの守護霊は消えていて、ハナはハリー達に背を向けて立ったまま、光の中に疾駆していく動物を呆然と見つめていた。ハリーは霞む目を凝らし、その姿がなんなのか見極めようとした。何だか馬のようだ。一角獣ユニコーンのように輝いている。

 しかし、何なのかはっきりとする前にハリーの意識は急速に薄れてきていた。ぼんやりとしながら、ハリーは光の中を走る馬のようなものが湖の向こう岸に着き、走る脚並みを緩め、止まるのを見つめていた。眩い光の中で、誰かがそれを迎え、撫でようと手を上げている……不思議に見覚えのある人だ……でも、まさか……。

「――ジェームズ」

 ハナがそう呟くのを最後に、ハリーの頭はガックリと地面に落ち、気を失った。