The ghost of Ravenclaw - 226

25. 失われた証拠



 私に今最も必要なのは、間違いなく時間だった。
 ダンブルドア先生は「必要なものは相応しい時に相応しい者の元にやってくる」と言っていたが、兎にも角にも時間がなければ、何も出来ないことは明らかだ。ファッジ大臣はすみやかに刑を執行すると話していたし、マクネアが大臣と一緒にいないことを考えると、もうほとんど猶予は残されていないだろう。魔法省はとにかく名誉を挽回したいのだ。

 そんな中、私がカメラを回収するためにウロウロするのは彼らの邪魔でしかないだろう。証拠がなければ私の証言を信じられないというのはもっともだが、私が本当に錯乱の呪文にかかっているかどうかも調べず、証言の裏取りもせずに接吻キスを執行を急ぐだなんて、早くこの件を終わらせてしまいたいと考えているとしか思えなかった。

 となると、カメラを回収するのは急務だ。接吻キスの執行まであまり時間は残されていないし、その前に必ずカメラを回収し終え、執行を阻止しなければならない。しかも、誰にも見つかることなく、だ。見つかったらその場で引き戻され、私は接吻キスの執行が終わるまで、見張りがつくか、最悪の場合、強制的に眠らされてしまうだろう。

「おや、目が覚めたんですか!」

 さて、どうやって抜け出すのがいいだろうか。あれこれ考えを巡らせていると、マダム・ポンフリーが突然誰かに話しかける声が聞こえて、私は布団から顔を出した。4人のうちの誰かが目覚めたらしい。あの状態ではロンとスネイプ先生がすぐに目覚めるのは難しいだろうから、ハリーとハーマイオニーのどちらかか、それとも、どちらともだろうか――私が耳を澄ませていると、ハリーとハーマイオニーの声が同時に聞こえた。どうやら、どちらも目覚めたらしい。

「「みんなは、どうですか?」」
「ウィーズリーもスネイプ先生も死ぬことはありません。ミズマチも無事です。先程少し様子を見ましたが、今は眠っています」

 2人の問いかけにマダム・ポンフリーが答えた。いつ様子を見られたのか分からなかったけれど、衝立に隙間を空けていたので、私が頭から布団を被っている間にチラリと覗いたのかもしれない。マダム・ポンフリーが私が寝ていると思っているならその方が都合がいいかもしれない。私は再び頭からすっぽり布団を被り眠ったフリをすると、ハリー達の話に耳を傾けた。

「貴方達2人は……ここに入院です。私が大丈夫だと言うまで――ポッター、何をしてるんですか?」
「校長先生にお目にかかるんです」

 ハリーが言った。ベッドから抜け出そうとしているらしい――何やらガタガタ物音が聞こえている。

「ポッター。大丈夫ですよ。ブラックは捕まえました。上の階に閉じ込められています。吸魂鬼ディメンターがまもなく接吻キスを施します――」
「「えーっ!」」

 ハリーとハーマイオニーの大声が医務室の中に響いた。その声は廊下まで聞こえていたらしい。勢いよく扉が開いて、ファッジ大臣とマクゴナガル先生が医務室に飛び込んできた。布団の隙間から盗み見ると、ファッジ大臣とマクゴナガル先生のローブが私のベッドの前を通り過ぎ、ハリー達の方へと向かうのが見えた。

「ハリー、ハリー、何事だね? 寝てないといけないよ――ハリーにチョコレートをやったのかね?」
「大臣、聞いてください! シリウス ・ブラックは無実です!」

 ファッジ大臣の言葉を無視してハリーが叫んだ。

「ピーター・ぺティグリューは自分が死んだと見せかけたんです! 今夜、ピーターを見ました! 大臣、吸魂鬼ディメンターあれをやらせてはダメです。シリウスは――」
「ハリー、ハリー、君は混乱している。あんな恐ろしい試練を受けたのだし。横になりなさい。さあ。すべて我々が掌握しているのだから……」
「してません! 捕まえる人を間違えています!」
「大臣、聞いてください。お願いします」

 今度はハーマイオニーが訴えた。

「私もピーターを見ました。ロンのネズミだったんです。動物もどきアニメーガスだったんです、ぺティグリューは。それに――」
「もしかして、君達もか」

 ファッジ大臣が困り果てた声で言った。

「ミネルバ、君も分かっただろう。錯乱の呪文だ。ブラックは見事に3人に術をかけたものだ……ハナ嬢だけでなく、ハリー達までもブラックの無実を訴えるとは……」
「僕達、錯乱してなんかいません!」

 ハリーが怒鳴り声を上げると、間髪入れずにマダム・ポンフリーが割って入った。

「大臣! 先生! 2人共出ていってください。ポッターは私の患者です。患者を興奮させてはなりません!」
「僕、興奮してません。何があったのか、2人に伝えようとしてるんです。僕の話を聞いてさえくれたら――」

 ハリーは必死に訴えようとしたが、すべてを言い終わらないうちにどういうわけか咳き込み始めた。心配になってほんの少し布団から顔を出したものの、衝立が邪魔をして何が起こっているのかさっぱり分からなかった。

「さあ、大臣、お願いです。この子達は手当てが必要です。どうか、出ていってください――」

 マダム・ポンフリーがそう言うのが聞こえた途端、また扉が開いた。ダンブルドア先生だ――淡いブルーの瞳が衝立の隙間からこちらを見て、視線がぶつかり合った。すると、ダンブルドア先生はゆっくり瞬きをしてから、何事もなかったかのように私のベッドの前を通り過ぎた。あれは、きっと何かの合図に違いない。もうしばらく待て、ということだろうか。そうすれば、必要なものが、時間が手に入る――? ダンブルドア先生は「必要なものは相応しい時に相応しい者の元にやってくる」と仰っていた……。

「ダンブルドア先生、シリウス・ブラックは――」

 ダンブルドア先生が現れると、最後の頼みの綱だとばかりにハリーが縋るように再び口を開いた。マダム・ポンフリーは患者を大人しくさせる機会をまたもや逃したことに怒り心頭だ。

「なんてことでしょう! 医務室を一体何だと思っているんですか? 校長先生、失礼ですが、どうか――」
「すまないね、ポピー。だが、わしはミスター・ポッターとミス・グレンジャーに話があるんじゃ」

 カンカンになったマダム・ポンフリーを宥めるかのようにダンブルドア先生が穏やかに言った。

「たった今、シリウス・ブラックと話をしてきたばかりじゃよ――」
「ネズミがなんだとか、ペティグリューが生きているだとかの話かね?」

 ファッジ大臣がうんざりした口調で訊ねた。

「左様、ブラックの話はまさにそれじゃ」
「いやまったく支離滅裂だ……自分が殺したというのに……そのネズミとやらは一体どこにいる? この期に及んで嘘をでっち上げようとするとは……」
「それは、ペティグリューが逃げ出したからです!」

 ハーマイオニーが叫んだ。

「ロンとスネイプ先生に呪いをかけて、逃げたんです! スネイプ先生がお目覚めになれば、証言してくださいます!」
「お嬢さん、君も気が動転しているようだ。チョコレートを食べるべきだと思うがね。なにせ、あんな目に遭ったあとだ――」
「わしは、ハリーとハーマイオニーと3人だけで話したいのじゃが」

 ファッジ大臣の話を遮って、ダンブルドア先生が唐突に言った。間違いない。ダンブルドア先生は時間を作ってくれようとしている。

「コーネリウス、ミネルバ、ポピー――席をはずしてくれないかの」
「校長先生! この子達は治療が必要なんです。休息が必要で――」
「事は急を要する。どうしてもじゃ」

 真剣な声でダンブルドア先生がそう言うと、マダム・ポンフリーが怒ったように足音を立てて、医務室の端にある自分の事務室に歩いて行くのが聞こえた。それから、マクゴナガル先生が私のベッドの前を通り過ぎ、扉を開けてファッジ大臣が来るのを待った。ファッジ大臣もすぐに私の前を通り過ぎていき、そして、

吸魂鬼ディメンターがそろそろ着いたころだ。迎えに出なければ。ダンブルドア、上の階でお目にかかろう」

 そう言い残して、マクゴナガル先生と共に扉から出て行った。扉が静かに閉まり、2人の足音が遠ざかって行くと、ハリーとハーマイオニーが堰を切ったように話し出した。私は2人の話を聞きながら、そっとベッドから出て、医務室をこっそり出て行く準備を始めた。出て行くタイミングが大事だ。ダンブルドア先生なら必ず私に分かるように最適なタイミングを合図してくれるだろう。

「先生、ブラックの言っていることは本当です――僕達、本当にペティグリューを見たんです――」
「――ペティグリューは、シリウスが狼に変身したルーピンと戦っている隙に逃げたんです」
「ペティグリューはネズミです――」
「ペティグリューの前脚の鉤爪、じゃなかった、指、それ、自分で切ったんです――」
「ペティグリューがロンとスネイプを襲ったんです。スネイプじゃありません――」
「ハナがペティグリューの写真を撮りました! けど、ペティグリューがそれを遠くに吹き飛ばしたんです――」

 怒涛の訴えだった。私はハリーとハーマイオニーの声に紛れるようにして窓に近付くとそっと開いた。ダンブルドア先生の言葉を聞き逃すまいとしながらも、窓枠に足をかけ、準備を整えた。

「今度は君達全員・・・・が聞く番じゃ。頼むから、わしの言うことを途中で遮らんでくれ。なにしろ時間がないのじゃ」

 静かな口調で、けれどもはっきりとダンブルドア先生は言った。

「ブラックの言っていることを証明するものは何ひとつない。君達の証言だけじゃ――13歳の魔法使いが3人、何を言おうと、誰も納得はせん。あの通りには、シリウスがぺティグリューを殺したと証言する目撃者が、いっぱいいたのじゃ。わし自身、魔法省に、シリウスがポッター家の秘密の守人だったと証言した」
「ルーピン先生が話してくださいます。スネイプも――」
「ルーピン先生は今は森の奥深くにいて、誰にも何も話すことが出来ん」

 ハリーの言葉にダンブルドア先生がきっぱりと言った。リーマスが森にいることは、おそらくシリウスが伝えてくれたのだろう。

「再び人間に戻るころにはもう遅すぎるじゃろう。シリウスは死よりも惨い状態になっておろう。更に言うておくが、狼人間は、我々の仲間うちでは信用されておらんからの。狼人間が支持したところでほとんど役には立たんじゃろう――それに、ルーピンとシリウスは旧知の仲でもある――スネイプ先生とて同じじゃ。今は呪いを受けて気を失っておる。目覚めるころにはすべてが終わっておろう」
「でも――」
「よくお聞き、ハリー。もう遅すぎる。分かるかの? シリウスは無実の人間らしい振舞いをしなかった。太った婦人レディを襲った――グリフィンドールにナイフを持って押し入った――生きていても死んでいても、とにかくぺティグリューが生きていると証明出来なければ、シリウスに対する判決を覆すのは無理というものじゃ」
「でも、ダンブルドア先生は、僕達を信じてくださってます」
「その通りじゃ――しかし、わしは、他の人間に真実を悟らせる力はないし、魔法大臣の判決を覆すことも……」

 そこで一旦、ダンブルドア先生の言葉が途切れた。確かに先生は全知全能の神様ではない。何でも知っているのではないか、と思えることだって度々あるけれど、先生だって人間だ。間違いもあるし、すべての人間の行動を把握するなんてことも無理だろう。けれども、忘れてはならないのは、先生も私達も決して1人ではない、ということだ。起死回生のチャンスは必ずあるはずだ。ダンブルドア先生は私達全員が判決を覆すのは無理だ、とは言わなかった。

「必要なのは、時間じゃ」

 ダンブルドア先生が言い聞かせるようにゆっくりと言った。私はいよいよだとばかりに、窓枠の上に乗ろうと身を乗り出したところで、

「――!」

 思わず声を上げそうになって慌てて両手で口を押さえた。窓のすぐ下に、セドリックが立っていたのだ。セドリックは少し膝を曲げて中腰のような体勢になっていて、窓の下枠の少し下にちょうど頭がある。セドリックは私と目が合うと驚いた表情をしたものの、すぐに人差し指を口許に当て「静かに」とジェスチャーした。背後では、ハーマイオニーが何かを察したかのように「あっ!」と声を上げた。

「さあ、よく聞くのじゃ」

 よく通る声でダンブルドア先生は続けた。

「シリウスは、8階のフリットウィック先生の事務室に閉じ込められておる。西塔の右から13番目の窓じゃ。首尾よく運べば、君達は、今夜、1つといわずもっと、罪なきものの命を救うことができるじゃろう。ただし、全員・・、忘れるでないぞ。見られてはならん。ミス・グレンジャー、規則は知っておろうな――どんな危険を冒すのか、君は知っておろう……誰にも――見られては――ならんぞ」

 私は窓枠によじ登った。スカートの下は下着が見えないようにいつも短パンを履いているので遠慮なしだ。ホグワーツでは階段が多いし、箒にも乗るので、下着が見えないように対策するのは、女の子達の常識だったりする。それを知らないセドリックは始めギョッとしたが、私がジェスチャーで大丈夫だと伝えると、苦笑いしながら私を受け止めようと、こちらに両手を差し出した。そっと振り返ると、ダンブルドア先生が踵を返し、医務室の出口へ向かっているところだった。窓から出ようとしている私をチラリと見て、ダンブルドア先生がまたゆっくりと瞬きをした。

君達全員・・・・、閉じ込めておこう。今は――真夜中5分前じゃ。ミス・グレンジャー、3回引っくり返せばよいじゃろう。幸運を祈る」

 確かに、必要なものは相応しい時に相応しい者の元にやってくる――私はダンブルドア先生に頷き返すとセドリック目掛けて飛び降りた。