The ghost of Ravenclaw - 224

25. 失われた証拠



 何かまぼろしでも見たのだろうか。
 私はしばらくの間、湖の向こう岸を見たまま固まっていた。あれは、一体なんだったのだろうか――ハリーが同時に2か所に現れるなんてあるはずがないし、咄嗟にジェームズだと思ったけれど、本当にジェームズが助けてくれるなんてことがあるのだろうか。しかし、あれから何度目を凝らしても、湖の向こう岸には誰の姿も見えなかった。

 吸魂鬼ディメンターが去ったことで、周囲はいつもの様相を取り戻しつつあった。凍っていた水面や草木は元に戻り、凍えるような寒さも次第に上昇し、温度を取り戻していく。けれども、体に残る冷えはなかなか戻らなくて、私は震えながらのろのろとシリウスの方へと歩み寄ると、腰を屈め、シリウスの巾着の中にチョコレートが入っていないか探した。一先ず脅威は去ったけれど、まだやることはたくさん残っている。

 巾着の中にはまだ包装を開けていないチョコレートがいくつか入っていた。私はホッと胸を撫で下ろすと、その場に腰を下ろして包みを破り、黙ってチョコレートを食べた。チョコレートを食べると体の冷えは取れたけれど、心細さはどうにも取れなかった。みんな、気を失ってしまった。ここから、1人でなんとか乗り切らなければならない。もしかしたらセドリックがまだ城の近くで待っていてくれているかもしれないけれど、連絡のしようがなかった。胸元を見てみれば、ペンダントは既に消えてなくなっている。


「どうしたらいいのかしら」

 倒れてるシリウス、ハリー、ハーマイオニーを見て、私は途方に暮れた。担架を作り出して運ぶしかないだろうけれど、一度もその呪文を使ったことがないのに3台の担架を作り、動かしながら運ぶなんて芸当、私に出来るだろうか。しかも、運ばなければならないのはここにいる3人だけではない。暴れ柳の近くにはロンとスネイプ先生が倒れているのだ。

 それに――私は、チョコレートの包みをローブのポケットに入れるとシリウスを見た。このままシリウスを連れて行っていいものか、さっぱり分からなかった。私がいくらシリウス・ブラックは無罪だと主張したところで証拠もなくスネイプ先生の証言もないのでは、錯乱の呪文にかけられていると思われるのが落ちだろう。けれど、ここにシリウスを残していくわけにもいかなかった。吸魂鬼ディメンターが戻ってくるかもしれないし、リーマスが現れる可能性だってあるのだ。気を失っている親友を襲ったなんてことになったら、リーマスはどれほど傷付き、自分を責めるだろう。

「連れて行くしかないわ……」

 覚悟を決めて、私は立ち上がった。すると、どこからともなくゴロゴロという音が聞こえたかと思うと、眩しい閃光が2つ離れた場所からこちらを照らして、私は反射的に手をかざして目を覆った。何かがゴロゴロガタガタ音を立てながら、急速に近づいてきえいる。あれは、もしかして――。

「ウィーズリーおじさんの車だわ!」

 間違いない。私は声を上げてヘッドライトの明かりの方へと駆け寄った。空飛ぶフォード・アングリアは、私が近寄ってくるのが分かったのか、すぐ近くで停車してボンネットをパカパカ、ヘッドライトをピカピカ点滅させて歓迎してくれた。なんだか生きているみたいだ。ハリーとロンが暴れ柳に突っ込んでからずっと森にいたのだろうか。車体は凹んでいるし泥だらけで屋根の上は苔むしている。

「まさか、貴方と会えるなんて」

 私はボンネットを撫でながら言った。空飛ぶ車はまるで再会の挨拶をするかのように擦り寄ってきて、なんだか犬のようだ。

「貴方が元気だって知ったら、ウィーズリーおじさんはきっと喜ぶわ。ねえ、貴方に質問があるの。YESならヘッドライトを1回点滅、NOなら2回点滅よ。出来るかしら?」

 私がそう言うと、空飛ぶ車はピカッとヘッドライトを器用に1回点滅させた。

「素晴らしいわ。森の中で、リーマスを――狼人間を見た?」

 ピカッ。空飛ぶ車がまたヘッドライトを1回点滅させた。どうやらリーマスを森の中で見たらしい。ペティグリューを追う直前、遠吠えのようなものが聞こえたから、それに引き寄せられたのかもしれない。

「狼人間はここから離れた場所にいた?」

 ピカッ。ヘッドライトがまた1回だけ点滅した。リーマスが離れた場所にいるなら、しばらくは安心だろう。

「ありがとう。彼らをここから運びたいの。手伝って貰えたら嬉しいのだけれど、いいかしら?」

 空飛ぶ車が任せろと言わんばかりにまたヘッドライトを1回点滅させたのを見て、私はもう一度お礼を言うと気を失っている3人のそばに戻った。空飛ぶ車はそんな私の少し後ろをゆっくりとついて来て、3人の真横に停車すると4つのドアを一斉に開いた。私がマグルなら、1人で3人も車に運び入れるのはかなりの労力が必要だったろうけれど、呪文を使って1人ずつ運び入れるのはそれほど時間はかからなかった。助手席にハーマイオニーを乗せ、後部座席にハリーとシリウスを乗せると、私はシリウスの杖を巾着に仕舞い、巾着をシリウスのズボンのポケットに無理矢理捩じ込んだ。

「暴れ柳の近くに向かってちょうだい。そこに、ロンが倒れているの」

 最後に運転席に私が乗り込むと、空飛ぶ車は扉を閉めてひとりでに走り始めた。湖の畔に沿うように車を走らせ、暴れ柳の方へと向かっていった。座席に深く腰掛け、長く息を吐くとどっと疲れが溢れてくるような気がした。無理もない。どこもかしこも血だらけの傷だらけだ。シリウスもリーマスと戦った時にかなり負傷したのか血を流している。とはいえ、リーマスもかなりの怪我を負っているだろう。私も負けじと反撃したし、シリウスだって噛みついたりしたのだ。

 暴れ柳の近くでは、スネイプ先生とロンが未だ気を失ったまま倒れていた。なんの呪いを受けたのか、かなりひどい状態だ。車を降りて駆け寄ってみると、目は半目に見開かれ、口はだらりと開いている。けれど、首に手を当て脈を確認したところ、2人共確かに生きていた。口元に手をかざすと、きちんと息をしているのも感じられた。

「良かった。なんとか無事だわ」

 私はホッと息をついた。クルックシャンクスの姿が見当たらないが、彼は猫なので吸魂鬼ディメンターに襲われることはないだろう。なので、あとは、スネイプの杖とカメラを回収して正面玄関まで空飛ぶ車で運べたらなんとかなるかもしれない。私はそう思って一先ずロンとスネイプ先生を車の中に乗せようと杖を取り出した。しかし、

「もう魔法省へ帰るところだったというのになんてことだ」

 幾人かの足音と共にそんな声が聞こえて私は振り返った。あの声はファッジ大臣の声だ――もしかしたら騒ぎを聞きつけたのかもしれない。私はすぐさま車に乗せていた3人を下ろすと、空飛ぶ車に向かって言った。

「今夜は本当にありがとう。急いで森に帰った方がいいわ。貴方が見つかるとウィーズリーおじさんが叱られてしまうかもしれない――」

 空飛ぶ車がマグルに目撃されてしまった時、ただでさえウィーズリーおじさんは役所で尋問を受けたのだ。ファッジ大臣がその証拠品を目にしてしまったらどうなるか、考えたくもなかった。

「急いで!」

 小声でそう言って車を叩くと、空飛ぶ車はその場から急発進して森へと一直線に向かっていった。エンジン音が少しずつ小さくなり、やがて闇に紛れてヘッドライトの明かりも見えなくなると、すぐそばでまたファッジ大臣の声がした。

吸魂鬼ディメンターが不可解な行動を取るとは……一体何があったのか……」
「これは由々しき事態じゃ、コーネリウス。もし、罪のない者が被害に遭おうものなら……」
「その心配はないだろう、ダンブルドア。何せ、もうとっくに夜は更けているし、生徒達も夢の中……」

 ファッジ大臣の声はそこで奇妙に途切れ、次の瞬間、私の目の前に、ファッジ大臣、ダンブルドア先生、そして、死刑執行人のマクネアが姿を現した。私はカメラを回収出来なかったことに内心、盛大に舌打ちをした。

「これは一体……」

 ファッジ大臣は驚愕して目を見開き、辺りを見渡した。

「ハリーに……昼間会った子達に……スネイプまで。それに、その男はどこかで見たことがあるような……いや、まさか……」
「大臣、シリウス・ブラックです」

 私ははっきりとした口調で答えた。

「けれど、彼は危険に晒されていた私達を身を挺して助けてくれました。私達、彼がいなければ、全員殺されていたかもしれません」

 嘘ではなかった。シリウスが駆けつけてくれたからこそ、全員が狼人間に変身したリーマスに襲われずにトンネルを抜けることが出来たのだ。真剣な顔でファッジ大臣の目をじっと見返すと、ファッジ大臣が戸惑った顔で訊ねた。

「ブラックに襲われたの間違いじゃないのかね?」
「いいえ、大臣。シリウス・ブラックは無実です」
「ブラックが無実……? ハナ嬢、君は一体何を言っているのかね? そもそも、どうして君達はこんな時間に外に……」
「どうやら錯乱の呪文のようで、大臣」

 ファッジの横にいたマクネアが意地悪そうな目でこちらを見て言った。

「ブラックがかけたに違いありません。自らを庇う証言をするよう仕向けられているのでしょう」
「確かに……そうとしか……」
「違います!」

 私は叫んだ。

「何があったのか、出来る限り話しします。それに、スネイプ先生もお目覚めになったら、事情を話してくださいます! シリウス・ブラックが無実である証拠だってあります! 私、ピーター・ペティグリューを写真に撮りました! ピーター・ペティグリューは生きています! ネズミの動物もどきアニメーガスだったのです! その事実を目の当たりにしたのならば、魔法省はシリウス・ブラックから今一度話を聞かなければならなくなるでしょう!」
「ハナ嬢、落ち着くんだ。ピーター・ペティグリューはいない」
「誰も彼の死体を確認してはいません! 見つけたのは指だけです!」
「彼は12年も前に死んだんだ。それが事実だ」

 ほとほと困り果てた表情をして、ファッジ大臣が言った。私の言うことなんかまったく信じていない表情だ。ピーター・ペティグリューを写真に撮ったという言葉だって、錯乱の呪文からくるデタラメな証言だとでも思っているに違いない。

「君はかなり混乱している。それに、ひどい怪我だ……ダンブルドア、医務室に行くべきだと思うがね」
「全員、そうするべきじゃろう」

 ダンブルドア先生が静かに口を開いた。

「見たところ、セブルスとミスター・ウィーズリーは呪いを受けているようじゃ。残りの3人は……」
吸魂鬼ディメンターです。湖の近くで取り囲まれました……なんとか助かって、私、ここまでみんなを連れて来たんです。吸魂鬼ディメンターは、ここにいる3人に接吻キスを執行する寸前でした……明らかにホグワーツ特急に乗り込んで来た時とは違う状況でした。フードを抜いで、覆い被さって、顔を近付けて……何かを吸い込もうと」
「なんと、いや、そんなバカな……ブラックならまだしも、子どもに接吻キスを執行するなど、考えられん……」

 流石のファッジ大臣もこれには顔を青ざめさせた。何を隠そう、ファッジ大臣達が揃って校庭に出て来たのは、吸魂鬼ディメンターが不可解な行動を取ったからだ。

「しかし、コーネリウス、吸魂鬼ディメンターがフードを脱ぐのは、魂を吸い取る時だけじゃ」
「私の証言が疑わしいのなら、真実薬だって飲みましょう。リーマス・ルーピンにそうしたように、私にも遠慮なくなさってください」
「兎に角だ」

 ダンブルドア先生と私の話を無視して、ファッジ大臣はローブの袖口で額の汗を拭いながら言った。

「手当てが必要だ。それにだ。今のうちにブラックをどこかに閉じ込めておかねば……それから魔法省に連絡して、速やかに接吻キスをせねば……」
「それはちと性急過ぎやせんかね? 仮に生徒が錯乱の呪文にかけられているとあれば、わしとしてもブラックに事情を聞かねばなるまい、コーネリウス。それに、彼女はわしの被後見人じゃ。わしには校長としても、後見人としても、彼女を守る責任がある」
「もちろんだ……それは、もちろん……」

 ファッジ大臣はしどろもどろになりながら答えた。

「しかし、魔法省としては、あー……、証拠もない状態ではあまり長くブラックを生かしておくことは出来ない。証言だけでは……どうにも……。ダンブルドア、それは貴方とて分かるはずだ。話が出来るのは、吸魂鬼ディメンターを連れてくるまでの間だけだと思って欲しい。これは決定だ。刑はすみやかに執行せねばならない……」

 ファッジ大臣は、シリウスに出来るだけ早く接吻キスを執行したいようだった。魔法省はこの1年、面子が丸潰れだったのだから、無理もない。名誉を回復するためにも、シリウス・ブラックに接吻キスを執行したと速やかに発表したいに違いない。そうすれば、魔法省に対する批判は次第に収まっていくだろうからだ。

 これ以上の弁明は悪手だ。私は反論したいのをグッと堪えた。私が1人、シリウスは無罪だと喚いてもますます錯乱していると思われるだけなのだ。しかし、あまりのんびりしていても、シリウスが吸魂鬼ディメンター接吻キスされてしまうかもしれない。

 私に残されている時間はせいぜい吸魂鬼ディメンターを呼びに行くまでの何十分かだ。仮にダンブルドア先生が時間を稼いでくれたとしても、それほど長い時間は稼げないだろう。このまったく時間がない中、果たして、どう対処するのが正解だろうか。ここで、シリウスだけ連れて逃げるべきだろうか。それとも、今すぐにでもアクシオでカメラを呼び寄せて――私が立ち尽くしていると、ダンブルドア先生がそっと近付いてきて私の肩を叩いて言った。

「ハナ、必要なものは相応しい時に相応しい者の元にやってくる。君がわしに素晴らしいタイミングで妙案を与えてくれたようにの」

 私にだけ聞こえる声音で。