The ghost of Ravenclaw - 223

25. 失われた証拠



 トンネルの中をビュンビュン風を切って疾走していた。背後では、リーマスを何とか押さえ込もうとシリウスが戦っているのが感じられたが、どうにもトンネルの中は狭すぎて戦いづらいようだった。出口に向かってどんどん進んでいるというのに、いつまで経っても2人が戦っている声は離れてくれない。このままハリー達に追いついてしまったらどうなるだろう――そんな一抹の不安が脳裏に過ったけれど、どんなに飛んでもハリー達に追いつくことはなかった。

 そうしているうちに視界の先がぼんやりと明るくなってきて、出口が近付いてきた。相変わらず、シリウスとリーマスはすぐそばで争っていて、出口に向かおうとするリーマスをシリウスが噛みついて抑え込んだかと思えば、リーマスがそれを投げ飛ばして振り切り、出口に向かって走る、というのを繰り返していた。もう、シリウスも限界だ。私はあちこち痛む体に鞭打ってスピードを上げ、暴れ柳のウロから飛び出した。

 ウロから飛び出すと、視界が一気にひらけた。城から漏れる明かりと満月の輝きが校庭を明るく照らし、もう真夜中だというのに辺りの様子がよく見えた。けれども、ハリー達の姿を探そうとした途端、暴れ柳の太枝が振り下ろされて、私は慌てて回避すると樹下から離れ、再度辺りを見渡した。

 ハリー達は暴れ柳から離れたところに息も絶え絶え倒れ込んでいた。あの狭いトンネルの中を相当急いで出てきたらしい。私は一直線にハリー達の下に飛んで行くと、すぐ近くまで来たところで、着地前にもかかわらず変身を解いた。ポンッと軽快な音が響いて、空中で元の姿に戻ると、杖ホルダーから杖を引き抜きながら身を翻し、ハリー達を背にして着地した。

「シリウスとリーマスが出てくるわ。備えて!」

 杖を構えて、私は叫んだ。左腕はもうあまり言うことを聞いてくれなくて、何度か叩きつけられた時に折れてしまったのだろうと思ったが、歯を食いしばって痛みに耐えた。どこか切っているのか、それとも汗か、至るところから何かが流れ落ちていく気持ち悪い感覚がした。

「人間の匂いが強くて抑えられなかったの――」

 後ろでハリー達がどうしているのか確認する余裕もなかった。自分がどこを怪我しているのか確かめる暇も、息を整えている時間もなく、私が校庭へ出てきてからまもなくして、シリウスとリーマスが暴れ柳から飛び出してきた。リーマスは、ウロから出て来るなりこちらに気付いて襲い掛かろうとしていたが、シリウスが首に食らいついて後ろに引き戻し、私達から遠ざけた。

 背後でスネイプ先生が声を上げたのは、誰もがシリウスとリーマスの戦いに注目していたまさにその時だった。罵声が聞こえ、驚いて振り向いてみると、ペティグリューがスネイプ先生の杖に飛びつき、そして――応戦する間もなく、立て続けに音が鳴ったかと思うと、光が炸裂した。気がつけば、スネイプ先生とロンが倒れたまま動かなくなっている。何か呪いを放ったのだ。このままでは危ない――。

「ペティグリュー!」

 私は急いでペティグリューに杖を向けた。放っておいては、逃げられてしまう。しかし、呪文を放つのはペティグリューの方が先だった。ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべたペティグリューが私に杖先を向け、また、鋭い爆発音が鳴った。慌てて真横に飛び退いて回避すると、閃光が首のスレスレを走り、直後、首元が軽くなった。カメラが私から離れ、空中を舞っている。そうして、私が無惨にも地面に転がった瞬間、四度目の爆発音がして、顔を上げた時にはカメラは既にどこかへ消えてしまったあとだった。

 しまった――私は慌てて辺りを見渡した。あれはシリウスの無罪を証明する証拠になるはずだったのに、カメラが一体どこへ行ってしまったのかさっぱり分からなくなってしまった。どうしよう――どうしよう――私が焦っていると、すぐそばでハリーが叫んだ。

「エクスペリアームス!」

 振り向くと、ペティグリューの手から杖が舞い上がっていた。スネイプ先生の杖は高々と舞い上がってどこかに飛んでいき、ペティグリューはもう呪文を使うことが出来なくなったが、何もかもが手遅れだった。だらりと伸びたスネイプ先生とロンの腕にかかる手錠から、痩せ細った禿げたネズミがするりと擦り抜け落ち、ペティグリューの姿は校庭の芝に紛れて消えた。ネズミに変身したのだ。

「この――卑怯者!!」

 私は大声を上げると、杖をホルダーに戻して鷲になって飛び出した。カサカサと僅かに動く芝を頼りに校庭を疾走していく。どこからか何かが高く吠える遠吠えのような声が聞こえたが、今は気にしている場合ではなかった。シリウスが無事にリーマスを抑えられていることを祈るばかりだ。彼は私よりずっと大きな体躯の大型犬だし、リーマスを取り押さえる経験は誰よりもある。今は信じて、ペティグリューを追うしかなかった。

 ペティグリューは私の少し前方を逃げ惑っていた。スピードは圧倒的に私が速いし、先回りして呪文を上手く使いさえすれば、捕まえられるかもしれない。それに、ペティグリューにはウィゼンガモットの証言台に立ち、シリウスの無実を証言して貰わなければならない。ジェームズとリリーを殺して、シリウスを12年もアズカバンに入れておいてなお逃げるだなんて、そんなこと許されない。しかし――。

 私は信じられない光景を前に、思わずペティグリューから目を離した。少なくとも100人はいるであろう吸魂鬼ディメンター達が真っ黒な塊になって、湖の方へと集まって行くのが見えたからだ。途端にキャンキャンと苦痛を訴えるような犬の鳴き声が聞こえて、私は慌てて空中で静止した。その隙に、ペティグリューは禁じられた森の方へと逃げ込み、もうどこにいるのかも分からなくなった。

 失望や落胆などの不運な出来事――。

 古代ルーン文字学の最初の授業で行ったルーン占いで、思いがけず一緒に飛び出してきたあの石の意味がようやく分かった気がした。あれは、このことを示していたのだ。「地道な努力が豊かな財産となる」けれど、ピーター・ペティグリューは取り逃す……なんということだろう。油断してしまった。私は、最善を尽くせなかった。

「ああ……あぁ、」

 これからどうしよう。カメラはどこに行ったのかも分からない。スネイプ先生が証言してくれるだろうけれど、肝心のペティグリューが生きていたということも確実に証明出来ないのに、果たして魔法省はスネイプ先生の証言を100%信じてくれるだろうか? 私が掴んだフェオのルーンストーンの「地道な努力が豊かな財産となる」とは、どんな意味を示すのだろう。私は、頑張ればシリウスの無罪が証明されるのだと考えていた。だって、あの時それを占ったからだ。でも、もし、結果を読み違えていたら? シリウスが助からなかったら?

 セドリックが「くれぐれも気を付けて」と言ってくれたのに、私は最後までペティグリューをしっかり見ていなかった。今夜が満月だと分かっていたのに、試験の時会ったものだから、リーマスの様子すら見に行かなかった。もし、私のせいで無罪が証明されなかったら、シリウスはこれからどうなるのだろう。助けられなかったら、どうしよう。カメラを探しに行って見つかるだろうか。そんな時間はあるだろうか。

 私は辺りを見渡した。いつの間にか、私は変身が解け、元の姿に戻って校庭の芝の上に崩れ落ちていた。少し離れたところでは餌に飢えた吸魂鬼ディメンターがウジャウジャと夜空を覆い尽くし、未だ湖の方へと向かっている。キャンキャン響いていた犬の鳴き声は、次第に弱くなり、そして、消えた。

「シリウスを助けなくちゃ」

 私は反射的に顔を上げた。ここで絶望感に崩れ落ちている場合ではない――それに、ペティグリューは壊したと思っているだろうが、カメラはもしかすると壊れていないのではないだろうか? だって、あれにはシリウスが壊れないよう呪文をかけてくれた。あの・・シリウスがかけたのだ。カメラさえ粉々になっていなければ、取り戻す方法はきっとある。私は、杖なしでもその呪文を使えるじゃないか。まだ、諦めるには早過ぎる。

 鷲に変身すると、私は吸魂鬼ディメンターが向かっている湖の方へと向かった。きっとそこにシリウスがいるだろうと思ったからだ。どうして湖のそばにシリウスがいるのかも、なぜ吸魂鬼ディメンターが集まってきたのかも分からないけれど、彼らはシリウスがいることに気付いたに違いない。接吻キスを執行出来る相手だ。彼らにとってシリウスは、極上の餌のようなものだろう。

 湖の周囲は、ひどい有り様だった。集まってきた無数の吸魂鬼ディメンターが1点を覆い被さるように取り囲んでいて、簡単には近付けなくなってしまっている。あまりに大勢の吸魂鬼ディメンターが集まっているからか、辺り一帯は凍りつくような寒さで、草木は既に白く凍っていた。

 シリウスは、そんな吸魂鬼ディメンターの中心に気を失って倒れていた。すぐそばにはどういうわけかハーマイオニーも倒れていて、ハリーが2人を守るように立ち、守護霊の呪文でどうにかして吸魂鬼ディメンターを食い止めようとしている。けれど、靄は弱々しく吸魂鬼ディメンターを追い払うまでにはいかないようだった。このままでは危ない――私は意を決して吸魂鬼ディメンターの群れに突っ込んだ。

「やめろ――やめろ――」

 私は縫うように吸魂鬼ディメンターの中を進んだ。ハリーが弱々しく呻くのが微かに届いているけれども、ハリー達はまだずっと下だった。何人もの吸魂鬼ディメンターが覆い尽くし、なかなか地面まで届かない。

「あの人は無実だ……エクスペクト――エクスペクト・パトローナム――」

 ハリーはシリウスを守ろうと必死だった。しかし、どれくらいの間吸魂鬼ディメンター相手に1人で戦ったのか、ハリーはほとんど力尽きていて、呪文を唱えたというのに杖先からはもう靄すら出てこなかった。やがて、ハリーがその場に崩れ落ちると、吸魂鬼ディメンターの1人がフードを脱ぎ、ハリー達に覆い被さり、顔を近付け、息を吸い込み、そして――。

「この――エクスペクト・パトローナム!」

 間一髪、私は変身を解き、吸魂鬼ディメンターとハリーの間に割り込んだ。杖先から動物の形になり損なった銀色の靄が噴き出してきて、吸魂鬼ディメンターはそれを追い払うように手を振った。吸魂鬼ディメンターは靄から先は近付けないようだったけれど、私の靄では完全に追い払うまでにはいかなかった。

 地上は、上空よりも遥かに寒かった。夏だというのに、凍えそうで、吐く息が白く立ち昇っている。不完全とはいえ、守護霊を出しているというのに意識を強く保っていないと恐怖に支配されて意識が持っていかれそうだった。靄が次第に弱々しく萎んでいき、吸魂鬼ディメンターはここぞとばかりは私達を取り囲んで、何かを吸い込もうとした。フードを脱ぎ捨てた吸魂鬼ディメンターの顔には、腐敗したような灰色の皮膚に口ががっぽりと空いているだけだった。ガタガタ震え始めた杖腕をもうほとんど力の入らない左手でなんとか押さえ、私は力を振り絞って叫んだ。

「この人達は私の家族も同然よ! 絶対守りきって見せるわ!」

 自らを鼓舞するように叫ぶと、後ろで何かが動いて、私のローブを弱々しく握るのが分かった。振り向くと、まだ意識があるのか、ハリーが薄ら目を開けてこちらを見ていた。もう片方の手でシリウスの腕を掴んでいる。私はそんなハリーを見てしっかりと頷き返すと、もう一度唱えた。私は、私の家族と友達を守るのだ。

「エクスペクト・パトローナム!」

 その瞬間、何が起こったのか、まったく分からなかった。ただの靄でしかなかった私の守護霊が大きな鷲に姿を変えたかと思うと、どこからともなく牡鹿の守護霊が姿を現し、私達の周りをぐるぐると回り始めたのだ。同時に2つの守護霊を出すなんて聞いたことがない。牡鹿は私の守護霊ではない――私は、他に誰かいないかと辺りを見渡した。そうしている間にも、吸魂鬼ディメンターは逃げるように湖を離れていく。鷲はとっくに消え去っていて、役目を終えた牡鹿も湖の向こう岸に渡り、そして、

「――ジェームズ」

 私は向こう岸にいる人物を確かにこの目で見た。