The ghost of Ravenclaw - 221

24. 裏切り者

――Harry――



 トンネルを戻るのは、かなり大変だった。
 何せ、トンネルの天井は低く狭いのだ。先頭に立つクルックシャンクスはスイスイ行けたが、そのあとを追うスネイプ、ペティグリュー、ロンはみんな腕を繋がれていたので歩くだけでもひと苦労だった。3人は普通に歩くことすらままならず、腰を折り、体を横向きにして進むしか方法がなく、ハリーの目にはまるで蟹のように見えた。

 そんな状況下でもスネイプはペティグリューにしっかりと杖を突きつけていた。スネイプは時折ペティグリューの腹の辺りに杖先を食い込ませているのか、何分か毎にペティグリューが「ヒィッ!」と悲鳴を上げている。ロンは足を固定したのが良かったのか、辛そうにしながらも痛みに呻くようなことはなかった。

 ロンのすぐ後ろには、ハーマイオニーが続いていた。ハリーがその後ろで、ブラックが最後尾だ。月が完全な満月となる時間が迫っているので、万が一のことがあったらいけないと、ブラックが最後尾を任されることになったのだ。叫びの屋敷にはルーピン先生と一緒にハナがしばらくの間残ることになっていたので、心配はないとは思うが、もし狼人間に変身したルーピン先生が追いかけてきたとしても、ブラックなら犬になってみんなが逃げる時間を稼げるだろう。

「これがどういうことなのか、分かるかい? ペティグリューを引き渡すということが」

 暴れ柳の出口に向かってトンネルを進み出してからしばらく経って、不意にブラックがハリーに話しかけた。ハリーはチラリと後ろを振り返り、そして、僅かに考えたのち、答えた。

「貴方が自由の身になる」

 ブラックはこの1年、太った婦人レディの肖像画を切り裂いたり、寮に侵入してロンを襲いかけたりといろいろ事件を起こしたが、それらを鑑みても12年無実の罪でアズカバンの独房に入れられていたのだから、晴れて自由の身になれるのはまず間違いなかった。

「そうだ……しかし、それだけではない」

 ブラックが続けた。

「――誰かに聞いたかもしれないが――私は君の後見人でもあるんだよ」
「ええ、知っています」
「つまり……君の両親が、私を君の後見人に決めたのだ。もし自分達の身に何かあればと……」

 ブラックの声はどこか緊張しているようだった。ハリーは静かにブラックの次の言葉を待ちながら、もしかして、と期待せずにはいられなかった。後見人――所謂、ゴッドファーザーやゴッドマザー――を選ぶことは、イギリスではよくあることだった。彼らは子どもの両親が亡くなった時、親代わりとして支援することが求められる。つまり、後見人とは、親族のようなものなのだ。そして、ブラックは――いや、シリウスは、ハリーの両親がハリーの生まれた時に決めた正式な後見人だ。ダーズリー以外にはいないと思っていた、親族なのだ。

「もちろん、君がおじさんやおばさんとこのまま一緒に暮らしたいと言うなら、その気持はよく分かるつもりだ。しかし……まあ……考えてくれないか。私の汚名が晴れたら……もし君が……別の家族が欲しいと思うなら……」

 シリウスがそう言った瞬間、ハリーは自分の胸の奥で膨らみかけていた期待が一気に爆発するのが分かった。家族が出来るのだ。しかも、ハリーさえよければ一緒に暮らさないかと言ってくれている。ハリーは嬉しさのあまり、天井から突き出している岩に嫌と言うほど頭をぶつけた。

「えっ ? ――貴方と暮らすの? ダーズリー一家と別れるの?」

 ハリーは頭を摩りながら訊ねた。すると、シリウスはハリーの反応に何やら勘違いしたように慌てて続けた。

「無論、君はそんなことは望まないだろうと思ったが――あの家の暮らしがあまり良くないとハナから聞いてね……しかし、私と暮らす方が不安なのはよく分かるよ。ただ、もしかしたら私と、と思ってね……」
「とんでもない!」

 ハリーは半ば食い気味に叫んだ。

「もちろん、ダーズリーのところなんか出たいです! 住む家はありますか? 僕、いつ引越せますか?」

 シリウスは自分が言い出したにもかかわらず、驚いた顔をして言った。

「そうしたいのかい? 本気で?」
「ええ、本気です!」

 またもやハリーが食い気味に答えた。途端、シリウスの顔に笑顔が浮かんだ。ハリーが初めて見る、シリウスの本当の笑顔だった。ハリーの両親の結婚式の写真の中で笑っていたあのころと同じような笑顔だった。

「すぐにとはいかないかもしれないが、もし私と暮らせる時が来たら……ハリー、その時はハナも一緒に暮らせるだろう。まあ、おまけにリーマスがついてくるかもしれないな。リーマスはハナに対して相当過保護だ」

 それまでとは一変して、シリウスが明るい口調でそう言うと、ハリーはポカンとシリウスを見上げた。今、シリウスはなんと言っただろう? ハナとも一緒に暮らすと言っただろうか?

「え? ハナも?」

 ポカンとしたままハリーが言うと、シリウスは一瞬驚いた顔したあと、何やら納得したような顔をして答えた。

「ハリー、ハナは君に話していなかったんだろうが、ハナは君の家族になるはずだったんだ」
「ハナが、僕の、家族に? 本当に?」
「私もジェームズもリーマスも、随分前からハナが幼い姿のままで召喚されることをダンブルドアから聞かされていた。召喚魔法の影響だとダンブルドアは話していた……子どものまま、何の身寄りもなく放り出されることはあってはならない……そこで、ジェームズが後見人になると名乗り出たんだ。真っ先にね。ジェームズはハナのことを常に心配していた……ここだけの話、ジェームズはヴォルデモートが召喚魔法を使うのを阻止しようとして、3度ほどヴォルデモートと戦った……召喚魔法さえ阻止出来れば、ハナは元の生活が送れるし、大変な思いもせずに済む、とね」
「もし、阻止出来ていたらどうなってたの?」
「ハナは過去に現れなかったし、私達の中からハナの記憶は消えていただろう。会っていないことになっていた。ジェームズはそれでもいいと、ハナの中で私達が“本の中の住人”に戻ったとしても、それで友達が守れるのなら、本望だと話していた。私もリーマスもリリーもその想いに賛同し、戦ったものだ……」
「ハナはそれを知ってるの?」
「いや、知らないだろう。ジェームズは失敗した時は格好悪いからハナには内緒にしてくれ、と話していた。ハナが知ったら気にするだろうからね。彼女はそんな人だ。しかし、息子である君は、その想いを知っていて欲しい……そして――これはある意味矛盾した思いだが――どれだけジェームズとリリーがハナを家族に迎えたがっていたか、覚えていて欲しいんだ」

 ハリーはしばらくの間、言葉が出てこなかった。さまざまな感情が胸の奥で大暴れしていて、言葉にならなかったのだ。両親は、召喚魔法を阻止出来ないかもしれないと分かった時、どう思っただろう。悔しさと申し訳なさと不甲斐なさを感じながらも、それでも、いつの日にかまたハナと会えることを渇望していたのかもしれない。阻止出来なくとも、家族として迎え、困難が待ち受けるであろうハナのことを守り抜こうと決めていたのかもしれない。

「私達は愚かなことに、召喚を阻止したいと思いながらも、ハナにまた会いたいと願ってやまなかった。私達3人の中にはいつでもこの相反する2つの気持ちが混在していた。特にジェームズはね」

 ハリーが何も言えないでいると、シリウスがポツリと呟くように言った。ハリー達の前を歩くハーマイオニーはハリー達の話が聞こえているだろうに、決して後ろを振り向かず、聞かないふりをしてくれていた。

「ハナと会ったのは、片手で足りるほどだったというのに、私達の人生の中でハナというのは特別な存在だった」
「僕、その気持ち、分かります……」

 思わず、ハリーはそう口にしていた。

「僕、これまでずっと、ハナが僕のお姉さんだったらいいなって思ってた。ダドリーなんかじゃなくて、いとこがハナだったらいいのに、とか」

 ハナだって本当は元の世界で平和に暮らしたかったに違いない。だからこそ、召喚を阻止出来なかったことを悔やむべきなのだろうけれど、ハリーは自分の中で膨らんでいく感情に逆らうことが出来なかった。なぜなら、ハナと家族になることをもうずっと渇望していたのだから――。

「僕、不謹慎かもしれないけど、ハナが家族になってくれたら嬉しい……」
「不謹慎じゃないさ」

 シリウスがきっぱりと答えた。

「ハナは君がそう思っていると知ったら、飛び上がって喜ぶだろう。君のことをとても可愛がっているからね」

 それからはハリーもシリウスも、もう何も話さなかった。ハリーは胸がいっぱいになりながら、暴れ柳の出口に向かってただひたすらに歩いた。たった一晩の間に、ハリーに家族が2人も出来た。しかも、その2人と一緒に暮らせるかもしれない。とうとうあのダーズリー家を離れるのだ。両親の親友だったシリウスとハナと暮らすのだ。ルーピン先生だって一緒かもしれない。ダーズリー一家に、狼人間とテレビに出ていた囚人と2年前の夏、ダーズリー一家を叱りつけたあの女の子と暮らすんだって話したら、どんな反応をするだろう!

 ハリーはぼんやりとそんなことを考えながら、突如訪れた幸せに浸っていたが、その時間はそう長くは続かなかった。トンネルももう半分くらいまで戻ってきたかというところで、突然、甲高い鷲の悲鳴にも似た叫びが、屋敷の方から響いてきたからだ。鷲の悲鳴のあとを追うようにして、狼の唸り声が微かに聞こえている。

「スネイプ! あとは頼んだぞ!」

 聞きつけるや否や、誰が何を言うより先にシリウスがそう叫んだかと思うと、ハリーの背後からシリウスの姿が消え、代わりに熊のように大きな犬が躍り出た。シリウスが変身したのだ。シリウスはあっという間に来た道を疾走して戻っていき、その姿は闇に紛れ、すぐに見えなくなった。

「ハナは大丈夫かしら……」

 震える声でハーマイオニーが言った。

「あの叫び声……きっと何かあったんだわ……」

 ハリーは立ち止まって、シリウスが消えていった先を見つめた。鷲の鳴き声と狼の唸り声が次第にこちらに近付いてきている。

「ポッター!」

 ハリーが動かないでいると、前方からスネイプが鋭い声で叫んだ。

「狼人間になりたくなければ早くしろ!」
「早く行きましょう、ハリー! 私達、ここから出なくちゃ!」

 ハーマイオニーに引っ張られると、ハリーはもう一度振り返ってから足早にトンネルを進み始めた。折角、素晴らしい夜になろうとしていたのに、もしルーピン先生がこの中の誰かを襲ってしまったりしては、すべてが台無しになってしまう。あんなにいい先生、またといないのに、ルーピン先生は責任を感じてD.A.D.Aの教師を辞してしまうかもしれないし、もっと悪いことにハリーとも、ハナとも一緒に暮らすのをやめてしまうかもしれない……そうしたら、ハナはどれだけ悲しむだろう。そんなこと、あってはならない。

 みんながみんな汗だくで、トンネルの中を必死になって進んだ。その間にも、狼人間と鷲と犬とが争っている唸り声や叫びが、どんどん近づいて来ていた。スネイプはもうペティグリューに杖を突きつけている余裕すらなくなって、乱暴に杖をポケットに突っ込むと、ヒイヒイ泣いているペティグリューを無理矢理引っ張り、もう片方の手でゴツゴツとした壁を掴み、無我夢中で這うように進んでいった。横歩きの状態では、そうしないと急いで歩けないのだ。

 それでも、どうにかこうにかして、ハリー達は出口の真下に辿り着いた。クルックシャンクスが最初に飛び出して、木の幹にあるコブを押してくれ、そのあとに続きスネイプ、ペティグリュー、ロンが繋がったまま四苦八苦しながら這い上がった。それからハリーが先に這い上がり、上から手を伸ばしてハーマイオニーが出てくるのを手伝った。

 トンネルから出ると、外は思ったよりも明るかった。遠くに見える城の窓からは松明の明かりが漏れ、校庭には月明かりが差している。月は大きく銀色に輝いていて、綺麗な満月だ。しかし、のんびり月を鑑賞してる暇はなかった。狼人間になったルーピン先生がこちらにやってくるかもしれないのだ。暴れ柳のウロから這い出たスネイプは、またペティグリューを引っ張り、城に向かって大股で歩いた。ローブのポケットに乱暴に突っ込んだ杖が落ちそうになっていたが、スネイプは構わず進み、ロンが息も絶え絶えその後に続き、ハーマイオニーとハリーも急いで続いた。

 そうして、もう十分暴れ柳から離れたというところで、みんな崩れ落ちるようにしてその場に倒れ込んだ。狭いトンネルを全速力で進んできたので、誰も彼もが限界だった。スネイプですら、肩で大きく呼吸を繰り返してゼイゼイいって、もうほとんどローブから飛び出ている杖を手に取ることすら、ままならなかった。唯一、クルックシャンクスだけは余裕の表情で、ハーマイオニーのそばでじっと暴れ柳を見つめて立っていた。

 鷲が暴れ柳のウロから飛び出してきたのは、それからまもなくのことだった。鷲は暴れ回る柳の太枝を掻い潜り、辺りを見渡したかと思うと、一直線にハリー達の下に飛んできて、空中で変身解いた。ハナがひらりと回転しながら杖を引き抜いて、ハリー達を背にして地面に着地した。

「シリウスとリーマスが出てくるわ。備えて!」

 ハナが叫んだ。腕や額からダラダラととめどなく血が流れている。ルーピン先生を食い止めようと、長い間争っていたらしい。

「人間の匂いが強くて抑えられなかったの――」

 すると、犬と狼人間が暴れ柳から出てきた。狼人間に変身したルーピン先生は、その面影は一切残っていなかった。鋭い鉤爪が生え、口元では人間の血に飢えた大きな牙が満月に照らされて鈍く光っている。狼人間は、ハリー達に襲いかかろうとしていたが、次の瞬間、犬が狼人間の首に食らいついて後ろに引き戻し、ハリー達から遠ざけた。2匹は、牙と牙がガッチリと噛み合い、鉤爪が互いを引き裂きあっていた。

 誰もが犬と狼人間の戦いに、目を奪われ、見入ってしまうあまり、他のことは何も見えていなかった。しかし、すぐそばでスネイプが罵声を上げたかと思うと、ハリーが慌てて振り返った時には既に、ペティグリューがスネイプのローブからはみ出していた杖に飛びついていた。ロンが勢いのあまり引き摺られて悲鳴を上げ、そして――バンバンと続け様に音が鳴り、光が炸裂した。ロンとスネイプが倒れたまま動かなくなっている。

「ペティグリュー!」

 ハナが叫んで杖を向けようとした瞬間、またバンという音が鳴って、ハナが慌てて真横に飛び退いた。ハナの首のスレスレを閃光が走って、地面に転がる瞬間、ハリーはカメラのストラップが切れたのを見た。ペティグリューが宙に浮いたカメラに杖を向け、カメラは爆発音と共に遠くに吹き飛んだ。

「エクスペリアームス!」

 ハリーも急いで杖を抜き、叫んだ。ペティグリューの手から杖が舞い上がり、どこかへ飛んでいったのが分かったが、もう何もかもが手遅れだった。だらりと伸びたロンとスネイプの腕に掛かる手錠から、痩せ細った禿げたネズミがするりと擦り抜けるのをハリーは目撃した。ペティグリューが変身したのだ。ネズミは校庭の芝に紛れ、草の中を慌てて走り去っていく。

「この――卑怯者!!」

 ハナが大声を上げて、鷲になって飛び出した。鷲は物凄い速さで暗闇を疾走し、逃げたネズミを追いかけて、やがて、見えなくなった。