The ghost of Ravenclaw - 219

24. 裏切り者

――Harry――



 ブラックがハリーの両親やハナ、ルーピン先生のことを心底大切に思っているのは最早否定のしようがなかった。錯乱の呪文を使っていないことも疑いようがなかった。ハナを侮辱されたことにあんなにも怒りを露わにする人が、ハナが用意してくれた巾着を宝物のように扱う人が、ハナに対してそんなことをするはずがないのだ。

 しかし、ハリーがブラックのことを信じるということは、ペティグリューにとっては死刑宣告も同義だった。ペティグリューは顔面蒼白になってガックリとその場に膝をつくと、祈るように手を擦り合わせ、這いつくばり、ブラックに縋りつこうとした。

「シリウス――私だ……ピーターだ……君の友達の……まさか君は……」

 ペティグリューの手が服に伸びてくると、ブラックは顔をしかめて蹴飛ばそうと足を振った。

「この服はハナがくれたものだ。お前の手で汚されたくはない」

 にべもなくブラックがそう言うと、ペティグリューはブラックの足から逃れるように後退し、今度はルーピン先生の方に向き直った。

「リーマス! 君は信じないだろうね……計画を変更したなら、シリウスは君に話したはずだろう?」
「ピーター、私がスパイだと思ったら話さなかっただろうな」

 ルーピン先生が答えた。

「シリウス、多分それで私に話してくれなかったのだろう?」

 床に這いつくばっているペティグリューの頭越しにルーピン先生がさりげない口調でブラックに問いかけると、ブラックは本当に申し訳なさそうに謝罪した。

「すまない、リーマス」
「気にするな。我が友、パッドフット」

 ブラックの言葉に、そう投げかけたルーピン先生の口調は、ペティグリューに対するものとは違い、まったく気にしていない様子だった。確かに自分の後ろを引っ付いて回っているような友達より、能力のある友達の方がヴォルデモートの勧誘に合うだろうと考えるのは普通のことだろう。それはブラックだけでなく、ルーピン先生も同じだった――。

「その代わり、私が君をスパイだと思い違いしたことを許してくれるか?」

 袖を捲り上げながらルーピン先生が言うと、ブラックは「もちろんだとも」と微かに微笑んだ。そして、ブラックもルーピン先生と同じように袖を捲ると続けた。

「一緒にこいつを殺るか?」
「ああ、そうしよう」

 ルーピンが杖を手に頷くと、ハナが慌てて何かを言おうとしたが、それよりも先にペティグリューが声を上げて、ハナの言葉は掻き消された。

「やめてくれ……やめて……」

 ぺティグリューはブラックとルーピン先生から逃れるように今度はスネイプのところに向かい、縋りついた。スネイプは今すぐにでも引き離したいと思っているような嫌悪に満ちた視線をペティグリューに投げかけたが、ロープで縛られたままでは手足も動かせず、ブラックにかけられたシレンシオも未だ効果が切れておらず、どうすることも出来なかった。

「セブルス……君はシリウスことなんて信じないだろう? あんなにシリウスを恨んでいたじゃないか……」

 スネイプは一度口を開いたが、やっぱり声が出てこなかった。すると、喋れないスネイプに向かってハナが無言で杖を振ったかと思うと、次の瞬間、憎悪の入り混じる目でペティグリューを睨みつけてスネイプが言った。ハナがブラックのかけた魔法を解いたのだ。

「我輩はブラックが心底嫌いだ……」

 食い縛った歯の隙間からスネイプが唸った。

「しかし、残念ながら、貴様はそのブラック以下だ……我輩が縛られていることを感謝するがいい……でなければ、我輩が有無を言わさず貴様を吸魂鬼ディメンターに引き渡し、接吻キスの執行をするよう申し出ていただろう」

 ブラックをあんなにも嫌っていたスネイプすら味方にならないと分かると、ペティグリューはまたターゲットを変えた。

「お嬢さん……ああ、レイブンクローの幽霊殿……」

 さっきまでハナを侮辱し、貶めようとしていたことなどすっかり忘れたのか、ペティグリューはハナのローブに縋りつきながら言った。

「私はただ怖かっただけなんだ……分かっておくれ……学生時代、君が私の居場所を奪おうとしているという恐怖に囚われていた……ジェームズ達が私を置いて行ってしまうと恐れていた……そこをあの人につけ込まれたんだ……」
「ミスター・ペティグリュー、残念だけど私の世界にある本の中に、私は存在しないの」

 手荒くローブをひったくってハナが言った。

「本は私がいない世界線の話なのよ。ヴォルデモートが召喚魔法を行わなかった世界線の話なの。それでも私はシリウスが無実の罪でアズカバンに投獄されることも、貴方が裏切り者だということも知っていた。それがどういうことか分かるかしら?」
「な、なんのことやら――」
「つまり、貴方は私がこの世界に存在せずとも仲間を裏切る愚か者だってことよ。ジェームズ達が貴方を置いていくですって? バカにしないで。ジェームズもリリーもシリウスもその時を迎えるまで貴方を信じていた――それこそが答えだったのに。そこまで自分を信じてくれていた仲間に貴方は本当に何も思わないの? 誰が死に、誰が心を傷めたって、自分さえ無事ならいいって言うの?」

 ペティグリューの行いを心底軽蔑しているような容赦ない言い方だった。すると、ペティグリューはたじたじと後退していき、今度はロンのそばに転がり込んだ。

「ロン……私はいい友達……いいペットだったろう? 私を殺させないでくれ、ロン。お願いだ……君は私の味方だろう?」

 しかし、ロンですらもうペティグリューの味方ではなかった。ロンは思いっきり顔をしかめると、ペティグリューを睨みつけた。

「自分のベッドにお前を寝かせてたなんて!」
「優しい子だ……情け深いご主人様……」

 ペティグリューはロンの方に這い寄りながら続けた。

「殺させないでくれ……私は君のネズミだった……いいペットだった……」
「人間の時よりネズミの方がさまになるなんていうのは、ピーター、あまり自慢にはならない」

 ブラックが厳しい口調で言った。ロンは縋りつかれるのはごめんだとばかりに痛みで蒼白になりながらも、折れた足をペティグリューの手の届かないところへと移動させた。それを見たペティグリューはロンに命乞いするのを諦め、今度はハーマイオニーのローブの裾を掴んだ。ハリーはその瞬間、いつでも狙えるようにハナがペティグリューに杖を向けたのが分かった。

「優しいお嬢さん……賢いお嬢さん……貴方は――貴方ならそんなことをさせないでしょう……助けて……」

 ハーマイオニーは怯えきった表情でローブを引ったくると、壁際まで退がった。すると、ペティグリューはガタガタ震えながら最後の頼みだとばかりにハリーに向かって跪いた。

「ハリー……ハリー……君はお父さんに生き写しだ……そっくりだ……」

 ペティグリューはハリーに這い寄ろうとしていたが、それを見るや、ブラックが大声を出して咎めた。

「ハリーに話しかけるとは、どういう神経だ? ハリーに顔向けが出来るか? この子の前で、ジェームズのことを話すなんて、どの面下げて出来るんだ?」

 しかし、ペティグリューはハリーに向かって這い寄るのをやめなかった。両手を伸ばし、ハリーに向かって膝で歩きながらペティグリューは囁いた。

「ハリー――ハリー、ジェームズなら私が殺されることを望まなかっただろう……ジェームズなら分かってくれたよ、ハリー……ジェームズなら私に情けをかけてくれただろう……」

 ペティグリューがそう言うや否や、ブラックとルーピン先生が大股に近付いてきて、ペティグリューの肩を掴んで床の上に仰向けに叩きつけた。ペティグリューは床に転がったまま恐怖にヒクヒク痙攣しながらブラックとルーピン先生を見上げた。ハナは杖を固く握りしめていたものの、2人がそうするのが分かっていたかのように扉の前から動かなかった。

「お前は、ジェームズとリリーをヴォルデモートに売った」

 ブラックも体を震わせていたが、それはペティグリューのように恐怖からではなく、怒りから来るものだった。

「否定するのか?」

 ブラックに問われると、ペティグリューはとうとう泣き出した。ハリーの目にはそれがひどくおぞましい光景に映った。育ち過ぎた頭の禿げかけた赤ん坊が床の上で竦んでいるような、そんな感じに見えてならなかった。

「シリウス、シリウス、私に何が出来たというのだ? 闇の帝王は……君には分かるまい……あの方には君の想像もつかないような武器がある……私は怖かった。シリウス、私は君や、リーマスやジェームズのように勇敢ではなかった。私はやろうと思ってやったのではない……あの名前を言ってはいけないあの人が無理矢理――」
「嘘をつくな!」

 空気が震えるくらいの大声でブラックが叫んだ。

「お前は、ジェームズとリリーが死ぬ1年も前から、あの男に密通していた! お前がスパイだった!」
「あの方は――あの方は、あらゆるところを征服していた!」

 ペティグリューが震える声で訴えた。

「あの方を拒んで、な、何が得られたろう?」
「史上で最も邪悪な魔法使いに抗って、何が得られたかって? それは罪もない人々の命だ、ピーター!」

 凄まじい怒りが、ブラックの顔に浮かんでいた。ペティグリューはガタガタ震えながらも尚も命乞いを続けた。

「君には分かってないんだ! シリウス、私が殺されかねなかったんだ!」
「それなら、死ねばよかったんだ」

 間髪容れずブラックが言った。

「友を裏切るくらいなら死ぬべきだった。我々も君のためにそうしただろう」

 それは残酷なほど悲しい現実だった。ブラックとルーピン先生は本気でペティグリューなんかのためにも自らの命を賭けただろう。ペティグリューはそんな彼らの想いをちっとも分かっていなかった――いや、ペティグリューにとって、そんなことどうでもいいことだったのかもしれない。なぜなら、昔からペティグリューにとって大事だったのは、我が身だけだったのだから。

 ハリーの父親もブラックもルーピン先生も、ペティグリューにとっては自分の身を守ってくれる盾にしか過ぎなかった。盾はもっと強いものを見つけたら取り替えればいい。事実、ペティグリューは取り替えた。より強い、ヴォルデモートという盾に。しかし、どちらの盾も失っている今、こんな風に怯えているしか出来ないのだ。

「お前は気付くべきだったな」

 ルーピン先生が静かに口を開いた。

「ヴォルデモートがお前を殺さなければ、我々が殺すと」

 これは自業自得だ。身から出た錆だ。ハリーにはそう思えてならなかった。ブラックとルーピン先生が、ペティグリューを殺して復讐を成し遂げたいと考えるのも無理はない。2人はそれくらいハリーの両親のことを大事に思ってくれていた。けれど――ハリーはハナを見た。先程までペティグリューに向いていたはずのハナの杖先は今やブラックとルーピン先生に向いている。ペティグリューを見ている2人はまったく気付いていなかったが、ハナは2人が手を出そうものならすぐにでも止めに入るような体勢だった。

 ハナは、親友2人が本当の殺人犯になることを望んでブラックに手を貸した訳ではないのだと、ハリーにはすぐに分かった。ハナの望みは、ブラックを助けることなのだ。親友の無実を晴らすことなのだ。そして、それはきっとハリーの両親の望みでもある。

「ピーター、さらばだ」

 ブラックとルーピン先生が肩を並べて立ち、杖を上げた。彼らを、両親の友達を殺人犯にしてはいけない――ハナに自分の親友を攻撃させるようなことをさせてはいけない――。

「やめて!」

 次の瞬間、ハリーは駆け出し、そして、ペティグリューの前に立ち塞がると2本の杖に向き合ったのだった。