The ghost of Ravenclaw - 218

24. 裏切り者

――Harry――



「ハナが怖がらせてしまったようだね、ピーター」

 ハナに責められてガタガタ怯えているペティグリューに、ルーピン先生が感情の見えない声で言った。ペティグリューはそんなルーピン先生を縋るような目で見つめたが、ルーピン先生はその落ち着いた口調とは裏腹に、ペティグリューに容赦はなかった。

「しかし、心配しなくていい。少し話の整理がつくまでは、誰も君を殺しはしない」
「整理?」

 暗い目でルーピン先生がペティグリューを見据えると、ペティグリューは落ち着きなさげにまたキョロキョロと辺りを見回した。視線が板張りされた窓に移り、ハナの背後にある扉に移り、ハナのカメラに移り、そして、最後にブラックを指差すと叫んだ。

「こいつが私を追ってくると分かっていた! こいつが私を狙って戻ってくると分かっていた! 12年間、ずっとこの時が来ると思っていた!」
「シリウスがアズカバンを脱獄すると分かっていたと言うのか?」

 ルーピン先生が胡散臭そうなものを見るような目でペティグリューを見下ろした。

「未だかつて脱獄した者は誰もいないのに?」
「こいつは、私達の誰もが、夢の中でしか叶わないような闇の力を持っている!」

 ペティグリューは必死になって訴えた。冷や汗が流れ落ち、呼吸が妙に乱れている。ペティグリューは再び部屋をキョロキョロ見渡すと、今度はハナを指差して続けた。

「それにあの女を味方につけている! あの女は未来を知っているんだ! リーマス、そのことは君も知っているだろう! 学生時代、我々の誰も知らなかった場所をジェームズとシリウスに教えてくれたように、シリウスにアドバイスしていたに違いない……」

 ハナを指差した途端、ブラックとルーピン先生の顔が同時に怒りの表情になった。しかし、ブラックとルーピン先生が何かいう前に、ハナが聞いたこともないような冷ややかな声で笑い声を上げた。

「あら、私が学生時代のシリウスに懇切丁寧にアズカバンの脱獄方法を教えたですって? 面白いアイデアだわ」

 声は笑っていたが、その目はまったく笑っていなかった。すると、ブラックが一歩前に進み出て低い声で唸るように言った。まるで、地の底を這うような声だった。

「ピーター、彼女を貶めようとするとはいい度胸だ――」

 ブラックは、ハナまで犯罪に加担していたように話すペティグリューに心底怒っているようだった。それはルーピン先生も同じなのか、ペティグリューに凄むブラックを止める気配はなかった。

「ハナが私になんと忠告したか知りたいのなら教えてやろう。彼女は“何か大事なことを決める時、自分自身以外を信じたらダメだ”と言ったんだ。だから私はダンブルドアの提案ではなく、自分自身の案を信じることにした――それこそが私の犯した間違いだった」
「嘘だ!」

 ペティグリューが甲高い声で反論した。

「それがなければ、どうやってあそこから出られる? この女でなければ――そうだ、おそらく名前を言ってはいけない例のあの人だ! 彼がこいつに何か術を教え込んだんだ!」
「ヴォルデモートが私に術を?」

 ブラックがゾッとするような声を出して笑い声を上げた。ペティグリューは「ヒッ」と短い悲鳴を上げて身を縮めている。ハリーはブラックが恐ろしかったのかと思ったが、そうではなかった。

「どうした? 懐かしい主君の名前を聞いて怖気づいたか?」

 そう、ペティグリューはヴォルデモートの名前を聞くことを何より恐れていたのだ。震え上がっているペティグリューにブラックは続けた。

「無理もないな、ピーター。昔の仲間はお前のことをあまり快く思っていないようだ。違うか?」
「何のことやら――シリウス、君が何を言っているのやら――」

 ペティグリューはますます落ち着きをなくしたようだった。今やペティグリューは顔中がテカるほど汗だくで、荒い呼吸をしながらモゴモゴと言い訳するばかりだ。

「お前は12年もの間、私から逃げていたのではない。ヴォルデモートの昔の仲間から逃げ隠れしていたのだ。アズカバンでいろいろ耳にしたぞ、ピーター……みんなお前が死んだと思っている。さもなければ、お前はみんなから落とし前をつけさせられたはずだ……私は囚人達が寝言でいろいろ叫ぶのをずっと聞いてきた。どうやらみんな、裏切り者がまた寝返って自分達を裏切ったと思っているようだった。ヴォルデモートはお前の情報でポッターの家に行った……そこでヴォルデモートが破滅した。ところがヴォルデモートの仲間は、一網打尽でアズカバンに入れられたわけではなかった。そうだな? まだその辺にたくさんいる。時を待っているのだ。悔い改めたフリをして……ピーター、その連中が、もしお前がまだ生きていると風の便りに聞いたら――」
「何のことやら……何を話しているやら……」

 ペティグリューは視線をあちこちに彷徨さまよわせながら袖口で汗を拭って、また縋るようにルーピン先生を見上げた。

「リーマス、君は信じないだろう――こんなバカげた――」
「はっきり言って、ピーター、なぜ無実の者が、12年もネズミに身をやつして過ごしたいと思ったのかは、理解に苦しむ」
「無実だ。でも怖かった!」

 ペティグリューがキーキー言った。

「ヴォルデモート支持者が私を追っているなら、それは、大物の1人を私がアズカバンに送ったからだ――スパイのシリウス・ブラックだ!」
「よくもそんなことを」

 ブラックが怒りの声を滲ませ、唸り声を上げた。

「私が? ヴォルデモートのスパイ? 私がいつ、自分より強く、力のある者達に媚びへつらった? しかし、ピーター、お前は――お前がスパイだということを、なぜ初めから見抜けなかったのか。迂闊だった。お前はいつも、自分の面倒を見てくれる親分にくっついているのが好きだった。そうだな? かつてはそれが我々だった……私とリーマス……それにジェームズだった……」
「私が、スパイなんて……正気の沙汰じゃない……決して……」

 ペティグリューが大量に噴き出す汗を拭いながらやっぱりモゴモゴ言った。

「どうしてそんなことが言えるのか、私にはさっぱり――」
「ジェームズとリリーは私が勧めたからお前を秘密の守人にしたんだ」

 吠えるようにブラックが凄んだ。その激しさにペティグリューがタジタジと後退した。

「私はこれこそ完璧な計画だと思った……目眩ましだ……ハナはまさにこのことを言っていたに違いないと愚かにも確信してしまった。ヴォルデモートはきっと私を追う。お前のような弱虫の、能なしを利用しようとは夢にも思わないだろう……ヴォルデモートにポッター一家を売った時は、さぞかし、お前の惨めな生涯の最高の瞬間だったろうな」

 ブラックの言葉に、ペティグリューの顔はすっかり青ざめ、訳の分からないことばかり呟いていた。ハリーの耳には、ペティグリューが「とんだお門違い」だとか「気が狂っている」と言うのが聞こえてきたが、それよりもハリーが気になったのは、ペティグリューがしきりに窓や扉の方を見ていることだった。

「ルーピン先生、あの――聞いてもいいですか?」

 ハリーがペティグリューの様子を見ていると、ハーマイオニーがおずおずと口を開いてハリーは振り返った。ハーマイオニーは表情を強張らせながらも、ペティグリューの方を見ると訊ねた。

「あの――スキャバーズ――いえ、この――この人――ハリーの寮で3年間同じ寝室にいたんです。例のあの人の手先なら、今までハリーを傷付けなかったのは、どうしてかしら?」

 確かにもっともな疑問だった。ペティグリューがヴォルデモートの手下でハリーや両親を襲わせたのなら、これまでなんの動きもないのは不自然ではないだろうか。1年生の時なんて、城内にヴォルデモートがいたにもかかわらず、だ。すると、この好機を逃すまいとでも思ったのか、ペティグリューがパッと顔をハーマイオニー向けて勢いよく喋り出した。

「そうだ! ありがとう! リーマス、聞いたかい? ハリーの髪の毛1本傷付けてはいない! そんなことをする理由があるか?」
「その理由を教えてやろう――お前は、自分のために得になることがなければ、誰のためにも何もしないやつだ」

 ブラックがばっさり切り捨てた。

「ヴォルデモートは12年も隠れたままで、半死半生だと言われている。アルバス・ダンブルドアの目と鼻の先で、しかもまったく力を失った残骸のような魔法使いのために、殺人などするお前か? あの男の下に馳せ参ずるなら、あの男がお山の大将で一番強いことを確かめてからにするつもりだったろう? そもそも魔法使いの家族に入り込んで飼ってもらったのは何のためだ? 情報が聞ける状態にしておきたかったんだろう? え? お前の昔の保護者が力を取り戻し、またその下に戻っても安全だという事態に備えて……」

 ペティグリューは言い訳が見つからないようだった。声すらも失ったかのように、ブラックにシレンシオをかけられたスネイプよろしく口をパクパクさせるだけだった。すると、ハーマイオニーがまたおずおずと口を開き、今度はブラックに声をかけた。

「あの――ブラックさん――シリウス?」

 声をかけられると、ブラックは飛び上がらんばかりに驚いたように見えた。こんなに丁寧に話しかけられたのは、もう遠い昔のことだとでもいうように、ハーマイオニーをまじまじと見つめている。

「お聞きしてもいいでしょうか。ど――どうやってアズカバンから脱獄したのでしょう? もしハナにも教えてもらってなくて、闇の魔術を使ってないのなら」
「ありがとう! そのとおり! それこそ、私が言いた――」

 ペティグリューが再び声を取り戻したが、ルーピン先生に睨まれると途端に口を閉じ、また喋らなくなった。

「どうやったのか、自分でも分からない」

 ペティグリューが黙り部屋の中が静かになると、ブラックがどう説明しようか考えるかのような素振りでゆっくりと口を開いた。それから一度スネイプの方をチラリと見遣ったが、すぐにハーマイオニーに視線を戻すと続けた。

「私が正気を失わなかった理由はただ1つ、自分が無実だと知っていたことだ。これは幸福な気持ではなかったから、吸魂鬼ディメンターはその思いを吸い取ることが出来なかった……しかし、その想いが私の正気を保った。自分が何者であるか意識し続けていられた……私の力を保たせてくれた……だからいよいよ……耐えがたくなった時は……私は独房で変身することが出来た……犬になれた」

 吸魂鬼ディメンターは目が見えず、人間の感情を感じ取って人に近付く生き物だ。しかし、ブラックが犬になると吸魂鬼ディメンター達は、その感情が人間的な複雑な思考から野生的で単純なものになるのを感じ取り、気が狂って物事を考えられなくなったのだとしてブラックに関心を示さなくなった。ブラックはこうして正気を保っていられることが出来たが、それでも碌な食事を取れない監獄での生活で弱り果て、杖なしには脱獄も無理だと諦めていたという。

「ハナがまた戻って来たのかも監獄の中では知ることが出来なかったが、彼女の存在は私にとって唯一の救いだった。私にとって、たった1人、真実を知る味方だ……また一目会えたらどんなにいいかと独房の中で何度もそう思った」

 ブラックは続けた。

「そんな時、私はあの写真にピーターを見つけた……ホグワーツでハリーと一緒だということが分かった……闇の陣営が再び力を得たとの知らせが、ちらとでも耳に入ったら、行動が起こせる完璧な態勢だ……味方の力に確信が持てたら、途端に襲えるよう準備万端だ……ポッター家最後の1人を味方に引き渡す。ハリーを差し出せば、やつがヴォルデモート卿を裏切ったなどと誰が言おうか? やつは栄誉をもって再び迎え入れられる……だからこそ、私は何かをせねばならなかった。ハナが戻ってきているか分からない今、ピーターがまだ生きていると知っているのは私だけだ……」

 その時、ハリーは不意に漏れ鍋でウィーズリーおじさんがウィーズリーおばさんに話していたことを思い出した。ブラックは脱獄前、いつも同じ寝言を言っていたという内容だ。看守達がその寝言の内容をファッジに報告したからこそ、魔法省はブラックがハリーを狙っていると思い込んだのだ。

「看守が、ブラックは寝言を言っていると言うんだ……いつも同じ寝言だ……“あいつはホグワーツにいる”って」

 けれど、それはハリーではなくペティグリューのことだった。誰もペティグリューのことだと思わなかったのだ。なぜなら、12年前、ペティグリューは殺されたものと思われていたからだ。思えばあの時からハナはブラックのことをハリーに「可愛いワンちゃんみたいなものよ」と話していた。それは何も楽観的に物事を捉えていたからではなく、ハリーにとってブラックは無害だと知っていたからそう話していたのだ。

「まるで誰かが私の心に火を点けたようだった。しかも吸魂鬼ディメンターはその思いを砕くことは出来ない……幸福な気持ではないからだ……妄執もうしゅうだった……しかし、その気持が私に力を与えた。心がしっかり覚めた。そこである晩、連中が食べ物を運んできて独房の戸を開けた時、私は犬になって連中の脇をすり抜けた……連中にとって獣の感情を感じるのは非常に難しいことなので、混乱した……私は痩せ細っていた。とても……鉄格子の隙間をすり抜けられるほど痩せていた……私は犬の姿で泳ぎ、島から戻ってきた……力を振り絞って姿現しをしてハナの家へ向かった。彼女がいるか分からなかったが、それでも私の行く場所はそこしか思い浮かばなかった……そうして、運良く彼女と再会した。しかも、私のためにあらゆる準備を整えてくれていた」

 そこでブラックは言葉を切ると、自分の腰に括り付けている巾着を手に取って少し持ち上げた。ブラックにとって、まるでそれが唯一の宝物であるかのような仕草だった。

「ハナがいなければ今ごろどうなっていたか……彼女は危険を顧みず、私の味方になってくれた……お陰で私はしばらくの間の食糧と杖を手に入れることが出来た。そして、彼女とホグワーツでの再会を約束して、北へと旅し、ホグワーツの校庭に犬の姿で入り込んだ……それからずっと森に棲んでいた……ハナが通信販売でテントを用意してくれ、よほどのことがない限り毎晩森へやってきて食事を運んでくれたり、情報を与えてくれたりした……もちろん、二度ほどクィディッチの試合を見にいったが、それ以外は……。ハリー、君はお父さんに負けないぐらい飛ぶのが上手い……」

 ブラックはハリーを真っ直ぐに見た。ハリーも目を逸らさなかった。2人の視線が絡み合い、そして、

「信じてくれ」

 掠れた声でブラックが言った。

「信じてくれ、ハリー。私は決してジェームズやリリーを裏切ったことはない。裏切るくらいなら、私が死ぬほうがましだ」

 その言葉が嘘偽りのないことくらい、ハリーにはもう分かっていた。けれども上手く言葉が出てこず、ハリーはただ静かに頷いた。