The ghost of Ravenclaw - 211

23. レイブンクローの幽霊

――Harry――



 言いようのない感情がハリーの中に渦巻いていた。それが果たして怒りなのか悲しみなのか絶望なのか恐怖なのかも、ハリーには判断がつかなかった。ただ体がガタガタ震えて、指先が冷え切っていることだけは分かった。冷や汗がハリーの輪郭に沿うように流れて顎先へと伝っていき、床に小さな染みを作った。

「君は――」

 唇をハクハク震わせて、ハリーは無理矢理声を絞り出した。

「初めから知ってたんだ――僕の――父さんと母さんに――何が――起こるのか」

 そうとしか考えられなかった。ブラックがアズカバンに入り脱獄することを知っていたのなら、当然、アズカバン行きになった罪状だって知っているはずだからだ。つまり、ハナは湖のほとりでハリーの父親に声を掛けられたその時から、彼がそれほど遠くない未来でどうなるのかを知っていた。その時、ハナだけが両親の死を止められたかもしれなかった。止まらない冷や汗が先程からポタポタと床に染みを作り続けている。

「君は――君は――」

 突然、ハリーの視界が大きく歪んだ。目頭が熱くなって、鼻がツンと痛んで、呼吸が激しく乱れた。悲痛な面持ちのハーマイオニーが震える肩を抱いてくれて、ハリーはその時初めて自分がボロボロ泣いていることに気が付いた。

「ハリー、シリウスがジェームズとリリーを殺したっていうなら、私も同罪だわ」

 まるでトドメを刺すかのようだった。ハナがじっとハリーを見据えたまま、静かに口を開いた。その声は、ハリーのように震えてなんていないし、目からは一雫の涙も溢れてはいない。いっそのこと、泣きじゃくって謝ってくれたらハナは何も悪くなかったのだと諦めがつくかもしれないのに、ハナは決してそうはしなかった。むしろハリーに責められるのを望んでいるような感じだ。

「私、彼らがどうなるか最初から――」
「やめろ、ハナ」

 ハナが言い切る前にブラックが鋭い声で制した。

「なぜそういう言い方をする? 君は、私にきちんと忠告をした。私がその意味を履き違えた――それに、姿を消すその瞬間まで、君はダンブルドアに何かを訴えようとした。君は自分のことより、他の心配をしていた――」
「ハリー、これだけは言えるが、ハナにはどうすることも出来なかった。助けたくても助けられなかったんだ……」
「だから、ハリーに仕方なかったって諦めろって言うの!?」

 ハナを庇おうとするブラックとルーピンにハーマイオニーが叫んだ。今やハーマイオニーはハリーと同じくらいボロボロ泣いていた。ハリーの肩に回している手にこれでもかと力が入っている。

「両親を亡くしたのは、ハリーなのよ! それなのに、よってたかって情に訴えようなんて卑怯な大人のすることだわ! ハリーは両親を理不尽に奪われたのに――」

 ボロボロ泣いて訴えるハーマイオニーにルーピン先生とブラックは悲痛な表情をして、口を閉ざした。ハナはといえば、すべてを受け入れるかのように黙ってハーマイオニーの言葉に耳を傾けている。

「でも、ハーマイオニー、奪われたのはハリーだけじゃないよ……そうだろ?」

 ややあって、ロンが恐る恐るといった様子で口を開いた。

「これまでの話が本当なら、ハナだって自分の世界を奪われたんだ。たった1人、違う世界にやって来て、例のあの人に狙われてて、楽しいはずないよ――それって凄く怖いことなんじゃないかな……」

 ロンの言葉にハリーもハーマイオニーも黙り込んだ。ハリーの中には未だにいろんな感情がぐちゃぐちゃとしていて、この気持ちをなんと表現したらいいのかも分からなかったけれど、憎いという感情ではないことは確かだった。憎いわけではないのに、ブラックとルーピン先生がハナを庇う意味だって分かるのに、どうしてという思いが止められなくて苦しいのだ。

「もう――貴方は自分の世界には戻れないの――?」

 ハーマイオニーが声を震わせながら訊ねた。

「戻れないわ」

 ハナがきっぱりと答えた。

「もしかすると方法がないわけではないのかもしれない。ダンブルドア先生に帰れないのか訊ねた時、首を横に振るだけではっきりと口にしなかった――けれど、召喚魔法には犠牲が必要なの。戻る条件が同じであることは容易に想像出来るわ。私、そうまでして戻りたくはない――」

 ハナの声には、そのことを恐れているような雰囲気があった。犠牲というのが具体的になんなのかは分からなかったが、ヴォルデモートがやることだ。とんでもなく残虐なものだということはすぐに分かった。それこそ人や動物の命が必要だというのなら、平気で殺し、魔法のために使ったに違いない。

「ヴォルデモートがハナを元の世界に帰したりだとかは……」
「ないでしょうね。もし、私が用無しになったとしても、殺せばいいだけよ。ただでさえ弱ってるのに、ヴォルデモートはわざわざそんなメリットも何もないことをしやしないわ。だから、私はもう戻れないの」

 もう戻れないと分かった時、ハナはどんな気分だったのだろう。ハリーは頭の隅で考えた。そりゃ、ハリーの世界がダーズリー家だとか友達の一切いなかった小学校とか猫だらけのフィッグおばさんの家だけで構成されていたころなら、ハリーだって違う世界に行けたら最高だと思うだろう。でも、今はどうだろう。ロンがいて、ハーマイオニーがいて、ホグワーツがある今なら――ハリーなら耐えられなかったはずだ。1人ぼっちで放り出させるなんて真っ平だ。その上、もし、向かった先で知り合った友達が殺されるのを止められなかったら――考えるだけでも恐ろしい。

「ハナ……」

 ハリーはそっと呼び掛けた。

「ハナはその僕の父さんのこと好きだった……? えっと、変な意味じゃなくて、友達として……」
「ええ、大好きよ。とっても。もちろん」
「召喚される時、君はダンブルドアになんて言いたかったの?」
「ハリー、私は結局、ダンブルドア先生に何も言えなかったわ。それが、事実よ――」

 ハナの声はあくまでも冷静だったが、ハリーにはそれが懺悔のようにも、悲痛な叫びようにも聞こえた。ハナはどうにか両親を助けようとダンブルドアに訴えたかったに違いない――何も言わなかったにもかかわらず、ハリーにはそれが手に取るように分かった。きっと、そんなハナのことを責め立てるのをハリーの父親も母親も望んではいないのだろう。

「召喚魔法にハナが選ばれたのは、君に魔力があって、且つ、その予言書みたいな本の記憶があったからなの?」

 ハリーはローブの袖口でゴシゴシ涙を拭うと訊ねた。泣いたのもあって少し気分が落ち着いたのかもしれない。話の続きを聞かなければと思ったのだ。それまで、ハリーの肩に回していた手にこれでもかと力を入れていたハーマイオニーもハリーが涙を拭う姿を見ると、そっと手を離して涙を拭った。

「召喚魔法に私が選ばれたのは、それも原因の1つだと思うわ」

 ハリーとハーマイオニーが涙を拭うのを待ってから、ハナが言った。

「召喚魔法には、世界と世界を結びつける繋がりのようなものが必要不可欠みたいなの。その1つが私の記憶ね。それから、私の家もその繋がりに入るんじゃないかって思ってるの――これは最近出てきた仮説だけど、どちらの世界にもメアリルボーン、バルカム通り27番地に同じ家が存在しているのだとしたら、それはより強力な繋がりとなるわ。私がイギリスに来てから元の世界に戻れなくなったのも説明出来る」

 そして、召喚魔法の完成にはハナの名前が必要だったのだと、ハナは教えてくれた。ヴォルデモートはそれが分からなかったために、何度も召喚魔法を失敗してしまう羽目になったのだ。けれども、その失敗こそがヴォルデモートの最大のミスだった。ダンブルドアにハナの存在を知られてしまい、先に保護されることになったからだ。けど、よく分からないのは、ヴォルデモートがどうやってハナの名前を手に入れたのか、ということだった。

「ヴォルデモートがどうやって手に入れたのかは私にも分からないわ。けれど、確かに召喚に成功する直前まで、ヴォルデモートは私の名前を知らなかった。もし知っていたら、私は早い段階で召喚されていたはずだもの。でも、どうやったのか、ヴォルデモートは私の名前を手に入れて、私の召喚に成功した――」

 その召喚に成功したのが偶然、ハナがダンブルドアと会っている時だった。スネイプがレイブンクローの女生徒が退学になったと思ったのは、ハリーの父親とルーピン先生、ブラック、ハナの4人が校長室に入ったのに、ハナだけが戻って来なかったのを見掛けたからに違いない。もしかすると、退学になればいいと校長室に入る4人をこっそり見張っていたのかもしれない。

「召喚された私は、運のいいことにヴォルデモートの前でなく、自分の家で目覚めた。一番繋がりの強い場所に召喚されたのね。ダンブルドア先生にはそれが分かっていたのかもしれないわ……1週間してダンブルドア先生が家にやって来て、私の後見人になってくださった。7月の半ばのことよ――今まで話せなくて騙すみたいな形になって本当にごめんなさい」

 ひと通り話を終えると、ハナは最後にそう言ってハリー達に謝った。ハリーはどうしてもっと早くに言ってくれなかったんだと思うのと同時に、これは簡単に話せるはずがない、とも思った。どうしたらハナが別世界からやって来て、その過程で自分の父親と友達になったと信じられるだろう。もし出会ってすぐにこんな話をされたのなら、ハリーは絶対ハナを信じなかったし、仲良くならなかったに違いない。

 今、ハリーが複雑な感情を抱えながらもハナのこの荒唐無稽な話を聞こうと思えるのは、これまでの信頼関係があってこそなのだ。でなければ、両親を裏切ってヴォルデモートに売り、大勢を殺した殺人犯とその友達の狼人間を庇うハナのことをどうにか信じようなんて気にはならなかっただろう。ハナが最初からハリーの両親の行く末を知っていて助けられなかったと知った時も、もっとハナを罵ったはずだ。殺したいとすら思ったかもしれない。でも、そうならなかったのは、やっぱりハリーにとってハナは大好きで大事な親友だからだ。

「僕、君の話は信じる――だって、その話が本当ならいろんなことの説明がつく……1年生の時、僕を“ジェームズ”って呼んだこととか、他にも……」

 ハリーは真っ直ぐにハナを見て言った。それから、鋭い視線をルーピン先生とブラックに投げると続ける。

「ただ、僕はルーピン先生とブラックのことはまだ信用出来ない。ルーピン先生とハナが再会したのはいつなんですか?」
「私がハナと再会したのは、君達が1年生の時のクリスマスだ」

 ルーピン先生が答えた。

「ジェームズとリリーにあんなことがあって以降、私はほとんど誰とも連絡を取らず、ひっそりと暮らしていた。そんな私をダンブルドアが探し出して、ハナが戻ってきたと手紙をくださった。ダンブルドアは後見人になったものの見ての通りお忙しくてハナと一緒に暮らすことは難しいし、代わりの保護者が必要だと考えたんだ。それには、私以外ピッタリな人間はいなかった。当時、ハナの事情を知っているのは私しかいなかったからね。シリウスはアズカバンだし、ピーターはそもそもハナの事情を何も知らなかった。ダンブルドアに一切の口外を禁止され、私達がそれを頑なに守ったからだ……」

 ルーピン先生はどこか暗い声で続けた。

「私はハナがある程度のことを知っていると分かっていた。本の存在を聞いていたからだ。ただ、シリウスのことについて、私自身はみんなが知っているのと同じ知識しかなかった。ジェームズとリリーを裏切ったのはシリウスで、ピーターは殺されたものだとばかり思っていた……。再会してからというもの、ハナがシリウスの話題を頑なに避けるものだから、当然ハナもそう思っていて、本の中でもシリウスが裏切り者になっているのだとばかり考えていた……」

 ハナがルーピン先生に話さなかったのは、先生が狼人間だからだろうか。ハリーには狼人間に対する差別がどれほどのものかよく分からないけれど、もし、これまでの話のように狼人間というだけであらぬ誹りを受けるというのなら、ルーピン先生のことを思ってハナが真実を黙っている可能性は十分に有り得た。ルーピン先生が共犯だと疑われないようにするためだ。真実を知らなければ、たとえ真実薬を飲まされたとしても共犯だとされることはないし、ルーピン先生は守られる――。

「この1年というもの、私は、シリウスが動物もどきアニメーガスだとダンブルドアに告げるべきかどうか迷い、心の中で躊躇う自分と闘ってきた。しかし、告げはしなかった。なぜかって? それは、私が臆病者だからだ。告げれば、学生時代に、ダンブルドアの信頼を裏切っていたと認めることになり、私が他の者を引き込んだと認めることになる……ダンブルドアの信頼が私にとってはすべてだったのに。ダンブルドアは少年の私をホグワーツに入れてくださったし、大人になっても、すべての社会から締め出され、正体が正体なのでまともな仕事にも就けない私に、ハナの推薦を快く受け入れ、職場を与えてくださった。だから、私はシリウスが学校に入り込むのに、ヴォルデモートから学んだ闇の魔術を使っているに違いないと思いたかったし、動物もどきアニメーガスであることは、それとは何の関わりもないと自分に言い聞かせた……だから、ある意味ではスネイプの言うことが正しかったわけだ」

 次の瞬間、スキャバーズを睨み続けていたブラックが眉間に皺を寄せてルーピン先生を見た。

「スネイプだって?」

 かなり不機嫌そうな声だ。その様子を見たハナが困ったような顔で頭を抱えている。ハリーは自分の父親達とスネイプの仲が良くなかったことを思い出した。

「スネイプが、何の関係がある?」
「シリウス、スネイプがここにいるんだ」

 ルーピン先生が重苦しく答えた。

「あいつもここで教えてるんだ」