The ghost of Ravenclaw - 203

23. レイブンクローの幽霊



 陽が沈み、外は既に真っ暗になっていた。
 バックビークが処刑を免れたことを確かめ、セドリックと一旦別れると、私は鷲となってハグリッドの小屋の裏から飛び出し、すっかり暗くなった空をまっすぐ進んで暴れ柳に向かった。暴れ柳は小屋から城へと戻る途中――少し道を逸れ、城の裏手に行ったところ――にあり、暗がりの中、城から漏れ出る松明の明かりを受けてじっとそこに佇んでいる。辺りにはシリウスやクルックシャンクスはもちろん、ハリーもロンもハーマイオニーの姿もない。どうやらみんな叫びの屋敷に向かったようだ。

 私は、暴れ柳の周りをぐるりと旋回し、辺りに誰もいないことを確かめると暴れ柳の枝が届かないところに着地し、一旦元の姿に戻った。クルックシャンクスのように枝を掻い潜って根元の節まで行けたらいいのだけれど、流石にそれは無理だろう――私は杖を取り出し近くに落ちていた小枝を呼び寄せると、それを暴れ柳の根元まで動かしてコブに当てた。それから試しに2、3歩前に進み、暴れ柳の樹下に入り込んだが、暴れ柳はピクリとも動かなかった。

 上手くいったようだ――私は再びポンッと鷲に戻ると、根元のウロに向けて真っ直ぐに飛び、樹下にある通路の中へと入り込んだ。今年度に入ってからもう何度も行き来しているので、明かりのない通路を行くのも慣れたものだ。鷲なので夜目が利くというのもあるのかもしれない。私は通い慣れた通路をビュンビュン風を切って飛び、叫びの屋敷の1階に出た。

 叫びの屋敷の1階には誰もいなかったが、やけに騒がしかった。上階からドタバタという物音と怒号が聞こえている。魔法で決闘をしているというよりは、殴り合いの喧嘩をしているような、誰かが滅茶苦茶に暴れ回っているようなそんな雰囲気だった。「くれぐれも冷静に」というのは難しかっただろうか。私は頭を抱えたくなったが、そんな暇はなかった。突然、誰かの怒鳴り声を最後に屋敷内がしんと静まり返ったのだ。あんなにドタバタと物音がしていたのに、だ。

 これは何だか妙だ。嫌な予感をヒシヒシと感じて、私は元に戻ることも忘れ、鷲のまま右手にある扉から玄関ホールに飛び出した。古い階段をひとっ飛びして2階に上がると、その勢いのままに手前の扉に体当たりした。元に戻って丁寧に扉を開けるという考えは、やっぱり頭の中から抜け落ちてしまっていた。

 バーン! と爆発したかのような音が響いて扉が開いた。その場にいた全員の視線が一斉にこちらに向けられるのと同時に、体当たりした影響で体に激しい衝撃が走ったが、それに構う余裕は一切なかった。それどころか自分の体が痛いなどということすら、考えられなかった。それくらい、そこに広がっていた光景が衝撃的だったからだ。

 押し入った部屋は、満月の夜の度にリーマスと過ごしていた部屋だった。けれども中はいつになくひどい有り様だ。いつもリーマスとロキとクルックシャンクスで眠っていた天蓋ベッドのそばではロンが真っ青になって横たわっているし、壁際では腰の抜けたハーマイオニーが竦み上がっている。部屋の中央にはハリーが杖を真下に向けたまま立っていて、その杖の先にボロボロになったシリウスが仰向けに倒れていた。顔には殴られたような痣があり、鼻血が出ている。ハリーの杖はそんなボロボロになったシリウスの心臓に向けられていた。

 その光景を見た瞬間、ゾッとするような恐怖が私に襲いかかってきた。ハリーに限ってそんな恐ろしいことはしないと信じているけれど、居ても立っても居られなくて、私は慌ててシリウス目掛けて飛んでいくと胸の上――ハリーの杖先の真下――に割り込んだ。そんな私の隣には、シリウスを心配したクルックシャンクスがほぼ同時にやってきて、動くものかとばかりにシリウスの服に爪を食い込ませてて腰を下ろしている。

 どうか、杖を下ろして話を聞いてほしい。
 訴え掛けるようにハリーをじっと見上げてみると、グリーンの瞳が戸惑ったように揺れた。これからやろうとしていることを恐れているかのように杖を握る手が僅かに震えていたが、私越しにシリウスを見るその目は「ただの凶悪殺人犯」を見る目ではなかった。私はそれだけで、ハリーがもう既にシリウスについての嫌な噂話を知っているのだと察した。だからこそ争いになり、こうして杖を突きつけているのだ。あともう少し遅かったらどうなっていただろう。私はそのことを考えると恐ろしくて、鉤爪にぎゅっと力を入れ、服に爪を食い込ませた。これ以上、ハリーに何かさせてはいけない。絶対にだ。

「どいてくれ――」

 胸の上に居座ってまもなく、背後からシリウスの呻くような声がしたかと思うと、無骨な手が伸びてきて私とクルックシャンクスを払い除けようとした。けれども、私はそれに素直に従わなかった。クルックシャンクスと同じように爪をシリウスの服に食い込ませ、これでもかと踏ん張り、抵抗したのだ。なんとかこの状況を脱しない限り、退くわけにはいかなかった。ここで元に戻って冷静に話を聞くよう説き伏せてもいいけれど、混乱を招くだけだろうか――私は鷲のまま部屋に飛び込んで来てしまったことを後悔した。

「“君”がこんなことをするべきじゃない」

 この状況をどう好転させ、冷静な話し合いに持っていくか頭を悩ませていると、シリウスがまた口を開いた。私もクルックシャンクスも退かないものだから、困り果てたような、焦ったようなそんな調子だった。そんなシリウスに向かって、絶対にどかないとばかりにひと鳴きすると、シリウスは先にクルックシャンクスの方をどうにかしようとし始めたが、クルックシャンクスは益々服に爪を立てるばかりで、頑として動こうとはしなかった。

「ハリー、“彼女”に危害を加えたら君は一生後悔するぞ……」

 それは、脅すような言い方でありながら、まるで懇願しているかのような調子でもあった。ハリーがこの状態で、もし攻撃呪文を放ったらどうなるかをシリウスは恐れているのだ。それは何も私やクルックシャンクスが怪我を負うことだけを心配しているのではないだろう。もし攻撃したあとで、鷲の正体が私だと分かったら、ハリーがその心に深い傷を負ってしまうかもしれないとシリウスは危惧しているのだ。

 けれども、それは私とて同じことだった。ただでさえ痣が出来るほど殴りつけているのに、もしシリウスに攻撃呪文を放ち徹底的に傷めつけたたあとで、真実を知ることになったらどうなるだろう。自分が両親の仇だと思って傷つけた相手がそうじゃなかったのだと知ったら、ハリーの心はどうなってしまうだろう。吸魂鬼ディメンターに引き渡したあとで真実が分かったらもっと最悪だ。分からなかったから仕方がないと諭しても、ハリーの心は壊れてしまうに違いない。

 だからこそ私はなんとか冷静に話をする状況に事を持っていきたかった。シリウスがどんなにジェームズを大事に想っているか、ハリーにこそ知っていて欲しかった。けれど、そんな簡単なことすら伝えるのが難しい状況なのは明らかだった。やはり、混乱させるのを承知の上で正体を明かして話をするしかないだろうか。混乱している隙をついて、杖を取り上げれば――しかし、3人相手に即座に武装解除出来るだろうか。杖はハリーが1本とハーマイオニーが3本持っている。シリウスは自分の杖を取られたらしい。

 考えているうちに、時間だけが無常にも過ぎていった。私もシリウスもクルックシャンクスも動かなければ、ハリーもハーマイオニーもロンも誰1人として動かなかった。ネズミがロンの下から飛び出してきて、逃げ出すなんてこともない――そうして、数分が過ぎた時、新たな物音が階下から聞こえてくるのが分かった。床にこだまする、くぐもった足音だ。誰かがこの屋敷に来たらしい。敵だろうか。私が反射的に身構えた途端、ハーマイオニーが叫んだ。

「ここよ! 私達、上にいるわ――シリウス・ブラックよ――早く!」

 もしリーマスやダンブルドア先生以外の人がやって来たのだとしたらかなり厄介だ。私はハリーを一瞥し、攻撃する可能性が低そうだと判断すると、シリウスの上からサッと舞い上がり、扉とシリウスの間で羽撃きながら静止した。何かあったら真っ先に飛び込むか、元に戻って応戦してやるつもりだった。シリウスを守りながらの1対多数はかなり厳しいけれど、やるしかない。

 しんと静まり返った屋敷に、バタバタと階段を上がってくる足音がやけに響いていた。足音は次第にこちらに近付き、そして、開いたままだった扉から男が1人飛び込んできた。蒼白な顔で杖を構えているのは、リーマスだ。

 かなり急いで来たのだろう。リーマスの呼吸は激しく乱れ、肩が大きく上下していた。けれども、呼吸を整える様子はなく、後ろ手で扉を閉めると、急いで部屋を見渡すのが目線の動きで分かった。リーマスの目が、ロン、ハーマイオニー、ハリー、シリウス、そして最後に私へと移ると、何かを確信したようだった。リーマスは素早く杖を振り、唱えた。

「エクスペリアームス!」

 途端にハリーとハーマイオニーの手から杖が飛び出した。飛び出した4本の杖は宙を舞って飛んでいき、まもなく、リーマスの手に収まった。これで一先ず恐れていたことは起こらないだろう。私はホッと胸を撫で下ろすと、横たわるシリウスの胸の上に戻った。もう心配はいらないだろうが、念のためだ。すると、部屋の中央へと進みながら、警戒したようにリーマスが口を開いた。

「シリウス、あいつはどこだ?」

 やはり、リーマスは何が起こっているのか理解しているようだった。少なくとも、ワームテールが生きているということは察したらしい。シリウスはそんなリーマスのことを少しの間じっと見ていたが、やがて、片手を真っ直ぐに上げるとロンを指差した。当惑したような顔をしているロンのローブのポケットの辺りでは何かが・・・ブルブル動いている。リーマスはそれに気付くと、怪訝な顔で言葉を続けた。

「しかし、それなら……なぜ今まで正体を現さなかったんだ? もしかしたら――もしかしたら、あいつがそうだったのか……もしかしたら、君はあいつと入れ替わりになったのか……私に何も言わずに?」

 それはまるで自問自答するかのようだった。リーマスはシリウスをじっと見つめながら、自分の頭の中を整理するかのようにブツブツと呟いていたが、やがてピンときたようにそう言うと、シリウスから視線を外し、私を見て続けた。

「それに、“君”も知ってて私に黙っていたのか――」

 それは、どこか呆れたような、困り果てたような、それでいて戸惑っているような声だった。リーマスは目の前にいる鷲が、これまで満月の夜を一緒に過ごしていた鷲が、ただの鳥ではなかったことに、ようやく気付いたのだ。姿を現すならこれほどいいタイミングはなかった。

「私は君の親友が誰なのか、もっとよく考えるべきだった」

 リーマスの言葉を聞くなり、私は再び舞い上がった。そうして、リーマスとシリウスの周りをぐるりと一周して元の場所に戻ると、シリウスの傍らに降り立ち、ポンッと元の姿に戻った。首から提げたコインのペンダントとカメラが揺れ、レイブンクローのローブがヒラリと靡いている。そっと顔を上げると、ハリー、ロン、ハーマイオニーの3人が一斉に息を呑んだのが分かった。突然現れた私を愕然としたように見つめている。

 3人の姿を改めて見ると、みんながみんな、ボロボロだった。シリウスのように目立った痣はないけれど、ロンは足が折れているのか片足が変な方向に曲がっていたし、ハーマイオニーは肩や唇から、ハリーは頭から血を流していた。足元で倒れているシリウスの痣もひどいものだ。左目の周りなんて何をどうやったのか、既に黒く変色しているし、鼻血もひどい。

 ここは話をする前に、怪我を治した方がいいだろう。私はサッと杖を飛び出すと、まずシリウスに向けて「エピスキー」と唱えた。すると、目の周りの痣がみるみる消えていき、鼻血も止まったようだった。それから、ハリー達にも同じ呪文を掛けようと杖を向けたが、途端に、3人が怯えたように肩を震わせるのが分かった。怪我を治したいけれど、どうやら怖がらせてしまったらしい。

 攻撃する意思はないのだと示すために杖を下ろすと、リーマスがこちらに歩み寄ってくるのが分かった。リーマスはそばまでやってくると、シリウスの手を取って助け起こした。それまでシリウスの胸の上でシリウスのことを守ってくれていたクルックシャンクスがコロコロと床に転がり落ちていき、あ、と思った瞬間、私はシリウスと共にリーマスに抱き締められていた。

「2人共すまなかった。私のせいで――」

 リーマスは自分が狼人間だから私達に気を遣わせたのだと思ったのだろう。真っ先に口から飛び出したのは、謝罪の言葉だった。もしかすると、自分が狼人間でさえなければ協力出来たのに、と考えたのかもしれない。確かに私達はリーマスのことを想って何も言わなかったけれど、それがあったからこそ、リーマスは闇祓いオーラーから聴取を受けた際、真実薬を飲まされても共犯だと疑われずに済んだのだ。あの時、もし選択を間違っていたらと思うと、今でも恐ろしくなる。

「いいえ、リーマス。黙っていたのは私の方だもの。貴方にあえて言わなかった。それに、まずは彼らに話をしないといけないわ」

 私がそう言うと、リーマスは短く相槌を打って私達から離れるとハリーの方へと向き直った。そして、私の肩に手を置くと言う。

「ハリー、やっと君にも紹介すべき時が来たようだ」

 ハリーは何が何だか分からないという顔をしていた。戸惑ったような視線が私とリーマス、シリウスの間を行ったり来たりして、やがて、私の目を真っ直ぐに見返した。ジェームズと瓜二つなのに、目だけはリリーにそっくりだった。僅かに沈黙が流れたのち、リーマスが続けた。

「ハリー、彼女がそうだよ・・・・・・・

 それは、初めてリーマスと顔を合わせた時にジェームズが言ったのと同じ言葉だった。あの日、ジェームズは漏れ鍋にやって来たリーマスに「彼女がそうだよ」と私を紹介したのだ。そうして、最後にやって来たシリウスが、私がいることに驚いてすっ転んだのを3人でお腹を抱えて笑ったものだ。

 そういえば、ファーストネームで呼んでいいと言ってもらえたのもあの日だった。きっと、ジェームズ達と友達になった具体的な日付を上げるのなら、あの日に違いない。8月31日の夏休みの最後の日、マグルの街を魔法使い3人引き連れて大冒険して、笑い合って、時間を忘れるほど語り合ったからこそ、私達の距離はグッと縮まったのだ。とはいえ、ジェームズには「僕達出会った時から友達じゃないか」と言われてしまいそうだけれど。

「彼女が、私とシリウス、そして、君の父親であるジェームズの親友であり、君が常々気にしていた“レイブンクローの幽霊”だ」

 ハリーが私のことを驚愕の目で見つめていた。その後ろではハーマイオニーが口元を両手で覆っていて、ロンは目がこぼれ落ちそうなくらい見開いている。

「ハナ――」

 震える声で、ハリーが呟いた。声を出すのを忘れてしまったかのように奇妙に掠れている。

「君が――君が、レイブンクローの幽霊だった?」
「ええ、そうよ。貴方がそのあだ名を知っているなんて思わなかった」
「僕、間違って夜の闇ノクターン横丁に迷い込んだ時に聞いたんだ。ルシウス・マルフォイが随分前にレイブンクローの幽霊を捜している人から手紙を貰ったって話してて……それで……マルフォイも君はレイブンクローの幽霊の娘だろうって……マグル生まれだって嘘をついてるって……それから……」
「私がレイブンクローの幽霊とシリウス・ブラックの間に生まれた娘だと言われたのね? 父親がアズカバンにいるのを知られたくないから、マグル生まれだと嘘をついているとでも言われたのかしら?」

 ハリーの視線が一瞬シリウスに向いたことに気づいて私は言った。私もマルフォイにそのことを言われたことがあったので、ピンときたのだ。すると、ハリーは戸惑いながらも2、3度頷いた。

「許されるのなら、貴方達に私のすべてを話すわ」

 私はハリー、ロン、ハーマイオニーを順番に見ると告げた。

「私のことだけじゃなく、何もかも、すべてを」