The ghost of Ravenclaw - 202

22. 叫びの屋敷

――Harry――



「どいてくれ――」

 ブラックは自分の心臓の上に居座る猫と鷲の姿を見て、呻いた。それはまるで懇願しているかのようだった。けれども、ブラックが1匹と1羽を払い除けようとしても、どちらもブラックの服に爪を立て、頑として動こうとしなかった。クルックシャンクスの潰れたような醜い顔と、凛々しい顔つきの鷲が固い意志の籠った目でハリーを見上げている。

「“君”がこんなことをするべきじゃない」

 ブラックが苦虫を噛み潰したような声でそう言うと、鷲が一喝するように甲高い声でひと鳴きした。するとブラックは、クルックシャンクスを先に自分の上からどかそうとした。けれども、クルックシャンクスは益々ブラックの服に爪を立てるばかりで、やっぱり動こうとはしない。ブラックはどちらも動かないと分かると、自身に杖を向けて真上に突っ立っているハリーを見上げて言った。

「ハリー、“彼女”に危害を加えたら君は一生後悔するぞ……」

 「彼女」とはこの鷲のことだろうか。ハリーは固く杖を握り締めながら、鷲のヘーゼルの瞳を見返した。勇猛さをたたえたその瞳は、真っ直ぐにハリーを見て逸らさない。この鷲は、確かに賢く勇敢なのだろう。去年は秘密の部屋に行こうとするハリーにマートルの居場所を知らせてくれたし、今年度だって落下するハリーを助けようとしたり、ダンブルドアとファッジが死刑執行人を連れてやって来ているのを教えてくれたりもした。

 ただ、この鷲はハリーの見間違いでなければブラックとも親しかった。恐らく、逃亡中に出来たブラックの友達だったのだろう。ハッフルパフ戦では犬の姿のブラックと並んで観客席に座っているのをハリーは見かけたことがあったし、先日もクルックシャンクスと犬が連れ立って歩いているのを見る前、森から鷲が飛び立ったのをハリーははっきりと見た。

 けれども、分からないのは、どうしてブラックがこの鷲の命乞いをしたり、クルックシャンクスを守ろうとするような動きを取るのかということだった。ハリーの両親のことはあっさり裏切ったのに、どうして鷲と猫の命乞いをする必要がある? そんなの、あんまりじゃないだろうか。だってブラックは、ハリーの両親より鷲や猫の方が大切なのだ。

 ハリーは杖を構えた。もし、鷲と猫を殺すことになったとしても、それがどうだっていうんだ。こいつらは、結局のところ、ブラックとグルだった。今思えば、先程鷲が鳴いてダンブルドア達が来ているのを知らせたのだって、ブラックにハリーの位置を知らせるためだったのではないだろうか? ハリーが来るのを見張っていて、出てくるのを待っていたのだ。ハッフルパフ戦の時だって、助けようとしているように見えただけで、鷲はハリーが確実に死ぬよう見張っていたのではないだろうか。もし落下してハリーが即死しなくても、鋭い鉤爪で喉を切り裂けば一発だ。でも、出来なかった――ダンブルドアがいたからだ。

 やるなら今しかない。ハリーの杖を握る手に思わず力が籠った。今こそ、両親の仇を取る時だ。ブラックを殺してやる――もし、クルックシャンクスとこの鷲がブラックを守って死ぬ覚悟なら、勝手にそうすればいい。しかし、いざ実行しようとすると、ハリーは凍りついたように動けなくなった。声を出すことも、杖を振り上げることすら出来ない。ブラックを殺してやりたいと思うのに、これから自分のやろうとしていることがどこか恐ろしく、手が震えてくるようだった。

 屋敷の中は今や静まり返っていた。ベッドの辺りからロンの痛みにあえぐような息遣いが聞こえるだけで、ハーマイオニーはしんとしたままだ。時間だけがゆるゆると過ぎていき、そして、新たな物音がハリーの耳に届いた。床にこだまする、くぐもった足音だ。誰かが階下にいるらしい。

「ここよ!」

 ハーマイオニーが突然叫んだ。

「私達、上にいるわ――シリウス・ブラックよ――早く!」

 その声に驚いてブラックは慌てて身動ぎした。クルックシャンクスが振り落とされそうになり、鷲が舞い上がって扉とブラックの間で羽撃きながら空中で静止した。ブラックを背にしているその姿はまるで、ブラックの命を狙おうものなら真っ先に自分がやられようとしているかのようだった。

 ブラックを殺すならこれが最後のチャンスだ。ハリーはやるなら今しかないと反射的に杖をきつく握り締めた。今なら邪魔をしているのはクルックシャンクスだけだ。けれども、そうは思っても、ハリーはやっぱり出来なかった。やがて、階段をバタバタと上がってくる足音が聞こえ、そして、鷲が飛び込んできた時に開いたままになっていた扉から誰かが飛び込んできた。

 入ってきたのは、ルーピン先生だった。蒼白な顔で杖を構えて飛び込んできたルーピン先生は、後ろ手で扉を閉めながら、辺りを見渡した。ルーピン先生の目が、ベッドのそばに横たわるロンに移り、それから、壁際で竦み上がっているハーマイオニー、杖でブラックを捕らえて突っ立っているハリーとその下で血を流して倒れているブラック、最後にブラックを守るようにして空中で静止している鷲へと移った。そして、

「エクスペリアームス!」

 ルーピン先生が叫んだ。ハリーの杖がまたしても手を離れて飛び、ハーマイオニーが持っていた3本の杖も飛んで、ルーピン先生の手に収まった。そうして、ルーピン先生がブラックを見据えたままこちらに歩み寄ってくると、鷲が横たわるブラックの胸の上に戻り、先程振り落とされそうになっていたクルックシャンクスもその隣に体勢を立て直して座った。

 とうとうやらなかった――ハリーは急に襲ってきた虚無感にその場に立ち尽くした。殺してやりたいと思っていたのに、直前になって弱気になってしまった。両親の仇を取りたいと願っていたのに、出来なかった。ルーピン先生が来たとあればもうハリーはブラックを殺すことは出来ず、ブラックは吸魂鬼ディメンターに引き渡されるだろう。しかし、そうはならなかった。

「シリウス、あいつはどこだ?」

 ルーピン先生がそう言うのを聞いて、ハリーは何が起こっているのか、理解が出来なかった。どうしてルーピン先生がハリー達の杖を奪い、ブラックの味方のような行動を取ったのかも、「あいつ」とは誰のことを話しているのかも、ハリーには何もかも分からなかった。けれども、ブラックはなんのことだか理解しているようだった。数秒間の沈黙ののち、ブラックは片手を真っ直ぐに上げ、ロンを指した。ハリーがロンを見てみると、ロンは当惑したような顔をしていた。

「しかし、それなら……なぜ今まで正体を現さなかったんだ? もしかしたら――」

 当惑しているハリー達を無視して、ルーピン先生はブラックをじっと見つめたまま続けた。

「――もしかしたら、あいつがそうだったのか……もしかしたら、君はあいつと入れ替わりになったのか……私に何も言わずに? それに――」

 ルーピン先生が今度は鷲に視線を移した。

「それに、“君”も知ってて私に黙っていたのか――」

 それは、どこか呆れたような、困り果てたような、それでいて戸惑っているような声だった。ハリーはやっぱり何のことだかさっぱりわからなかったが、それでも、ルーピン先生がどうやら鷲のことを知っているらしいということは分かった。

「私は君の親友が誰なのか、もっとよく考えるべきだった」

 すると、ブラックの上から再び鷲が舞い上がった。鷲はルーピン先生とブラックの周りをスーッと一周したかと思うと、やがてブラックの傍らに降り立った。途端、場にそぐわないポンッという軽快な音が響き、次の瞬間、ハリーの目の前によく見知った人物が姿を現した。

 ハリーは混乱したままその光景を見つめた。何が起こっているのかまるで理解が出来なかった。現れた人物はサッと杖を取り出したかと思うと、ブラックに向けて「エピスキー」と唱え、あろうことか、ブラックの怪我を癒した。それから一瞬ハリー達に杖を向けようとしたが、ハリーが思わずビクリとすると、すぐに杖を下ろした。

『ハリー、“彼女”に危害を加えたら君は一生後悔するぞ……』

 つい先程ブラックから言われた言葉がハリーの頭の中でガンガン響いていた。ハリーはその場から動くことも口を開くことも出来なかった。どうして、「彼女」が――その言葉だけがハリーの頭の中でグルグルと渦巻いていた。どうして、ブラックを庇ったんだ。一歩間違えば、ハリーは「彼女」を殺すところだったのに。それに「彼女」はブラックを憎んでいたはずだ。ハリーは「彼女」がしかめっ面をして新聞を燃やしたり、手配写真を睨みつけているのを何度も見た。それなのに、一体、どうして――。

 ハリーだけでなく、ロンもハーマイオニーも目の前で起こったことに目を見開いて驚き、固まってしまっていた。そうしているうちにルーピン先生がブラックと目の前に姿を現した「彼女」の元へ歩いて行き、ブラックを助け起こし、そして、まるで生き別れた兄弟と再会を果たしたかのように、ブラックと「彼女」を抱き締めた。

「2人共すまなかった。私のせいで――」
「いいえ、リーマス。黙っていたのは私の方だもの。貴方にあえて言わなかった。それに、まずは彼らに話をしないといけないわ」
「ああ、そうだね――」

 「彼女」と言葉を交わすと、ルーピン先生がこちら振り向いた。そうして、静かに口を開いた。

「ハリー、やっと君にも紹介すべき時が来たようだ」

 ルーピン先生が「彼女」の肩に手を置いた。「彼女」はハリーを真っ直ぐに見つめている。ハリーもその目をただただ見返した。残酷なほどに美しいヘーゼルの目だ。

「ハリー、彼女がそうだよ・・・・・・・

 ハリーは自分の心臓がバクバクと脈打っているのが分かった。ルーピン先生の言葉の先を聞くのが恐ろしくて仕方なくて、背中に冷や汗が流れた。

「彼女が、私とシリウス、そして、君の父親であるジェームズの親友であり、君が常々気にしていた“レイブンクローの幽霊”だ」

 ハリーは何がなんだか、何を信じていいのか、一切分からなくなった。なぜならブラックのそばに立っていたのは、ルーピン先生が「レイブンクローの幽霊」だと紹介したのは、ハリーが先程まで杖を向けていたのは、

「ハナ――」

 ハリーが本物の家族だったらいいのにと乞い願っていた、嘗て、自分のことを絶対に裏切らないと話していたハナ・ミズマチ、その人だったのだから。