The ghost of Ravenclaw - 201

22. 叫びの屋敷

――Harry――



 シリウス・ブラックは獰猛な獣のような目をしていた。今にもハリーを殺してしまいたいと思っているような、そんな目だ。けれども、ブラックの顔は手配書で何度も見た顔とはまったく異なっていた。痩せこけてもないし、長く伸びた髪も汚れてなんかおらず、吸血鬼ヴァンパイアとも程遠い見た目をしている。むしろ、ハンサムで精悍な顔つきと言えた。

 けれども、ハリーには、それがブラックだとすぐに分かった。両親の結婚式の写真に写っているブラックと同じ顔をしていたからだ。自分の胸元にある写真を指さしてニヤリと笑っていた、あのブラックに瓜二つだ。目の前に立つ男は、まさにあれを10年ちょっと大人にした感じだった。

 これは一体どういうことだろう?
 ハリーは手配写真とのあまりの違いに戸惑いを隠せなかった。目の前にいるブラックはとても魔法省から逃げ回っていたようには見えない。それどころか、どこかの屋敷で悠々と過ごし、手厚くもてなされていたような気さえする。誰か協力者がいたのだろうか? でも、一体誰が――。

「エクスペリアームス!」

 あまりの情報量の多さにハリーが固まっていると、すかさずブラックが杖を振って唱えた。ハーマイオニーも不意をつかれたのか防御出来ず、ハリーとハーマイオニーの杖が2人の手から飛び出し、高々と宙を舞ってブラックの手に収まった。ブラックの手には他にもロンの杖が握られていたが、武装解除呪文を唱える時に使った杖はロンの杖ではなかった。

「君なら友を助けに来ると思った」

 ブラックがしっかりとハリーを見据えて言った。

「君の父親も私のためにそうしたに違いない。君は勇敢だ。先生の助けを求めなかった。有り難い……その方がずっと事は楽だ……」

 父親について言葉が、ハリーの耳にこだまして頭の中でガンガン響き渡った。よくも抜け抜けと、ハリーの父親が自分のために助けに来たに違いないなんて言えたものだ。それとも、父親が敵か味方かも判断がつかないような愚か者だとでも言いたいのだろうか。お前の父親はバカで間抜けで愚か者で、ブラックを信用したばかりに殺されたのだ、と。

 ハリーは胸の中で憎しみが爆発するかのようだった。今のこの手に杖があるのなら、身を守るためではなく、攻撃するために使いたかった。誰かを殺してしまいたいと思ったのは、初めてのことだった。あのダーズリーに対してすら、そこまでは思わなかったのに、ハリーは目の前の男が憎くて憎くて仕方がなかった。あいつが、ハリーの両親を裏切り、死なせたのだ。

 我を忘れて、ハリーはブラックに向かって殴りかかろうとした。杖がなくても関係ない。兎に角、何かしてやらなければ気が済まなかった。けれども、ハリーが身を乗り出そうとすると、両脇から2組の手が伸びてきて、ハリーをむんずと掴んで引き戻した。

「ハリー、ダメ!」
「ハリーを殺したいのなら、僕達も殺すことになるぞ!」

 ハーマイオニーは怯えたようなか細い声だったが、ロンは激しい口調だった。ブラックを睨みつけ、ハリーを守ろうと立ち上がろうとしている。けれども、一度足に力を入れようとすると折れたところに激痛が走り、ロンは益々血の気を失って、よろけた。

「座っていろ。足の怪我が余計ひどくなるぞ」

 ブラックがロンを一瞥して言った。

「ただでさえ、厄介なんだ。約束したというのに……」

 ブラックが誰と何を約束したのか、ハリーには分からなかった。ただ、ロンが怪我をしたのはかなり面倒だと思っていることは間違いなかった。面倒臭そうに溜息をつくブラックにロンが言い返した。

「聞こえなかったのか? 僕達3人を殺さなきゃならないんだぞ!」

 痛みで先程よりずっと弱々しい声だったが、それでもロンはなんとかハリーの肩にすがり、立っていようとした。ブラックがハリーに何かしようものならいつでもどこでも自分が飛び出せるんだぞ、とブラックに威嚇しているようだった。そんなロンの姿にブラックはニヤリと笑った。

「今夜殺すのは、1人だけだ」

 つまり、ハリーだけを殺すということだ。
 ハリーはそう考えたが、同時に奇妙な違和感を覚えた。あの凶悪殺人犯が1人だの2人だの殺人の人数を気にするだろうか。なんなら全員殺してしまおうとするはずなのに、足が折れたのが厄介だと気にしたり、1人だけ殺すと言ったのはなぜなのだろう。

「この前は、そんなことを気にしたりしなかったはずだろう? ペティグリューを殺るために、たくさんのマグルを無残に殺したんだろう? ……どうしたんだ。アズカバンで腰抜けになったのか?」

 思わず、ハリーは疑問を口にした。その挑発的な口調にハーマイオニーが哀願するように「ハリー、黙って!」と言ったが、ハリーは黙る気なんて微塵もなかった。なぜなら、こいつが、目の前のこの男こそが――。

「こいつが僕の父さんと母さんを殺したんだ!」

 ハリーは大声を上げると、ロンとハーマイオニーの手を振り解き、ブラック目掛けて跳びかかった。最早、杖のことも、自分が痩せて背の低い13歳であることも、相手のブラックが背の高い大人の男であることも忘れ果てていた。出来るだけブラックを痛めつけて、傷つけてやりたい。両親の仇を取ってやりたい。ただ、それだけだった。それで、どれだけ自分が傷つこうがどうでも良かった。

 まさか、魔法使いともあろう者が魔法のことを一切忘れて愚かな行為に出たことに驚いたのか、ブラックは杖を上げ遅れた。ハリーは片手でブラックの手首を掴み、捻って杖先を逸らせると、もう片方の手で拳を作り、ブラックの横顔を殴りつけた。反動でハリーもブラックも後ろに倒れ、壁に背中を強かに打った。

 ハーマイオニーは悲鳴を上げ、ロンは何やら喚いていたが、ハリーは無我夢中で2人が何と言っているのかさっぱり分からなかった。倒れた衝撃のせいか、それともブラックが何か呪文を使ったのか、ブラックが手にしていた4本の杖から火花が噴射し、目も眩むような閃光が走った。

 ハリーは間一髪のところで火花を避けると、ブラックの片腕にしがみついた。ブラックはハリーを振り解こうと激しくもがいていたが、ハリーは絶対に放さなかった。片手でガッチリとブラックの腕を抑え、ハリーはもう一方で手当たり次第殴り続けた。

 すると、ブラックが抑え付けられていない方の手をハリーに伸ばし、喉をとらえた。ハリーの顔のすぐ下で、ブラックの手首に巻かれた真紅の革製のブレスレットが揺れている。

我々・・はもう十分過ぎるほど待った――」

 ブラックが食いしばった歯の隙間から憎々しげに言った。ハリーはブラックの手を振り解こうと頭を激しく左右に振ったが、ブラックの手はなかなか離れない。それどころか指が首にグッとめり込んできて、ハリーは息が詰まり、呼吸が上手く出来なかった。このままでは危ない――ハリーがそう思った瞬間、ハーマイオニーがすっ飛んできて、ハリーの首を絞めるブラックの腕に思いっきり蹴りを入れるのが見えた。痛さに呻くブラックに解放されると、ハリーはどっと肺に流れ込んできた酸素に思わず咽込んだ。

 そうしている間にも、ロンがブラックの杖を持った腕に体当たりし、カタカタと杖が床に転がっていく微かな音がハリーの耳に届いた。ハッとしてハリーが自分の杖に飛びつこうとすると、今度は別の何かが大声を上げて飛び込んできた。クルックシャンクスだ。ハリーに杖を取らせまいとハリーの腕に爪を立て、あろうことか先にハリーの杖を奪おうと素早く身を翻して杖に向かっていく。

「取るな!」

 大声を上げながら蹴りを入れ、ハリーはクルックシャンクスが飛び退いた隙に自分の杖を掴み取った。そして、急いで振り返るとロンとハーマイオニーに向かって叫んだ。

「どいてくれ!」

 2人共、限界に近かった。ハーマイオニーは唇から血を流していたし、ロンは折れた足の痛みがこの乱闘でひどくなったのか、顔が真っ青だ。ハーマイオニーは、ハリーが杖を握り締めているのを見ると、息も絶え絶えに、残りの杖を引ったくり、急いで脇に避けた。ロンもなんとかベッドに這っていき、折れた足を両手でしっかり握っていた。そんなロンのローブのポケットでは、スキャバーズがガタガタ震えているのか小刻みに動いている。

 ブラックは壁際に仰向けで倒れていた。胸を激しく波打たせ、その度に首から下げられているコインのペンダントが上下した。ブレスレットもそうだが、ペンダントも誰かから奪ったものだろうか――ハリーはそう思いながら、ブラックに真っ直ぐ杖を向け、ゆっくり近づいた。

「ハリー、私を殺すのか?」

 ハリーの杖先が自らの心臓に向くのを見つめながら、ブラックが呟いた。ハリーはそんなブラックを見下ろす位置まで来ると、杖をブラックの心臓に向けたまま睨みつけた。ブラックの左目の周りが黒く痣になり、鼻血を流している。

「お前は僕の両親を殺した」

 ハリーの声は僅かに震えていたけれど、ブラックの心臓に向けた杖は微動だにしなかった。ブラックの薄灰色の目がそんなハリーを真っ直ぐに捉えている。

「否定はしない」

 ブラックが静かに口を開いた。

「しかし、君がすべてを知ったら――」
「すべて? お前は僕の両親をヴォルデモートに売った。それだけ知ればたくさんだ!」
「聞いてくれ」

 ブラックが焦ったように言った。

「聞かないと、君は後悔する……君には分かっていないんだ……」
「お前が思っているより、僕はたくさん知っている」

 ハリーの声はますます震えていた。けれども、それは決して恐怖からくるものではなかった。言いようのない怒りがハリーの中を駆け巡っていた。

「お前はあの声を聞いたことがないんだ。僕の母さんが……ヴォルデモートが僕を殺すのを止めようとして……。お前がやったんだ……お前が……」

 どちらも次の言葉を言わないうちに、何かオレンジ色のものがハリーのそばをさっと通り抜けたかと思うと、次の瞬間、バーン! と物凄い音を立てて扉が開いた。ハリーが驚いて視線を向けると、鷲が扉に体当たりして部屋に押し入り、こちらに向かって一直線に飛んでくるところだった。あの左の翼に青いラインのある鷲だ。きっと、助けにきてくれたに違いない。ハリーは一瞬そう思ったが、それはまったくの見当違いだった。

 ――一体どういうことだ?

  ハリーは目の前の光景が信じられなかった。なぜなら、クルックシャンクスとあの鷲が並んでブラックの胸の上に居座り、身を挺して守ろうとしていたからだ。他でもない、ハリーの両親を殺したブラックの命を――。