The ghost of Ravenclaw - 167

19. 早まった裁判



 悪いことはどうしてこうも重なるのだろうか。
 ハーマイオニーと一緒にハグリッドの小屋をあとにした私は、キリキリと悲鳴を上げている胃の辺りを撫でながらホグワーツの城内をレイブンクロー塔へ向けて急いでいた。これから必要な荷物をまとめて図書室に行くのである。バックビークの裁判が次の金曜日に早まったので、急がなければならない。

『父上が対策を練ってくださった。あいつは確実に敗訴になるだろう。しかし、僕が処刑の場に立ち会えないのは残念だ。父上は、僕がその場に居合わせない方がいいだろうと仰って、よしとはしなかった――』

 つい先日、図書室でマルフォイが話していたのはやはりこのことだったのだ。ある程度予想はしていたものの、実際に「6日後裁判をします」と言われてしまうとあまりの時間のなさに眩暈がするようだった。しかもハーマイオニーは大量の宿題を抱えているし、ハグリッドだってシリウスの件で警戒に当たったり、授業をしたり、動物達の世話なんかもある。実質時間があるのは私くらいなものだった。

 というわけで、あれから3人で相談し合った結果、バックビークの裁判の手伝いは、私がほとんど引き受けることになった。ハグリッドとハーマイオニーはとても申し訳なさそうにしていたけれど、今のところ私が一番動けるし、私が裁判の手伝いに入った方がそれぞれの負担が少ないのだ。それでもハーマイオニーはマグル学の宿題や他の科目の宿題が落ち着いたら、裁判の手伝いをすると意気込んでいた。

 裁判が早まったことは、ハリーとロンにはハグリッドがタイミングを見て伝えるかどうか決めると話していた。ハーマイオニーの前では言わなかったが、どうやらここ最近のハーマイオニーのあまりの様子に、ハグリッドも思うところがあるようだった。ハーマイオニーは今にも押し潰されそうになっているし、何度も泣いているところを目の当たりにしているので、何とかしてあげたいと思ったのだろう。私も伝えるならハグリッドからがいいだろうとこのことについては何も言わなかった。そもそも私はハーマイオニーとロンの件について、口出しする権利はないのだ。それを引き起こした原因は私にあるのだから。

「ブラックなんか早く捕まってしまえばいいのに」
「本当、いい迷惑だよな」
「ほら、見ろよ、この悪人面。吸血鬼ヴァンパイアみたいじゃないか」

 早めに宿題を済ませるというハーマイオニーと別れてレイブンクロー塔に急いでいると、そこら中からシリウスについての悪口が聞こえてきて、私はうんざりとした。これは仕方のないことだと分かっているものの、いつまで経っても慣れないままだった。果たしていつになったらこの状況から脱却出来るのだろう。ワームテールさえ捕まえることが出来れば事態は好転するだろうけれど、そもそも私達は正しい方向へと進めているのだろうか。

 もし私が変に関わったせいで来るべき未来が来ないということになったら、どうなるだろう。私は階段を上がり、廊下を進みながら大きく溜息をついた。古代ルーン文字学の最初の授業ルーン占いを行った時、思いがけず飛び出してきた逆位置の「ウィン」の結果のようになったら、どうなるだろう。私の存在が「失望や落胆などの不運な出来事」へとシリウスを導いていたら。

「……っ」

 考えれば考えるほど、胃の痛みと気持ち悪さが増して私はお腹を抑えながら片手で口元を覆った。早くレイブンクロー塔に戻って荷物を取り、図書室に行かなければならないのに、次第に足取りは重くなっていく。胃の痛みなんて、もう何ヶ月もあったけど、こんなにずーっと続くなんてことはなかった。

 なのにこれは一体どうしたというのだろう――私は足取り重く廊下を進んだ。今から医務室に行ってもいいけれど、こんな状況で医務室に行ったりなんかしたら、マダム・ポンフリーは私をベッドに押し込めるかもしれない。それで仮に入院なんかになったら何も出来なくなる。これから裁判の準備もあるし、夜にはシリウスのところへ必ず行かなければいけないから、そんなこと出来ない。

 一先ず、どこかで休んで、それから行動しよう。
 私はそう考えると、来た道を少しだけ戻って3階にあるマートルが棲み憑いている女子トイレに入った。扉を開けると途端にクリスマスの時にプレゼントしたリースの香りが飛び込んで来て、また気持ち悪さが増した気がしたけれど、あれから2ヶ月も経っていたので、リースの香りは当初に比べたらほとんど薄らいでいるように思えた。

「あーら、あんたなの」

 トイレに入り手洗い台の方へと歩み寄っていると、奥の個室からマートルがスーッと現れて言った。

「ハーイ、マートル……ちょっとだけ休ませて」
「それは構わないけど、あんた、どうしたの?」
「なんだか調子が悪いの。でも、大丈夫よ。いつも少ししたら戻るの……」

 そう言って、私は手洗い台の前に屈み込んだ。蛇口を見上げてみると、そこには蛇のような引っ掻いた跡が見えて、ちょうど秘密の部屋の入口の前なのだと分かった。

「あんた、それ、鏡を見てから言ってる?」

 ぼんやりと蛇の掘り込みを眺めているとマートルが訊ねた。その顔は不機嫌そうな顰めっ面である。のんびりしていただろうに邪魔をしてしまったのかもしれない。私は返事を返そうと口を開きかけたが、私が何か言う前にマートルが続けた。

「あんた、顔が真っ青よ。ゴーストもビックリの」

 マートルは私の周りを行ったり来たりして顔を覗き込みながら言った。

「一体どうしだっていうの? 誰か呼んだ方がいいんじゃない? ハリーはどう? 知らないだろうけど、私、配管の中を移動したりも出来るの――」
「ダメ!」

 今度こそ私は口を開いた。私の声がトイレに反響して、マートルは驚いたように目を丸くした。

「ハリーはダメ! ロンもハーマイオニーも……」
「あら、喧嘩でもしたの?」
「そんなんじゃないわ……でも、どうしてもダメなの」
「まったく我儘ね。じゃあ、そこでしばらく休んでるといいわ。私、ちょっと出掛けてくるから」

 マートルはそう言うと、私の相手に飽きたのか、フーッと奥の個室に戻って行ってトイレに飛び込んで姿を消した。もしかすると気を遣ってくれて1人にしてくれたのかもしれない。配管の中を移動出来ると言っていたけど、普段はああやってあちこち出掛けたりしているのだろうか。

 何はともあれ、今度お礼をしなければならないだろう。私はそう思いつつ、胃の痛みが引くのを待った。胃の痛みさえ引けば大丈夫なはずなのだ。吐き気もあるけれど、それはどうにか我慢出来るだろう。治ったら寮に戻って、それから荷物を取って、図書室に行く前に医務室に寄ろう。マートルが顔が真っ青だと言っていたけど、胃の痛みが引けばきっとそれも元に戻るはずだ。顔色さえ良ければ、マダム・ポンフリーもただの軽い腹痛だと判断して、ベッドに押し込めることはしないだろう。

 しかし、待てど暮らせど、胃の痛みが引くことはなかった。それどころか屈み込んだ状態から一歩たりとも動けなくなって、そのうち蛇の掘り込みを眺めるのもやめて、私は自分の膝に顔を埋めた。そうでもしないと吐いてしまいそうだった。呼吸も荒く、上手く息を吸えていない気さえしてきて、それでも私は息苦しさをなんとか堪えた。そうして、数十分も経ったと思うころ、奥の個室でゴポッと水の中から空気が漏れ出るような音が聞こえた。マートルが戻ってきたのかもしれない。個室から出てきたマートルが私の頭上で何か話して、そして、

「ハナ!」

 扉が勢いよく開いて、誰かが女子トイレに飛び込んで来た。女の子ではない――男の子だ。その人は慌ててこちらに駆け寄ってくると、私の隣に屈み込んだ。その瞬間、甘く爽やかな香りが鼻腔を擽って、私はその人が誰なのか分かった気がした。セドリックが来てくれたのだ。なんとか縋るようにセドリックの服を握り締めると、セドリックはその手をぎゅっと握り締めてくれた。マートルが呼んで来てくれたのだろうか。

「セド……」

 絞り出した声は思った以上に弱々しかった。反対にセドリックの声は落ち着いていて、「大丈夫だよ。ゆっくり呼吸して」と背中を撫でてくれた。その手はあくまでもゆっくりで、その動きに合わせて呼吸すると、ようやく息苦しさが軽減したような気がした。

「ありがとう……ごめんなさい……」

 しばらくして、呼吸が落ち着いてくると申し訳なさでいっぱいになって、私は言った。今日だって自分の予定があっただろうに、セドリックは何も気にした様子を見せず「いいんだ」と微笑んだ。

「それより、ハナ、医務室に行こう」
「ダメ――私、やらなくちゃいけないことがたくさんあるの。例の裁判が早まったし、彼にも会いに行かなくちゃいけないし――」

 このままでは確実に入院だ。私はやることがたくさんあるし、こんな大事な時にのんびり医務室で寝ている訳にはいかないのだ。首を横に振ると、セドリックは僅かに眉根を寄せた。

「悪いけど、今回ばかりはダメだ」

 きっぱりとした口調でそう言うと、セドリックは一言断りを入れてからサッと私の背中と膝裏に手を回して抱え上げた。突然襲ってきた浮遊感に思わずセドリックの胸元を掴むと、彼はこちらを見て満足気に微笑んだ。

「いい子だから、そのままじっとしてて」

 私は口をパクパクさせながら、セドリックの顔を見上げた。下ろして、と言いたかったのにどうしてだか声が出てこなくて、代わりに興奮したように「オォォォォォゥ!」と叫ぶマートルの声がトイレに響き渡った。

「それじゃあ、マートル、教えてくれてありがとう」
「あーら、いいのよ。ごゆっくり」

 されるがままに、私はセドリックに抱えられたまま女子トイレをあとにした。女子トイレの扉が閉まる瞬間見えたのは、なんだかやり切った顔でこちらに手を振るマートルの姿だった。