The ghost of Ravenclaw - 155

17. いなくなったスキャバーズ

――Harry――



 バタービールを飲み終えると、ハリーは心底憂鬱な気分で魔法史の教室をあとにした。原因はレイブンクローの幽霊についてルーピン先生があまり答えてくれなかったからではなく、その直後にハリーがしてしまったもう1つの質問にあった。実はあのあと、「吸魂鬼ディメンターのフードの下には何があるのか」とハリーは先生に質問したのだ。これが、よくなかった。

 いつでも黒いフードにすっぽりと覆われている吸魂鬼ディメンターの素顔を知る人はほとんど誰もいない。なぜなら、吸魂鬼ディメンターがフードを取る時は、最後の最悪の武器を使う時で、本当のことを知っている人達はみんな、もう口が利けない状態になっているからだ。

 吸魂鬼ディメンターの最後の最悪の武器は「吸魂鬼ディメンター接吻キス」と呼ばれている。彼らは徹底的に破滅させたい者に対してこれを実行し、獲物の口を自らの顎で挟み込み、魂を吸い取ってしまう。魂を吸い取られた者は、脳や心臓が動いていればまだ生きていられるが、最早自分が誰なのか分からなくなるという。記憶もなく、回復の見込みもない。魂は永遠に戻らず、ただ、空っぽの抜け殻が残るだけ――それは、殺されるよりももっと惨いことだと言えた。

 そして、これがシリウス・ブラックの待ち受ける運命だ。つい最近、魔法省が吸魂鬼ディメンターに対して、接吻キスを執行する許可を出したと予言者新聞に載ったのだ。ハリーは当然の報いだと思いつつも、魂を口から吸い取られると考えただけで気が滅入る思いがした。それは、どんなに恐ろしいものなのだろう。でも、幸福な気分を吸い取られるよりもっとひどいに違いない。

 暗い廊下を歩きながら、ハリーは吸魂鬼ディメンターのフードの下のことばかり考えていた。その直前に聞いたばかりのレイブンクローの幽霊のことは頭の隅に追いやられ、よせばいいのについ魂を吸い取られる瞬間を想像してしまっては、更に気分を重くした。すると、

「ポッター、どこを見て歩いているんですか!」

 階段の途中でうっかりマクゴナガル先生にぶつかってしまい、ハリーは足を止めた。

「すみません、先生」

 ハリーは俯いたまま謝罪した。吸魂鬼ディメンターに魂を吸い取られる気が滅入るような想像に没頭していましたなどとは、口が裂けても言えなかった。

「グリフィンドールの談話室に、貴方を探しにいってきたところです」

 マクゴナガル先生は仕方ないとばかりに溜息を1つ零すと、声のトーンを和らげて言った。見れば、その手に何か大きなものを持っている。

「さあ、受け取りなさい。わたくし達に考えつく限りのことはやってみましたが、どこもおかしなところはないようです――どうやら、ポッター、貴方はどこかによい友達をお持ちのようね……」

 マクゴナガル先生が持っていたのは、ファイアボルトだった。それをハリーの方へと差し出している。これまでどうなったのかと何度となく経過を訊ねても返せないの一点張りだったのに、それをハリーに返してくれるという。ハリーは先程までの憂鬱な気分をすっかり忘れ、ポカンと口を開けた。そんなハリーにマクゴナガル先生はニッコリ微笑んでいる。

「多分、土曜日の試合までに乗り心地を試す必要があるでしょう? それに、ポッター――頑張って、勝つんですよ。いいですね? さもないと、わが寮は8年連続で優勝戦から脱落となります。つい昨夜、スネイプ先生が、ご親切にもそのことを思い出させてくださいましたしね……」

 ハリーは嬉しさのあまり言葉も出ず、ファイアボルトを抱えるとグリフィンドール塔へと階段を駆け上がった。そうして廊下の角を曲がった時、反対側から満面の笑みのロンがこちらに全速力で走ってくるのが見えた。マクゴナガル先生が先程談話室に行ったと話していたので、その時にファイアボルトが戻ってくることを知ったに違いない。

「マクゴナガルがそれを君に? 最高! ねえ、僕、一度乗ってみてもいい? 明日?」

 ハリーはもうなんだっていい気分だった。なにせ、あのファイアボルトが戻って来たのだ。しかも、没収される前と寸分違わぬ姿で、だ。けれども1つだけきちんとしなければならないことがある――ハーマイオニーと仲直りすることだ。ハーマイオニーはハリーのことを考えて行動してくれたのだ。ファイアボルトが無事に戻って来たのだから、口を利かなくなったことを謝罪しなければならない。

 ハーマイオニーと仲直りすることを決め、ハリーとロンは2人でグリフィンドール塔へと戻った。そしてまたいくつかの階段を上がり、グリフィンドール塔に続く廊下に辿り着くと、そこにネビル・ロングボトムの姿があった。何やらカドガン卿に向かって、寮に入れてくれるよう、必死に頼み込んでいる。

「書き留めておいたんだよ」

 ネビルがカドガン卿に向かって涙声で訴えている。

「でも、それをどっかに落としちゃったに違いないんだ!」

 しかし、いくらカドガン卿とはいえ、相手はグリフィンドール寮の門番代理だ。合言葉を忘れてしまったネビルを入れてくれるはずもなく、どんなにネビルが頼み込んでも頑なに扉を開くのを固辞した。ネビルはほとほと困り果て、ハリーとロンが近付いていることに気付くと情けなさそうに言った。

「僕、合言葉を失くしちゃったの! 今週どんな合言葉を使うのか、この人に教えて貰ってみんな書いておいたの。だって、どんどん変えるんだもの。なのに、メモをどうしたのか、分からなくなっちゃった!」

 泣きべそをかいているネビルの代わりにハリーが合言葉を唱え、3人は談話室へと入った。すると、みんなが一斉にハリー達の方を振り向き、一瞬にしてざわめきが広がった。気付けば、次から次にハリーの周りに談話室中のグリフィンドール生達が集まり、誰もがファイアボルトに夢中となった。いろんな人の手から手へとファイアボルトが渡され、誉めそやされ、再びハリーの手元に戻ってきたのは10分後のことだった。

 再びファイアボルトが手元に戻り、みんなが落ち着きを取り戻してハリーから離れていくと、ハリーとロンはこの騒ぎの中たった1人勉強を続けていたハーマイオニーの元へと向かった。ハーマイオニーはテーブルの上にたくさんの本や羊皮紙を積み上げ、その中に埋もれるようにして勉強をしている。

「返してもらったんだ」

 ハリーはニッコリして報告した。

「言っただろう? ハーマイオニー。なーんにも変なことはなかったんだ!」

 今度はロンが言った。

「あら――あったかもしれないじゃない! つまり、少なくとも、安全だってことが今は分かった訳でしょ!」

 ロンの言い方が癇に障ったのか、ハーマイオニーがピリピリしながら言い返した。このところハーマイオニーはこんな調子で、誰が話しかけてもイライラしているのだ。けれども、ファイアボルトが手元にある今、どんなにハーマイオニーがピリピリしていようとも、ハリーはちっとも気にならなかった。この素晴らしい最高級の競技用箒が、正真正銘ハリーのものになったのだ。

 それから、ファイアボルトを寝室に持っていくことになると、スキャバーズにネズミ栄養ドリンクを飲ませなければならないとロンが代わりに持っていってくれることになった。ファイアボルトをまるでガラス細工のように抱えてロンが談話室をあとにすると、ハリーはハーマイオニーに断りを入れ、近くにあった椅子の上に置かれた羊皮紙の山をどかし、そこに腰掛けた。

 ハーマイオニーが使っているテーブルはかなり散らかっていた。様々な科目の宿題に使う教科書や参考書、羊皮紙なんかが所狭しと置かれている。終わっているのは数占いとマグル学のレポートで、どちらもとんでもなく長くなっていた。生乾きなのか、インクが艶やかに光っている。今は古代ルーン文字学のレポートに取り掛かっているらしく、見慣れない記号だらけの本を片手に格闘していた。

「こんなにたくさん、一体どうやって出来るの?」

 マグル学のレポートを覗き込んでハリーが訊ねた。タイトルは「マグルはなぜ電気を必要とするか説明せよ」だ。とんでもなく長い羊皮紙が細かな字でびっしりと埋め尽くされている。

「え、ああ――そりゃ――一所懸命やるだけよ」

 なんだか疲れた声でハーマイオニーが答えた。久し振りに面と向かって言葉を交わしてみると、ハーマイオニーはルーピン先生と同じくらい顔色も冴えず、疲れて見えた。

「数占いって大変そうだね」

 そばに複雑そうな数表が置いてあることに気付いてハリーは言った。それを見てみても、ハリーにはそれが何を示しているのかさっぱり理解が出来なかった。

「あら、そんなことないわ。素晴らしいのよ!」

 ハーマイオニーは熱を込めて答えた。

「私の好きな科目なの。それに、ハナもセドリックも好きだって言ってたわ」

 しかし、数占い学のどこが素晴らしいのか、ハリーは聞くことが出来ずに終わった。ハーマイオニーが続きを話そうと口を開いた途端、男子寮の方から叫び声が聞こえてきたからだ。賑やかだった談話室が一斉にしんとなり、みんなが階段の方に注目した。やがて、荒々しく階段を下りてくる足音が聞こえ、そして、

「見ろ!」

 怒り狂ったロンが談話室に飛び込んできた。どうしてだか手にはベッドシーツが握られている。何があったのだろうかとハリーとハーマイオニーが考えていると、真っ直ぐにハーマイオニーの目の前まで来たロンが、その手に握っていたベッドシーツを突き出した。

「見ろよ!」

 一体何があったのか分からず、ハーマイオニーは呆然としたまま仰け反った。そんなハーマイオニーの目の前でカンカンになったロンがベッドシーツを振り回している。

「スキャバーズが! 見ろ! スキャバーズが!」

  ハリーは戸惑いながらもロンの掴んでいるシーツを見下ろした。何か赤いものがついている。まるで、血のような赤い染みだ。

「血だ!」

 ロンが叫んだ。

「スキャバーズがいなくなった! それで、床に何があったか分かるか?」
「い、いいえ……」

 ロンのあまりの剣幕にハーマイオニーは顔を真っ青にして震えていた。そんなハーマイオニーを睨みつけると、ロンがテーブルの上に何かを投げつけた。

 それはどう見たってオレンジ色の猫の毛だった。