The ghost of Ravenclaw - 153

17. いなくなったスキャバーズ

――Harry――



 吸魂鬼ディメンターに有効な防衛術は、「守護霊の呪文」と呼ばれるものだった。O.W.L試験のレベルを遥かに超えるほどの高度な呪文で、大人の魔法族でも使える人は限られるのだという。

 守護霊の呪文は、呪文が上手く効けば「守護霊」と呼ばれる吸魂鬼ディメンターを祓い、術者を保護してくれる存在を出現させることが出来る。この守護霊が吸魂鬼ディメンターとの間で盾の役割を担ってくれるのだ。ハリーはそれを聞いた時、なんとなくハグリッドくらい大きな守護霊が棍棒を持って立っている姿を思い浮かべたが、実際には1人1人違う姿をしているらしい。

 呪文は「エクスペクト・パトローナム」だ。
 ただ、この呪文を唱えるのがとんでもなく大変だった。呪文を唱える時に何か1つ幸せだった想い出を渾身の力で思いつめなければならないからだ。これは今まで授業で習ってきたどの呪文の唱え方とも違うものだった。しかも、何が起こっても集中力を欠かないくらいの幸せでなければ、守護霊は形を作らないどころか、まったく呪文が発動しないこともあるらしい。十分なものでなければ、吸魂鬼ディメンターを前にすると、途端に集中力が途切れてしまうからだ。

 ハリーは最初に、初めて箒に乗った瞬間のことを思い浮かべた。体を突き抜けるような、あの素晴らしい飛翔感はハリーが感じた最初の幸福感だと言っても過言ではない。なにせそれまで――少なくともハグリッドが現れるまで――ハリーはダーズリー家の中で幸せもいうものを感じたことがなかったのだから。

 それからまず、ボガートを相手にする前に一度呪文を試してみることになった。すると、ハリーの杖先からシューッと銀色の煙のようなものが飛び出した。そこで、早速ボガートを相手にすることになったが、いざボガートを目の前にすると途端にダメになった。トランクの中から現れたボガートが、ゆらりと吸魂鬼ディメンターの姿になった途端、恐ろしくて、とてもじゃないけれど幸せな出来事に集中出来なかったからだ。母親の声がより一層ハリーの頭の中で響き、ハリーはまたしても深い霧の中に落ちてしまった。

 2度目は別の幸福な思い出を思い浮かべた。去年、グリフィンドールが寮対抗杯に優勝した時の記憶だ。あんなに素晴らしい夜はまたとない――ハリーは今度こそと頭の中をグリフィンドールの優勝でいっぱいにしようと努めた。トランクが開いたら何かが起こるという暗い気分は棄て去った。

 しかし、再びトランクが開き、吸魂鬼ディメンターの姿をしたボガートが現れると、ひどい冷気がハリーの全身を襲った。部屋が暗くなって、白い霧がハリーの感覚を朦朧とさせ、そして、ぼんやりとした大きな姿が、いくつもハリーの周りを動いているのを感じた。ハリーの頭の中にまた声が響く。

「リリー、ハリーを連れて逃げろ!」

 今度は初めて聞く男の人の声がした。引き攣った声で叫んでいる。

「あいつだ! 行くんだ! 早く! 僕が食い止める。今度こそ・・・・あいつの好きにはさせない――」

 それから、誰かがよろめきながら部屋から出ていく音がして、扉が轟音共に壊れる音がして、それから――。

「ハリー! ハリー……しっかりしろ……」

 頬を叩かれる感覚がして、ハリーは意識を取り戻した。ハリーはどういう訳か埃っぽい床の上に倒れていて、ルーピン先生がそんなハリーの頬をピシャピシャと叩いている。一体どうしてこんな状況になっているのか、ハリーは思い出すのに時間が掛かった。そうだ、守護霊の呪文を練習していて、そして、

「父さんの声が聞こえた」

 ほとんど無意識にハリーは呟いた。

「父さんの声は初めて聞いた――母さんが逃げる時間を作るのに、独りでヴォルデモートと対決しようとしたんだ。“今度こそあいつの好きにはさせない”って言ってた……」

 新たな声の正体に気付いた途端、ハリーは冷や汗と共に涙が零れるが分かった。けれども、泣いていることをルーピン先生に知られたくなくて、ハリーは靴紐を結び直すフリをしてこっそりローブの袖口で涙を拭った。すると、ハリーの呟きに先生が驚いたように訊ねた。

「ジェームズの声を聞いた?」

 ルーピン先生の声には、不思議な響きがあった。どこか友達を呼ぶ時のような親しみと懐かしみと悲しみが入り混じった、そんな声だ。先生がハリーの父親と知り合いだなんて聞いたことがないのに、どうしてだろう。ハリーは疑問に思いつつ訊ねた。

「ええ……。でも――先生は僕の父をご存知ない。でしょう?」
「わ――私は――実は知っている」

 ルーピン先生は言葉に詰まりつつ答えた。

「ホグワーツでは友達だった」

 それは、意外な答えだった。なんと、ルーピン先生はハリーの父親と友達だったというのだ。しかし、ハリーがそのことについてあれこれ考え続ける時間はなかった。先生がすっかり肩を落として「今夜はこのぐらいでやめよう」と言い出したからだ。

「この呪文はとてつもなく高度だ……言うんじゃなかった。君にこんなことをさせるなんて……」
「違います!」

 ハリーは慌てて訴えた。

「僕、もう一度やってみます! 僕の考えたことは、十分に幸せなことじゃなかったんです。きっとそうです……ちょっと待って……」

 ハリーはもう一度、他に幸せな思い出がないかと考えた。吸魂鬼ディメンターを目の前にしても集中していられるような、しっかりした強い守護霊を生み出せるような、そんな思い出を――。

 そしてハリーは初めて自分が魔法使いだと知った時のことを思い浮かべることにした。ダーズリー家を離れてグワーツに行くと分かった時が幸せでないと言うのなら、何が幸せだと言えるだろう。居場所なんてなかったプリベット通りから離れると分かった時の気持ちに全神経を集中させ、ハリーはもう一度吸魂鬼ディメンターの姿になったボガートと対峙した。

「エクスペクト・パトローナム!」

 ハリーは目いっぱい呪文を唱えた。

「エクスペクト・パトローナム!」

 そして、3度目にしてようやく僅かな成果が現れた。今回もやっぱり母親の悲鳴が聞こえはしたが、ノイズが掛かったようになり、ハリーは気を失うことなく立っていられたのだ。杖先から大きな銀色の影が飛び出してきて、ハリーを守るように吸魂鬼ディメンターの前に立ち塞がると、吸魂鬼ディメンターはハリーの方へ近付くことは出来なかった。

「リディクラス!」

 やがて、ハリーの足の感覚がなくなり、もう立っているのがやっとだと思いはじめたころ、ルーピン先生が飛び出してきて、吸魂鬼ディメンター・ボガートを追い払った。先生が目の前に現れるとボガートは一瞬、銀色の丸い玉に変身し、バチンと大きな音と共に消え失せた。

 次の瞬間、どっと疲れが押し寄せてきて、ハリーは椅子に崩れ落ちた。もう何キロも走り続けたあとかのように足はガクガク震え、とても立っていられない状態だった。呼吸も浅く、荒くなっていて、冷や汗が背中を伝っている。でも、気を失わなかった――。僕は立っていられた――。

「よくやった!」

 ボガートをトランクの中に押し戻すと、へたり込んでいるハリーのところへ、ルーピン先生が寄ってきた。

「よく出来たよ、ハリー! 立派なスタートだ!」
「もう一回やってもいいですか? もう一度だけ?」

 ハリーは今の感覚を忘れたくなくて、もう一度やってみたかったが、ルーピン先生は4度目の許可は出さなかった。先生は「一晩にしては十分過ぎるほどだ」とハリーを褒め、ハニーデュークスの大きな最高級チョコレートを1つハリーにくれた。

「ハナがクリスマスにくれたんだ。全部食べなさい。そうしないと、私はマダム・ポンフリーにこっぴどくお仕置きされてしまう。来週、また同じ時間でいいかな?」
「はい」

 渡されたチョコレートを齧りながら、ハリーは頷いた。チョコレートは滑らかな舌触りで、一口齧ると舌の上であっという間にとろけた。その間にルーピン先生は教室のランプを消し、片付けを始めている。

「ルーピン先生?」

 不意にあることを思いついて、ハリーは呼びかけた。

「僕の父をご存知なら、シリウス・ブラックのこともご存知なのでしょう」

 そう、先程の話を思い出したのだ。先程は訓練をやめると言われて聞けなかったが、訊ねるならこのタイミングしかなかった。すると、ルーピン先生はギクリとしてハリーを振り返った。

「どうしてそう思うんだね?」

 その口調はなんだか強張っている。

「別に――ただ、僕、父とブラックがホグワーツで友達だったって知ってるだけです」
「ああ――」

 ルーピン先生の表情がホッとしたように和らいだ。

「知っていた――。知っていると思っていた、と言うべきかな。ハリー、もう帰った方がいい。大分遅くなった」

 一体それはどういう意味なのだろう? ハリーはそんな風に思ったが、ルーピン先生にきっぱりとした口調で帰るよう告げられると、渋々魔法史の教室を出た。もしかすると、ブラックのことは聞かない方が良かったのかもしれない。ルーピン先生は明らかその話題を避けていたし、きっと話したくなかったのだ。

 でも、ハリーは許されるのなら、もう1つ質問をしてみたかった。あの「レイブンクローの幽霊」についてだ。ルーピン先生がハリーの父親やブラックを知っていたというのなら、もしかしたら「レイブンクローの幽霊」の正体を知っているかもしれないと思ったのだ。ブラックのことは話したくないかもしれないけど、「レイブンクローの幽霊」がブラックと恋仲だったのかや、ハナと関係があるかどうかくらいは教えてくれるかもしれない――けど、ブラックの話の直後では先生はこの話をしたがらないだろう。

 ハリーは廊下に出ると、甲冑の影に腰掛けて、チョコレートの残りを食べた。精神的に疲れ果て、どんなにチョコレートを食べて心が晴れなかった。「レイブンクローの幽霊」のことが気になってモヤモヤするし、更には両親の最期の声を何度も繰り返し聞かされるので、かなり気が滅入っていた。けれども、今となっては、その恐ろしい最期の声すら、聞いていたいとハリーは思い始めていた。なぜなら、その時だけが、ハリーが両親の声を聞く唯一のチャンスだからだ。こんなことでは、きちんとした守護霊など到底無理というものだ。

「2人共、死んだんだ」

 ハリーは自分に言い聞かせた。

「死んだんだ。2人の声のこだまを聞いたからって、父さんも、母さんも帰ってはこない。クィディッチ優勝杯がほしいなら、ハリー、しっかりしろ」

 チョコレートを食べ終えて立ち上がり、グリフィンドール塔へと戻りながら、ハリーはハナが訓練に参加しなかったことを有り難く思った。こんな姿を見せたら、ハナはハリーのことを弱虫だと見損なうかもしれない――けれど、一方でハリーはハナに慰められたいとも思っていた。背中を撫でてもらいながら「大丈夫よ、ハリー。貴方ならきっと出来るわ」と励まして貰えたら、どんなにいいだろう。

 その感情は、恋とも、友情とも違う、ハリーが他の誰にも感じたことのない種類の感情だった。知り合ったころからそうだったが、ハリーはどうしてだかハナに対して他の人とは違う感覚があった。ハリーにとってハナはいつでも、親友であり、姉のようなものだった。ダドリーではなく、ハナがいとこだったらと想像したこともあったし、本当にお姉さんだったらどんなにいいかと思ったことは数知れない。

「どんな秘密があったっていいから、ハナが僕の本当の家族だったら良かったのに……」

 ハリーのその呟きは、暗い夜の廊下に吸い込まれ、誰にも聞かれることなく、消えていった。