The ghost of Ravenclaw - 107

13. はじめての敗北

――Harry――



「――地面が柔らかくてラッキーだった」
「絶対死んだと思ったわ」
「それなのに眼鏡さえ割れなかった」

 複数人が囁き合っている声が聞こえて、ハリーは突然意識を取り戻した。どれもこれも聞き覚えのある声で何事か話しているが、一体全体何が起こったのか、ハリーはさっぱり分からなかった。唯一分かることといえば、全身が打ちのめされたかのように痛いことだけだったが、どうして痛むのかすらハリーはすぐには思い出せなかった。しかし、

「こんなに怖いもの、これまで見たことがないよ」

 誰かがそういうのが聞こえるとハリーは頭の中に自分の恐ろしいものの姿が一気に押し寄せてくるのを感じた。怖い……一番怖いもの……フードを被った黒い姿……冷たい……叫び声……。

「ハリー!」

 パチリと目を開けるとそこは医務室のベッドの上だった。そのベッドの周りを頭のてっぺんから爪先までずぶ濡れの泥だらけになったグリフィンドール・チームのチームメイト達やたった今プールから出てきたばかりだと言わんばかりの姿のロン、ハーマイオニー、それにハナが取り囲んでいる。

「ハリー、気分はどうだ?」

 珍しく真っ青な顔でフレッドが訊ねてきて、ハリーはようやく気を失う直前、何が起こったのかを思い出した。稲光でスタンドが照らされて、死神犬グリムの姿が見えた気がして気を取られていたら、セドリックがスニッチを見つけてハリーも少し遅れて追いかけた。でも、競技場に吸魂鬼ディメンターが押し寄せて――そうだ、そうだった。でも、自分はどうなったんだろう? 試合は?

「どうなったの?」

 ハリーはハッとして、勢いよく上体を起こすとチームメイト達に訊ねた。あまりにも勢いよく起き上がったので驚いた表情をしつつもフレッドが代表して、ハリーの身に何が起こったのかを話してくれた。なんと20メートルの高さから地面に落ちたらしい。ハリーはそこでようやく全身が痛む理由も、最初に聞こえた囁き声の意味もみんなが真っ青になっている理由も理解出来た気がした。アリシアはハリーが死んだと思ったと震えていたし、ハーマイオニーは目が真っ赤に充血している。ハナも真っ青になったままハリーを見つめて震えていた。

「でも、試合は……試合はどうなったの? やり直しなの?」

 そうであって欲しいと思いながらハリーは訊ねた。けれども、誰も質問に答えない。ハリーはフレッド、ジョージ、アンジェリーナ、アリシア、ケイティと順番に見ていった。誰も彼もが暗い顔をして言いづらそうにハリーから視線を背けている。まさか――ハリーの中に恐ろしい事実が浮かび上がって、胸の奥底にズシンと沈み込んだ。

「僕達、まさか――負けた?」

 どうか間違いであって欲しい。ハリーはそう願いつつ訊ねたが、返ってきた言葉は「セドリックがスニッチを取った」という肯定の言葉だった。つまり、グリフィンドールは負けたのだ。ハリーが落ちたその瞬間、事態に気付いていなかったセドリックがスニッチを取ったのだ。

「何が起こったのか、あいつは気が付かなかったんだ」

 気遣わしげにジョージが言った。

「振り返って君が地面に落ちているのを見て、ディゴリーは試合中止にしようとした。やり直しを望んだんだ。でも、向こうが勝ったんだ。フェアにクリーンに……ウッドでさえ認めたよ」

 ウッドは試合に負けたことがショックでずっとシャワー室に篭りっぱなしだという。「溺死するつもりだぜ」とフレッドがなるべく明るい口調を取り繕ったが、いつものキレはなく、ますますハリーを落ち込ませるだけだった。なぜなら、これがハリーにとって初めての敗北だったからだ。これまで、ハリーが出た試合ではたったの一度も負けたことがなかった。それなのに初めて負けたのだ。

「落ち込むなよ、ハリー。これまで一度だってスニッチを逃したことはないんだ」
「一度ぐらい取れないことがあって当然さ」
「これでおしまいってわけじゃない」

 フレッドとジョージが代わる代わるハリーを慰め、励まそうとしたが、どれも効果がなかった。今回グリフィンドールは100点差で負けた。そのグリフィンドールが優勝杯を手にするためにはハッフルパフが少なくともレイブンクローにぺしゃんこにされる必要があったし、グリフィンドールはレイブンクローとスリザリンをぺしゃんこにする必要があった。吸魂鬼ディメンターのこともあるのに果たしてそんなことが可能なのか、ハリーはすっかり自信を失ってしまっていた。

「また見舞いにくるからな。ハリー、自分を責めるなよ。君は今でもチーム始まって以来の最高のシーカーさ」

 10分後、校医のマダム・ポンフリーがハリーの安静のために出ていくように命じると、フレッドとジョージは最後の励ましの言葉を投げ掛けてから他のチームメイト達と共にゾロゾロと医務室から出て行った。チームメイト達が歩いて行ったあとには泥の筋が残って、マダム・ポンフリーは「まったくしょうがない」という顔つきで医務室の扉を閉めた。

「ハリー、痛むところはない?」

 医務室にはマダム・ポンフリーに追い出されずに済んだロン、ハーマイオニー、ハナの3人だけが残った。3人はチームメイト達がいなくなりガラガラになったベッドの周りに寄ってきてくれ、ハナはベッドの縁にそっと腰掛けると優しくハリーの背中を撫でた。去年、ロックハートに腕を骨無しにされた時もそうだったが、ハリーはハナにそうしてもらうのがなんだか好きだった。なんとなく、家族にそうして貰っているような、そんな気分になるのだ。

「ウン、あちこち痛いよ」
「外傷はないようだけれど、鞭打ち症みたいなものかしら……マダム・ポンフリーがきっといい薬をくださるわ」
「その薬が美味しいといいけどね」

 冗談っぽく聞こえるようにハリーが言うとハナは肩を竦めて少しだけ笑って、それから数秒会話が途切れた。

「ダンブルドアは本気で怒ってたわ」

 ややあって、ハーマイオニーが震える声で言った。

「あんなに怒っていらっしゃるのを見たことがない。貴方が落ちた時、ピッチに駆け込んで、杖を振って、そしたら、貴方が地面にぶつかる前に、少しスピードが遅くなったのよ。それからダンブルドアは杖を吸魂鬼ディメンターに向けて回したの。あいつらに向かって何か銀色のものが飛び出したわ。あいつら、すぐに競技場を出ていった……ダンブルドアはあいつらが学校の敷地内に入ってきたことでカンカンだったわ。そう言っているのが聞こえた――」
「それからダンブルドアは魔法で担架を出して君を乗せた」

 ハーマイオニーの言葉を引き継いでロンが言った。

「浮かぶ担架につき添って、ダンブルドアが学校まで君を運んだんだ。みんな君が……」

 ロンの声は弱々しく途中で途切れた。しかし、ハリーはそれよりも吸魂鬼ディメンターがハリーに何をしたのか気になっていた。ホグワーツ特急でもそうだったが、どういうわけかハリーにだけ、毎回女の人の叫び声が聞こえるのだ。

 あれは吸魂鬼ディメンターがハリーに何かしたに違いない。ハリーはそう思っていたが、それが具体的になんなのかさっぱり分からなかった。そういえばハナも前回倒れた時、誰かに名前を呼ばれたと言っていた。その口振りからするにセドリックやルーピン先生ではない別の誰かだ。ハナなら何か知っているだろうか――ハリーはそう考えて顔を上げたが、その瞬間、あまりにも心配そうな3人の顔が飛び込んで来て、咄嗟に全然違うことを口にした。

「誰か僕のニンバス掴まえてくれた?」

 すると、ハリーがそう訊ねた途端、ロンとハーマイオニーがますます気まずそうに顔を見合わせたのが分かった。ハナはハリーの背中を撫でていた手を止めて、痛ましそうな顔をしている。ハリーは訳が分からず3人の顔を順番に見た。

「ハリー、貴方が落ちた時、ニンバスは吹き飛んでしまったの」

 3人を代表してハナが言葉を選ぶようにして言った。

「それで?」
「それで、ダンブルドア先生の指示でフリットウィック先生が貴方のニンバスを探すのを手伝ってくれたの。追跡呪文を使って、私とジョージもその跡を追ったわ。そしたら――」
「そしたら?」
「ぶつかっていたの――暴れ柳に」

 ハナがそう言った瞬間、ハリーは心の中がざわつくのを感じた。暴れ柳といえば、校庭の真ん中にポツリと1本だけ立っている凶暴な木だ。あれは周りに何かが近寄って来るのが大嫌いで、去年ハリーが空飛ぶ車で突っ込んだ際には滅多撃ちにされてひどい目にあったのだ。

「それで?」

 ハリーは最悪の答えが脳裏を過ったものの何とか訊ねた。すると、今度はロンとハーマイオニーが消え入りそうな声で答えた。

「ほら、やっぱり暴れ柳のことだから――あ、あれって、ぶつかられるのが嫌いだろ」
「ハナとジョージとフリットウィック先生が、貴方が気が付くちょっと前に持ってきてくれたわ」

 そう言うとハーマイオニーはゆっくりと、足元に置いてあったバッグを取り上げ、逆さまにした。開いたバッグの口から粉々になった木の切れ端が、小枝が、金具が散らばり出て、ハナがハリーの両手をぎゅっと握った。

 それはハリーのニンバスの亡骸だった。