The ghost of Ravenclaw - 009

2. アズカバンの脱獄囚



 シリウスは立ち上がることもままならないほど、ひどく弱っていた。当然のことながら、アズカバンの周囲では姿くらましが出来ないようになっているので、姿くらましが出来るところまで泳いで逃げて来たのだという。そうして泳いで泳いで、ようやく姿くらましが出来るところまでやってきたシリウスは、残っている力を振り絞って私の家にやってきたという。どこへ向かうかと考えた時に真っ先に私の家が思い浮かんだそうだ。

 そんな弱りきって我が家にやってきたシリウスを、私はなんとか支えながら家の中に入った。こんな時に限ってシリウスは家の中が汚れることを気にする紳士ぶりを見せたけれど、私はそれをまるっと無視した。無理矢理ダイニングテーブルに座らせると、大急ぎで朝食の残りのスープを温め直して差し出した。あまり食事を摂っていなかっただろうから、まずはスープを、と思ったのだ。お昼に食べようと残しておいて本当に良かった。

「これを飲んでいて――今、他に食べるものを持ってくるわ。それからシャワーを浴びて着替えるのよ。服は用意してるわ」

 スープを目の前にしたシリウスは私の話を半分も聞いていなかった。大事そうに器を持ち上げて、まずひと口それを飲んで、そこからは無我夢中でスープを飲んでいた。これは早く次の食べ物を持ってきた方が良さそうだ――私は大急ぎで2階にある自室へ向かうと巾着袋を引っ掴んでダイニングへと戻った。

 巾着袋に入っていた保存食を次から次へとダイニングテーブルの上に出すと、シリウスはそれを次から次へと胃袋の中に収めていった。本当はもっと暖かい食事をもっと出してあげられたら良かったのだけれど、それをすると流石にリーマスにバレてしまうので出来なかった。たとえ家の中が汚れても掃除すればいいけれど、大量の食材が減ったとなれば、リーマスも気付いてしまうだろう。

 もう十分に食べただろうというところで、私は新しい着替えと共にシリウスをバスルームに突っ込んだ。その間に私は靴を履かずに外に出てしまったので汚れた靴下を履き替え、家の中の目立った汚れをザッと掃除し、出掛ける準備をして、リビングでシリウスを待ち構えた。

「君は将来魔法大臣になれるぞ」

 シャワーを浴びてリビングにやってきたシリウスの第一声はそれだった。どうやら私に対する賛辞のつもりらしい――それにわざとらしく顔をしかめながら「貴方はホグワーツで女性に対する賛辞の言葉を学ばなかったようね」と私が答えると、シリウスは機嫌良く豪快に笑った。しかし、すっかり痩せてしまっても尚、大人の魅力溢れる国民的ハンサムだからシリウス・ブラックは侮れない。

「ああ、笑ったのは久し振りだ――腹が満たされたのも、シャワーを浴びたのも――それに、この家に来たのも」

 シリウスは感慨深げに話しながらリビングを見渡して、ソファに腰掛けた。すっかり小綺麗になったシリウスは、まだ痩せこけたままだけれど、逃亡中の脱獄犯にはとてもじゃないが見えなかった。これでしばらくは魔法省の目を誤魔化されるだろう。

「ハナ、君はいつここに戻ってきた?」
「2年前よ。私、今は13歳で9月から3年生なの」
「ハリーと同じ学年じゃないか!」
「ええ、そうよ。それに、ダンブルドア先生が後見人になってくださったわ。この2年間で貴方に話すことが山程あったの……でも、まずは貴方のことね。シリウス、貴方一体いつ脱獄したの?」

 少なくとも、今朝の日刊予言者新聞には記事が載っていなかったはずだ。そう思って訊ねると、シリウスはなんと一昨日の夜に脱獄したのだと答えた。吸魂鬼ディメンターが食事を運んできて独房の扉を開けた際にすり抜けたのだという。シリウス曰く、「それが記事になっていないのなら、魔法省が脱獄を認めたくなくて、あのアズカバンの要塞の壁の隙間に私が入り込んでいるのではないかと、まだ探し回っているところかもしれないな」とのことだった。

「実は私を脱獄させたのはその魔法省なんだがね」

 シリウスはクツクツと喉を鳴らしながら言った。

「24日に魔法大臣のコーネリウス・ファッジがアズカバンの視察にやってきた。その時、ファッジは新聞を手にしていたんだ――私はもう読まないならその新聞をくれないか、と言った。そうしてファッジから貰った新聞にあの裏切り者が載っていた……」

 そして次の瞬間、シリウスの目の色が突然変わった。興奮したように立ち上がると私に向かって呻るように吠えた。

「その時の私の気持ちが君に分かるか!? あいつはホグワーツにいる! 私の親友の息子が通うホグワーツに! ハナ、君はどうして奴を殺さなかった! 君なら気付いていたはずだ。私にこのことを警告していた君なら! なのにどうして殺さなかった!」

 きっと記事に載っていたピーターのことを思い出したからだろう。シリウスは私に掴みかかって悲痛な声で叫んだ。じっとその目を見返すと、復讐に燃えたぎっている灰色の瞳は完全に瞳孔が開ききっている。

「どうして殺さなかったかですって?」

 私は静かに口を開いた。

「私がどれだけピーター・ペティグリューを取っ捕まえてダンブルドア先生の目の前に差し出してやりたかったか、貴方は考えすらしないのね?」
「差し出してやれば良かったんだ! いや、差し出す必要なんかない。殺してやれば良かったんだ!」

 私をガクガク激しく揺さぶりながら、シリウスが叫んだ。親友を失った後悔と悲しみと、裏切り者への憎しみだけを抱いて、長年アズカバンを耐え抜いていたのだろう。一度ピーターのことを思い出せば、シリウスはあっという間に冷静さを欠いた。

「シリウス、貴方も私にとっては大事な友達なのよ」

 シリウスの手を振り解くことなく、私はただ冷静に言葉を紡いだ。

「かけがえのない友達――いいえ、親友だわ。そんな貴方の帰りを私がこの2年、どれだけ心待ちにしていたか――失敗は許されないわ。私は私の親友を取り戻すために、ここまで我慢してきた。シリウス、貴方は自分のことなんてどうでもいいと思ってるでしょうけど、私はピーターより貴方に帰ってきて欲しかった。私は貴方の未来の方が何より大事だった。分かるでしょう?」

 私がそう言うとシリウスは今にも泣き出しそうな顔をして、そっと私を話した。先程まで座っていた位置に大人しく座り直すと俯いて「すまない……君を責めるべきではないと分かっていたはずなのに」と呟いた。

「気にしていないわ。そんなことより、時間が惜しいわ。ダイアゴン横丁へ行って、それからさっき食べてしまった保存食を買い足さないと」

 リーマスが戻ってくる前にそれらをすべてやり終え、シリウスを送り出さなければならないのだ。時計を見れば今は午後1時になるかならないかというころだ。夕方まで、まだ色々と済ませてしまう時間はあるだろう。

「おいおい、いくらまだ公表されていないとはいえ、君は脱獄犯に買い物に行けと言ってるのか? Are you insane?」

 予め準備していたポシェットを持って私が立ち上がると、シリウスは気が狂ったのかとでも言いたげにこちらを見た。そんなシリウスに私はまるで心外だとばかりに口を開く。

「あら、シリウス。私が何の準備もしていないと思った?」

 そう言って私はポシェットの中から少し大きめの瓶を1つ、取り出した。中にはとてもじゃないが美味しそうに見えない水飴のような黒い泥状の液体が入っている。シリウスはそれを見て、一体なんだと言わんばかりに顔を顰めた。そんなシリウスに私はニヤッと笑う。

「楽しい魔法薬学の時間よ」