The ghost of Ravenclaw - 008

2. アズカバンの脱獄囚



 7月最後の週末は穏やかに過ぎていった。
 土曜日には1週間分の食材の買い出しに出掛け、なんとこの日は日本食材店にも行くことが出来た。日本食材店はメアリルボーンの自宅から一番近いところだと同じウェストミンスター市内にあるソーホーという地区にあって、これがまた素敵なお店だった。日本で馴染みのある食材だらけで、ここではリーマスがドン引きするくらいの買い物をした。

 そうしてそこで手に入れたすき焼きの素で、夜はすき焼きにすることになった。このすき焼きのお肉で、就職祝いで高いお肉を買いたい私と今日は買い過ぎだから安いお肉でいいというリーマスとの間で、言い争いが起こったのだけれど、これはまた別の話である。因みに言い争いに勝ったのは私だ。「レディのプレゼントを二度は断らないでしょう? リーマス」と捩じ伏せたのだ。お陰でスーツの二の舞には済んだ。

 土曜日には他にも、7月31日は今年もゴドリックの谷へ行こうという話や、8月2日に迫っている次の満月はどうするかということも話し合った。リーマスは例の「私にも楽しいニュースが必要だ」という理由から、次の満月もセドリックの家に行けばいいじゃないかと主張したけれど、私は今回ばかりは漏れ鍋に泊まりたいと主張した。

「やっぱり、男の子の家に泊まりに行くなんて良くないわ。付き合ってもないのに……」
「ウィーズリーさんの家に泊まりに行く時はそんなこと言わなかったじゃないか」
「だって、あそこには兄弟がたくさんいるし、それに女の子もいるわ。全然違うじゃない」

 そんなこんなで、ハリーの誕生日プレゼントを買いにダイアゴン横丁へ行った日曜日は、まず漏れ鍋で宿泊の予約をした。それからハリーの誕生日プレゼント選びに向かったのだけれど、これがまた大変だった。当初プレゼントに考えていた本やクィディッチ用のゴーグルに加えて、天体模型も気になったからだ。

 この天体模型は銀河系の模型なのだけれど、兎に角美しくて、なんとガラスの球体の中に入っているのだ。まるで星屑製造機スターダスト・メーカーがガラスの球体に詰め込まれたような感じで、私は自分の分も欲しいくらいだった。

「天文学に役立ちそうよね。でも、やっぱり実用的なのはクィディッチ用のゴーグルかしら……雨の日とても大変そうなの」
「それなら、ゴーグルがいいかもしれないね。天体模型はクリスマスにするのはどうだい?」
「うーーん、分かった。そうするわ!」

 そうして、ようやくゴーグルに決めた時にはダイアゴン横丁へ来てから3時間も経っていた。それにずっと付き合ってくれたリーマスは紳士の鑑である。ジェームズやシリウスならきっとこうは行かないだろう。でも、セドリックはきちんと付き合ってくれそうだ――と考えて、私は慌てて頭の中を切り替えた。


 *


 週末が明けると、リーマスはいつも通りホグワーツへと出勤して行った。私はと言えば、その間相変わらずの毎日を送っていた。リビングで日刊予言者新聞を隅から隅まで読み、シリウスの脱獄に関するヒントがないか調べ、時々買い物に行きこっそり巾着袋に隠した。けれども週末が明けて数日経っても脱獄に関する記事は1つもなく、私は大きく溜息を吐いた。

 最近の収穫といえば、新聞にウィーズリー一家とスキャバーズの写真が載ったことと、つい昨日ホグワーツから手紙が来たことくらいだ。ホグワーツからの手紙は3年生で使う教科書リストに加え、週末にホグズミード村へ行くための許可証が同封されていた。これに両親か保護者の同意署名がいるらしいのだけれど、同封されていた私のホグズミード許可証には「アルバス・ダンブルドア」と既に署名がされていた。

 そういうわけで、29日の午前中も私はリーマスがホグワーツへ行っている間、リビングで新聞を読み、シリウスの記事がないか隅から隅まで読んでいた。しかし、今日もシリウスの脱獄に関する記事は1つもなく、紙面は平和そのものである。

「もうアズカバンに乗り込んだ方が良さそうに思えてくるわね――ただ、そうなると私も立派な犯罪者だけれど」

 私がこれから積極的に行おうとしている逃亡隠避も立派な犯罪だということは、この際考えないことにする。それにただの犯罪者を逃すわけではないのだ。無実の犯罪者を助けるのだ。このことをリーマスに話したらきっと「ハナ、それは屁理屈というんだ」と顔をしかめそうだけれど、ダンブルドア先生は「罪になるのは犯罪者の隠避であって、無罪の者の隠避ではないのではないかね?」と嬉々としそうだ。ダンブルドア先生はそういうお茶目なところがある。

 さて、このまま考えを巡らせていてもどうしようもない。逃亡用のものもほとんど揃っているし、今日は大人しくD.A.D.Aの勉強に勤しみながらリーマスの帰りを待つことにしよう。そう考えて、本を取りに行こうと立ち上がった時だった。来訪者探知機の鳩が勢いよく飛び出してきて大声で叫んだ。

「バッドフット! 本物! 安全!」

 私はハッとして来訪者探知機を見た。パッドフットといえば、シリウスのあだ名である。しかし、どうしてシリウス・ブラックと呼ばなかったのだろうか。もしかしたら、犬の姿でこの家にやってきたからなのかもしれない――いや、今はそんな細かいことは後回しだ。

「シリウス……!」

 私は大慌てで玄関へと向かった。靴を履く時間も惜しくて、靴下のまま外へ飛び出すと、扉を開けてすぐのポーチの上に痩せこけた黒い犬が倒れているのが見えた。もう一度「シリウス!」と叫ぼうとして、私は咄嗟とっさに思い留まり、「パッドフット!」と呼び掛けた。

「パッドフット! パッドフット! ねえ、しっかりして。パッドフット!」

 肩の辺りを叩きながら大声で呼びかけると、黒い犬の姿のシリウスは小さく呻き声を上げ、こちらを見た。苦しそうなのに、目が合うとなぜだか笑ったような気がした。すると、笑ったのが合図だったかのように黒い犬の体がぐにゃぐにゃと変化し始めた。犬の足だったものが人間の手足に変わり、痩せこけた身体は人間のそれへ、そうして犬の顔は私が例の友人に何度も見せられてすっかり覚えてしまっていた顔へと変化した。

「ああ、今日は、何年何月何日だったかな」

 数秒前まで黒い犬だったはずの痩せこけた男が、玄関ポーチに倒れ込んだまま訊ねた。そんな彼に私は少しだけ笑うと口を開く。ああ――この時をどれほど待ち焦がれただろう。

「今日は1993年7月29日よ」

 私がそう言った瞬間、アズカバンの脱獄囚であり、唯一無二の友、シリウス・ブラックはニヤッと笑った。