The beginning - 008

3. 名前を言ってはいけない例のあの人



「ねえ、貴方、大丈夫?」

 女の子に声を掛けられて、私は目を覚ました。
 見れば、目の前には赤い髪に緑の瞳のとびっきりの美少女が心配そうな表情でこちらを見ていた。戸惑いながら周りを見れば、そこはいつか歩いたことがあるホグワーツの廊下だった。私はそこにレイブンクローの制服を着て突っ立っている。私はまだ、夢の中から出られないままだったのだ。

「ええ……大丈夫……」
「マダム・ポンフリーの所へ行ったらどう? 貴方、とっても顔色が悪いわ」

 彼女はグリフィンドールのネクタイを締めていた。もしかしたら、友達と話をしている最中に私が現れて邪魔をしてしまったのかもしれない。少し離れたところでどこか見覚えのあるようなないような顔の男の子が、こちらをジロリと睨んだまま立っているからきっとそうだ。彼はスリザリンのネクタイだった。

「ありがとう。でも、大丈夫よ。あの、私、ジェームズ達に会いたいの。どこにいるか知らないかしら?」

 見覚えがあるなら唯一私が見たことのある『賢者の石』に出てきた誰かの子ども時代なのだろうけれど、スリザリンの男の子が誰だったのか答えを出すよりもジェームズ達に会う方が先決な気がした。なぜなら、この夢の中で私が頼れるのは彼らしかいないからだ。

「ポッター?」

 ジェームズの名前を出した途端、女の子は顔をしかめた。男の子も更に不機嫌な顔になり、こちらを睨みつけてくる。どうやら彼女達はジェームズと喧嘩でもしているらしい。いや、そもそもグリフィンドールとスリザリンって仲が悪いんだっけ。ハリーとマルフォイも仲が悪かったはずだし。でも、女の子はグリフィンドールだよね……あれ?

「ポッターなら、後ろよ。ほら」

 女の子がそう言って、嫌そうな顔を崩さないまま私の背後を指差した。振り返れば、ジェームズとシリウス、それにリーマスが揃ってこちらに歩いてくるところだった。

「みんな……!」

 女の子にお礼をすることも忘れて私は彼らに駆け寄った。彼らは今日も3人だった。急に呼びかけられたジェームズ達はびっくりしたような顔でこちらを見ている。

「ハナ! そんなに慌てて何かあったのかい?」
「お前、そんな真っ青な顔でどうしたんだよ」
「具合でも悪いのかい?」

 駆け寄ってきた私に3人が口々に訊ねた。私は女の子とスリザリンの男の子に聞こえないように声量を抑えながら、

「夢……夢から、出られないの。どうしよう……」

 と言った。もうほとんど泣き出しそうな声だったように思う。ジェームズ達はそれを聞いて驚いたような、戸惑ったような表情で顔を見合わせて、そして、

「ダンブルドアのところに行こう」

 それだけ言ってくれた。私はそれに、なんとか首を縦に振って答えた。夢から出られないのが怖くて、でも、3人に会えてホッとして、話したら涙が出てきそうだった。

「エバンズ、彼女を見つけてくれてありがとう」
「いいえ。その――ポッター、その子、大丈夫なの?」
「大丈夫さ。僕達がついてるからね」

 「行こう、ハナ」とジェームズに手を引かれて、私は歩き出した。隣ではリーマスが「大丈夫だからね」と背中をポンポンと優しく撫でてくれていて、シリウスは硬い表情のまま私の後ろを歩いていた。

 ダンブルドアの元へ行く道すがら、今日が1975年9月12日だと教えて貰い、前回からあまり日が経ってないことを知った。彼らは途中で何も聞いて来なかった。きっと、他の生徒達が往来する廊下では到底話せる内容ではないと思ったのだろう。夢の中がどうだの、現実がどうだのと話しているのを聞いたら、変に思われるのは必至だ。

 ホグワーツの廊下をどう歩いたのかはわからないけれど、私はいくつかの階段を降りて、奇妙な石像の前に辿り着いた。まるで何かの怪物のような石像だ。どうやらここが校長室らしいと分かったが、入口がどこにも見当たらなかった。友人はなんて言っていたっけ……確かお菓子の名前が合言葉とか、なんとか……。

「おい、誰か合言葉分かるか?」
「リーマス、分かるかい? 監督生じゃないか」
「流石に校長室の合言葉なんて教えて貰えないよ……」
「お菓子……」
「お菓子?」
「お菓子の――名前なの。そう、聞いたことがある」

 私がそう言うと、3人は口々に知らないお菓子の名前を言い出した。「蛙チョコ!」だとか「ハエ型ヌガー!」とか「ゴキブリ・ゴソゴソ豆板!」とか、それ本当にお菓子の名前なのかと疑いたくなるような名前もあった。

 3人同時にあれこれ言っていたため、一体何が正解だったのかはさっぱり分からないが、30個くらいお菓子の名前を上げたところで目の前の石像が急にピョンっと跳んで脇に避けた。すると、石像の背後にある壁が左右に割れ、螺旋階段が現れた。螺旋階段は、エスカレーターのように滑らかに上へと動いている。

 私達が石像の気が変わらないうちに急いで螺旋階段に乗ると、背後で壁がドシンと閉じた。螺旋階段は、私達をくるくると螺旋状に上へ上へと連れて行く。一体どれくらい上がるんだろうと思い始めたところで、目の前に輝くような扉が見えた。かっこいいドアノッカーが付いている。

 扉は、ジェームズがドアノッカーを握ろうとすると音もなくパッと開いた。どうやら扉は勝手に開いたらしく、中を覗いても誰の姿もない。

「ダンブルドア先生?」

 恐る恐る私達は室内に足を踏み入れた。そこはとっても変わった物で溢れた部屋だった。広くて美しい円形の部屋で、紡錘形ぼうすいけいの華奢な脚が付いたテーブルの上には奇妙な道具が並び、くるくる回りながらポッポっと煙を吐いている。壁には肖像画がたくさん飾ってあり、誰も彼もがジロジロとこちらを見ていた。

 大きな鉤爪脚の机もあった。その後ろの棚にはみすぼらしいボロボロの三角帽子が載っている。これは絶対、組分け帽子だ。映画がでハリーが被っていたものと全く同じだ。背後を振り返ると、金色の止まり木があり、そこには見たこともないほど美しい鳥が止まっていた。羽根が赤と金色だ。こんな状況でなければ私も3人も、きっとはしゃいでいただろうと思う。

「ダンブルドア先生、いらっしゃいませんか?」

 リーマスが声を掛けると、校長室の奥の扉が開いて、ダンブルドアが現れた。ダンブルドアは私達の顔を順番に見ると、

「おお――これは面白い客じゃな」

 と言った。半月型の眼鏡の奥に見える明るいブルーの目は、優しげだけれど、どこか全てを見透かされているような気がしてドキリとしてしまう。ダンブルドアは自身の事務机に腰をかけると、

「そろそろ来るころだろうと思っておったよ」

 真っ直ぐに私を見つめて言った。