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できればあらゆる不幸がきみのもとを訪れませんように
ある種の人間にとって、『死』は1つの救いであるらしい。

『かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?』※1

読んでいるだけで息苦しくなるような苦悩の滲む一文を追って、暫し余韻を味わう。
苦痛からの解放。人間は、苦痛が長々と身体を蝕んでいくことよりも、ひと思いに死んでしまうことの方が良いと考えているらしい。

『お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなに永く待っていらっしゃったでしょう』※2

無邪気ささえも感じる、ひらがなの多い科白を、何度も指でなぞって音読してみる。
愛しい人との再会。人間は、自分より先に死んでしまった大切な人と、死んだ後にもう一度会えると思っているらしい。

『神よ、許し給え』※3

恐ろしい速さで走り抜ける汽車に飛び込む間際、女が叫んだ科白の意味を考える。
たとえ自死を許さない神を信じていても、人間は時に死を選ぶらしい。そうして、そういう衝動を誘発させる感情は、『絶望』。そしてそれは、金と愛に起因する場合が殆ど全てを占める。この女の場合は愛だった。
人間にとって愛や金は、神や倫理よりも心の重要な部位を占めるようだ。

「……」

ぱたん、と裏表紙を閉じる音が、やけに耳に残った。少しだけ視線を上げれば、ベッド周りに散らばった、分厚さも表紙の作りもバラバラの本達が視界に入る。作者の国籍、時代、そして主義主張、どれ一つとして一貫性のないそれらは、全て見舞客の土産物である。自分で買いに行くことはまずもって無い。うっかりふらふらと出歩いて、何処でおかしな病気を拾ってくるか分からないからだ。

「また散らかしているな」
「っ!」

片付けないと、嗚呼でも面倒だな、とぼんやり考えたところで、耳に入ってきたのは低い声。いつの間にか部屋に入ってきていた影に、少女はぱっと顔を輝かせる。

「すまんな、近いうちにと言っておきながら間が空いてしまった」
「……」

近くの本で口元を隠し、ふるふると首を横に振る少女。部屋に入ってきた男はうっすらと笑みを浮かべる。見上げれば首が痛くなるほど高い長身の、人間で言うなら壮年と呼ぶような年頃の美丈夫だ。少し強面であるが、精悍かつ男らしい顔つきで、鮮やかな真紅の瞳が特徴的。そして今は口にくわえていないものの、衣服からは濃い煙草の香りが漂ってくる。
俯いて上目遣いに自分を見上げる少女の頭を、男、もとい肋角はその大きな手でくしゃくしゃと撫でた。

「変わりないか、なまえ」

なまえ、と低い、しかし優しい声音に名を呼ばれた少女は、嬉しそうに破顔する。そうして、これ以上のものはないくらいに、うん、と勢いよく頷いて見せた。

「なら良い。と、言いたいところだが……」
「……!」
「寝不足だな。それに体温も低い。佐疫が此処数日いないのを良いことに食事も抜いているだろう」
「……」
「なまえ」

嬉しげな顔を一転、なまえはしゅんとして頭を垂れる。その頬は血色が悪いを通り越して、いっそ真っ白な蝋にもよく似ている。目を見開く様は幼げで愛らしいが、目の下にはうっすらと隈が浮かび、白目は少々充血していた。少女らしい可愛いネグリジェはとても似合っているものの、人間が好むホラー映画で幽霊役として出てきそうな出で立ちだ。

「……ごめんなさい」

なまえがこうして叱られても、体調管理を怠ったことに反省するよりも、肋角に叱られたこと自体を悲しむのはいつものことだ。『いつものこと』で済ませるには少々度が過ぎているのではあるが、こういうなまえの私生活に口を出すのは佐疫や木舌の方が適任である。「今日はきちんと食べるんだぞ」と言って説教を締めくくれば、なまえはあからさまにほっとした顔をした。

「ちなみに、佐疫の帰りは今日中の予定だ。夕食前には顔を出すだろう」
「!?」

緩んでいた表情がぎょっと強張る。思わずにやりと笑ってしまえば、からかわれているのが分かったのだろう、なまえはぽかん、と弱い力で肋角の胸を叩いた。大人と子供の体格差で、男と女の腕力差。それを差し引いてもなまえの力は、仮にも獄卒で有りながら恐ろしく弱々しい。

「肋角さんのばぁか」
「ふっ」

側に設置された丸椅子に肋角が腰掛ければ、すかさずその胸に倒れ込んでくる。発育の悪い、細い身体。長く生きているうちにある程度は背も伸びたし体重も増えたけれど、ちっとも年相応の育ち方はしてくれない。獄卒の中でもとりわけ白い肌は、元々活動的な性格ではないのに加えて、下手に外に出るとまた厄介な病気に罹り得るからだ。少々強いだけの日差しも、吹き抜けるそよ風も、火照った身体を冷ます霧雨も、なまえの身体には十分毒になり得てしまう。

「すまんな。だが、佐疫が帰ってくるのは本当だぞ」
「肋角さんのいじわる。いじめっ子」

なまえの幼い物言いに、肋角は笑いながら自身の胸元に手をやる。しかし、そこに普段は入れている煙管も煙草もないことに僅かの間だけ違和感を持った。
肺も強くないなまえの前では、煙草の1本も吸えない。愛煙家は気がつけば無意識に煙をくゆらせているものなので、少なくともなまえに副流煙を吸わせないよう、此処に来るときだけは喫煙道具は一切持ってこないことにしている。それでも、長年の習慣で染みついた癖は、肋角に煙草を吸わせようとするから困ったものだ。

「今日は何を読んでいた?」

それはさておき、これ以上同じ話でからかっていると本気で臍を曲げられてしまうので、そろそろ話題転換を図る。あからさまなそれになまえは少し不満げにしたが、やがてすぐにベッドの周りから数冊の本を取り上げ、肋角に示した。
1冊は近代日本の小説家が、自殺の少し前に書いたという短編小説。もう1冊は、『農業の神様』とも呼ばれた日本の詩人にして童話作家の代表作。最後の1冊は、ロシアを代表する文豪による長編小説。趣旨も方向性も、作者の思想もバラバラの3冊。敢えて一緒に読んだということは、なまえ本人に何かしらの意図や、見いだした共通点のようなものがあるのだろう。

「面白かったか?」
「……わかんない」

しかし、肋角は敢えて自分からはそこに踏み込まない。自身がインプットする量に比べて、アウトプットする量も、その方法も、なまえはとても乏しく拙いからだ。斬島よりも言葉数が少なく、谷裂よりも口べたななまえの言葉をきちんと拾うには、自分から語り出すのを根気よく待たなければならない。

「どれもあんまり、理解は出来なかった」

根気よく待っていれば、いずれなまえは少しずつでも語り出す。自分だけの言葉で、使い方の分からない膨大な語彙の中から、しっくりくるものをゆっくりと探し、少しずつ少しずつ言葉として紡いでいく。見舞いに来た肋角が『娘』にまず一番最初にしてやるのは、なまえの言葉を1つ残らず拾ってやることだった。

「人間は、死に夢を見てる」
「……」
「鬼とは違う」
「何故そう思う?」
「生きるのと、死ぬのと、人間はくっきり分けてる。これは、鬼とは違う」

肋角の胸元にもたれながら、なまえの指が本の背表紙を撫でた。肋角の手はゆっくりと頼りないなまえの髪を梳いており、なまえは懐いた猫のように目を細めた。

「では、何故鬼と人は違うのだろうな」
「……死んだら」

少しだけ眠そうな声。しかし一応は喋り続けるなまえは、もっと撫でて、と言わんばかりに頭をすりつける。

「死んだら楽になるとか、死んだら死んだ人に会えるとか、死んだら許されるとか、人間は、そういうことを考えてる。……こういう考え方は、私達には、よく分からない」

獄卒にとって、死と生は何処までも地続きだ。死んでも生き返るし、年の取り方も人間とは全く違う。人間にとって「ちょっとむかついて叩いちゃった。ごめんね」と、獄卒の言う「苛っと来たから殺した。すまん」は大体同じレベルだ。死んだところで死ぬ前のことがリセットされるわけもないから、『死んだらどうのこうの』という思考に到ることは無い。

「そうだな。俺達にとって死は日常であり、一時的だ。しかし人間にとってはその逆。とらえ方も考え方も違ってくるのは当然だろう」
「……谷裂が」

ぽろ、とかさついたなまえの唇から零れたのは、この屋敷でももっとも鬼らしいと称される獄卒の名。怠惰と弱さを嫌う彼の鬼は、人間自体のことはさておき、人間の脆さについてはあまり良い印象を持っていないらしい。

「谷裂が、それは人間が弱いからだって。人間が鬼と違って、身体も心も弱いからだって、そう言ってた」
「谷裂らしいな」
「でも、」

ふと、なまえの声音が少し調子を変える。僅かな憂いを帯びたその声に、肋角は耳聡く気づく。なまえはいつの間にか眠さの消えた顔で、髪を撫でていない肋角の手を、小さなその両手で弄って遊び始めた。

「弱いのは、私も一緒」
「……」
「下手な人間より、私のが弱い。でも、私は人間じゃない。人間のことは、分からない」
「なまえ」
「ね、肋角さん」

かくん、と首を逸らしたなまえが、肋角の顔を逆さに仰ぎ見る。

「弱くても、鬼だよ、私」

白い顔。細い手足。骨の浮いた身体。艶の無い髪。
なまえは獄卒としては異様なほど脆弱な鬼である。これはもう生まれつきのもので、肋角が拾う前からなまえはこんな感じだった。否、生気の無さに関して言えば、もっとずっと酷かった。肋角に手ずから与えられつつ、それなりに物を食い、眠り、服を着て、名を覚えて、言葉と文字を学んで。どうにか生き物らしくはなってきたものの、何故か身体の弱さは治らなかった。
季節の変わり目には風邪を引き、食べ慣れないものを食べれば腹をこわし、食欲はいつも無く、外に出れば風邪を貰い、肺炎までこじらせることもしょっちゅうだった。謎の出来物が体中に出来たこともあれば、原因不明の高熱で数回死んだこともある。死んで生き返るまでに病が身体を出ていっていれば問題ないのだが、消えきらないうちに意識が戻ってきて、結局また死ぬ、ということを繰り返したのは一度や二度では無い。
異質の獄卒。亡者を呵責することも、怪異を征伐することも出来ない穀潰し。屋敷の誰もそんな風には思っていないのに、他ならぬなまえ自身がそう思い込んでいる。

「……」

しなだれかかり、ただ肋角の手の筋を撫でたり、ちょっと抓ったりして遊んでいるなまえは、喋るだけ喋って満足したようだった。これもいつものことで、独り言のようにつらつらと自分の言いたいことを喋った後は、こうして何も言わなくなる。
感情を吐露するだけ吐露して、相手の答えは別に求めていない。そういう態度を、取る。そして屋敷の者達のうち殆どは、なまえを「そういう奴」だと思っている。ただ思うがままに喋るだけで、勝手に自己解決できているのだと、勘違いしている。
そういう風に見せかけることだけは、この娘はとても上手い。

「なまえ」

あやすような響きで肋角に名を呼ばれたなまえは、ほんの僅かだけ頭を動かした。

「確かに、お前の言うことも事実の1つではある。こと体力、腕っ節という意味でなら、お前は確かにこの屋敷では最も弱いだろう。……下手な人間より弱いというのも、確かにそうだろう」
「……」
「だがな、私はそれだけだとも思わん」

隈の載った目の下を、人差し指でそっと撫でてやる。なまえはくすぐったそうに身動いだ。

「お前の知識や考えを、他の者達が乞うてくることがあるだろう。亡者の未練、思考、行動を読めない者達が、お前の言葉を聞いて糸口を見いだしたことがあるだろう。お前は決して無力でもなければ、守られるだけの脆弱な子供でもない」

武器も持てない鬼の子の頬を、肋角はそっと撫でる。唇と同じに、少しだけかさついていた。食生活と睡眠時間の短さのせいだろう。あとできちんと食べさせて、質の良いクリームでも塗ってやろうと、こっそり算段する。

「お前は人間の本をよく読むな。私達も目にしなくはないが、お前ほど熱心には読解しない。お前が読み解き、咀嚼し、血肉としているものは、人間の意思や情念、思想の断片だ。お前は恐らく、この屋敷の誰よりも人間を理解している」
「……そうかな?」
「そうだ。胸を張れ、なまえ」
「ふわっ」

軽すぎるくらい軽い身体を抱き上げ、膝の上に載せて向き合わせる。背丈の小ささ故に、乗っかっているはずのなまえは、それでも肋角を見下ろすことにはならない。

「たとえ物として武器が握れずとも、お前の武器はお前の心と頭の中にある。これは誰にも真似の出来ないものだ」
「……」
「そして何より、お前を拾ったのは私だ、なまえ」

ぱちり。猫のように大きななまえの両目が瞬く。

「お前が自分で言い聞かせずとも、お前は紛れもなく鬼の子で、私の子だよ」

可愛い私の娘。だから、そんなに哀しいことを言ってくれるな。

「……っ」

見開かれた両目に、見る見るうちに涙が溜まる。それを隠すように、なまえは肋角の首にかじりついた。
ぐすぐすと聞こえ始めた嗚咽に苦笑しながら、その頭や背をそっと撫でてやる。相変わらず泣き虫な娘だ。お父さん子なのは嬉しいが、これでは嫁に行くときどうなることやら……いや、考えるのは止めておこう。まだ存在してもいない愛娘の『男』を想像してしまった肋角は、想像の中でそれを容赦なく粉砕する。

「肋角さん、だいすき」

嗚咽に混じって聞こえた『愛の告白』は、暫く自分だけのものにさせて貰おう。


※1…芥川龍之介『歯車』
※2…宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
※3…レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』

上の3作品、全て著作権の保護期間超過を確認済み。

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