Thanks 50000HIT!! | ナノ

前編
※嘔吐表現があります。苦手な方は閲覧をお控えください。


「ん……」

意識が浮上していく。目を覚ます、という少々不快な身体の変化に、知らず知らずのうちに顔を顰める。けれど意識は再び沈んでは行かず、欲求と裏腹に少しずつ覚醒していく。ゆるゆると瞼を押し上げて、そこまで明るくもないはずの室内の照明に、眩しさを覚えた。
目を覚ましてまず初めに感じたのは、怠さだった。意識はもうすっかり目覚めているのだが、頭がぼうっとしていて、身体が全体的に重たい。試しに腕を突っ張って上体を起こしてみたが、たったそれだけの動作をするのに酷く疲れを感じた。
風邪を引いたときの症状に、とてもよく似ていた。

「私……」

何をしていたんだっけ。そんな間抜けな独り言は、辛うじて舌の上には載らなかった。普段の起き抜けよりも、逆に眠くてぼうっとしているときよりも、頭の回転が更に鈍いのが分かる。手を当てた額は、少し熱を持っていた。
ぐるりと視線を巡らせて、ようやくそこが自室でないことに気づく。目に優しい、淡いクリーム色の壁と天井。それから、自分が横になっていたベッドを取り巻くように引かれた水色のカーテン。すん、と小さく鼻を鳴らせば、エチルアルコールの臭いがした。学校の保健室を思わせるそこに覚えはなく、なまえはゆるりと首を傾げた。

「なまえ、起きたか?」

微かな衣擦れの音を聞きつけたのか、カーテンの向こうから声が聞こえた。名を呼ぶ声は、とても覚えのあるもの。普段ならこの上無い親しみと安堵と恋慕を起こさせるそれに、しかし今ばかりは全身を硬直させてしまう。

「すまない。開けるぞ」
「っぁ……」

待って、と止めるのは間に合わなかった。そもそも、硬直したのは声帯も同じで、まともな声すら発してくれなかった。驚愕と困惑と、それから恐怖が競り上がってくる。

「なまえ」

カーテンを躊躇いなくシャッと開けた斬島が、気づけば真っ直ぐこちらを見つめていた。深い深い、青い瞳に、酷い顔をしたなまえが映っている。混じりけのない瑠璃色。菖蒲の花びらによく似た、大好きな色。それなのに、嗚呼――……今は、こんなにも怖い。

「き……り、しまさ……」

相手の名もまともに呼べぬなまえの瞳から、ぼろりと大粒の涙が零れた。すぐにそれはぼろぼろと止めどなく流れ始めて、手で拭ってもとても足りない。

「なまえ……!」
「ぁっ、ご、ごめんなさ……っ」

ひっくひっくと、嗚咽が喉から迫り上がる。締め付けられるように痛んで乾く喉からは、謝罪一つきちんと零れない。出てくるのは涙と、情けない声ばかり。自分で自分を制御できない、そんな状況にパニックになったなまえは、ますます涙の勢いを増した。

「ごめ……ごめんな、さ……ごめんなさい……!」
「なまえ、落ち着け」
「ごめんなさいぃ……っ!」

もはや何を謝っているのかすら分かっていない。無意味な謝罪をひたすら繰り返しながら、頑是無い子供のようになまえは泣き続けた。


――そもそもの話は、数時間前に遡る。

「あれ、なまえ?」

もはや顔パスで中に入れて貰える程に住人達と親交を結んでいる獄卒達の屋敷。食堂へと続く廊下で、しかしそこからやや離れた場所にぼんやり立っているなまえを見つけたのは、佐疫だった。

「佐疫さん……」
「久しぶりだね。元気にして――……顔色が悪いね。少し痩せた?」

相変わらずの爽やかな笑顔と洞察力に、なまえは弱々しく微笑んだ。此処で下手に誤魔化しても墓穴を掘るだけだということはよく分かっているため、敢えて否定はしない。

「最近少し、体調が悪くて……」

正直に話すには後ろめたく、けれど嘘を吐くには罪悪感が勝った。優しげな美貌を心配に染めた佐疫は、曖昧ななまえの言葉にもう少しばかり眉根を寄せる。

「夏ばてかな。ちゃんと食べてるかい? 水分は摂ってる?」
「……大したことじゃないので」
「本当に? 無理しちゃ駄目だよ? というか、今日はどうして此処へ? 急ぎの用事でもあったのかい?」

矢継ぎ早に質問を投げてくるのは、少々普段の佐疫らしくはない。嗚呼、心配をかけてしまっている。当たり前のことをひしひしと思い知ると、申し訳なさがますます募った。

「ちょっと、あの、斬島さんに……」
「斬島? 今は食堂にいると思うけど」
「はい……。でもあの、お昼ご飯中だから、此処でお待ちしようかと思って」

だから大丈夫です。と、笑うなまえだが、顔色の悪さのせいで何が『だから』で『大丈夫』なのか分からない。当然佐疫もそんな科白1つで納得する筈も無い。談話室か何処かでの休憩を提案しようとした佐疫を遮るように、やたらと元気の良い声がその場に木霊した。

「あ――ッ! なまえ!? なまえじゃんか!!」

タイミング良く――或いは悪く――この場に乱入してきたのは、任務帰りらしい平腹だった。佐疫と違いどうやら実地任務(要するに亡者を捕まえたり怪異を散らしたりする任務だ)の帰りらしい彼は、カーキ色の軍服と、得物のシャベルにべっとりと赤黒い血をつけている。普通の人間が夜道で出くわそうものなら、悲鳴を上げて気絶しても可笑しくない不気味さだ。本人が極めて明るい笑顔を浮かべている分、血の気の無さと相俟ってますます恐ろしげにすら見える。
しかし、応対したのは彼の同僚である佐疫と、16の時から彼ら獄卒と親しくさせて貰っているなまえである。高校を卒業してからは霊能者の端くれとして怪異の解決やら修行やらをこなしてきた彼女は、当然血生臭いことにも慣れている。少なくとも、本人に怪我もなく、多分返り血だろう大量の血痕を見た程度では、普段なら顔色一つ変えたりはしない。
しかし、

「……うっっ」

血の臭い――ではない。それに混じって鼻を突いた別の香りに煽られ、酷い嘔吐感がなまえを襲った。

「ふお? なまえ? どーした!?」
「なまえ!? 大丈夫かい、って平腹! そんなに揺すっちゃ駄目だろ!」

こみ上げるものを押しとどめるのが精一杯になり、走って洗面所を目指すことも出来ずその場にしゃがみ込む。全く悪意がないのは分かるが、平腹ががくがくと肩を揺すぶってくるせいで返事もままならない。自分の意思とは無関係に頭を上下させられるせいで、吐き気がますます強くなった。

「ぇ、ぅ……っく」
「気持ち悪いの? 平腹、ビニール袋か何か持ってない!?」
「も、持ってねーよそんなん!」
「だよね。じゃあ洗面器か何か……」
「あやこから借りてくる!!」

返事も出来ず蹲るばかりのなまえの耳に、辛うじて2人の声と、バタバタ遠ざかっていく平腹の足音が届く。けれど吐き気はその間もますます強くなるばかりで、全身の毛穴から嫌な汗がぶわりと出てくる。呼吸も遮るほど強く両手で口を塞ぐなまえの背を、佐疫の手が何度もさすった。

「なまえ、具合悪いなら我慢しなくて良いよ。汚しても大丈夫だから。ね?」

と、言われても、流石に此処で自身の胃の内容物をぶちまけるのは遠慮したい。ぶんぶんと辛うじて首を横に振ったなまえだが、その後佐疫が何かを言っていた、その内容までは頭が回らなかった。

「おい、これ使え」
「っ田噛! 有り難う!」
「……っ」
「ほら、なまえこれ使って。もう大丈夫だよ。ほら、ね?」

さすさすと背中をさすられたと同時に、限界が来た。口元に宛がわれたものが何かを確認することも出来ず、迫り上がってきた胃液がとうとう溢れ出てくる。
殆どものを食べていないせいで、空っぽの胃から出てきたのは本当に胃酸ばかりだった。口の中に酸っぱい味と匂いが広がり、更に嘔吐感が増す。けれどすっからかんの胃からはすぐに余分な胃液もなくなってしまい、かは、かふ、と空気だけが漏れるようになる。

「おら、口濯げ」

ぐい、と口元に押しつけられたのは、ペットボトルの口だった。ごくごく普通のミネラルウォーター。普段なら遠慮するところだが、口の中に残る匂いに耐えきれず、お礼も言えないまま流し込む。二度、三度と口の中を洗えば、気分は随分とすっきりした。

「あ、有り難う……ございます……」

相変わらず気怠げに自分を見下ろす田噛に、緩慢な動作で頭を下げた。吐瀉物をぶちまけてしまった黒いビニール袋(現世にある大手CDショップのロゴが印字されている)の口を結んでいる佐疫に「すみません」と謝れば、「気にしないで」と微笑まれた。

「おい、なまえ」

まだ燻っている脱力感に立ち上がれぬままでいると、不意に田噛がしゃがみ込んで、なまえと視線を合わせた。相変わらず半目気味の彼の瞳は今日も鮮やかなオレンジ色で、まるで夕日を逆さまにしたようだった。どうやら彼は休暇だったらしく、今時の若者に混じっても違和感のない、デニムのジャケットとTシャツ、それから細身のパンツを身に纏っていた。

「今何で吐いた? 血臭か?」
「い、いえ……」

なまえが吐き気を覚えたのは、平腹がべっとりつけていた血ではなく、煙の臭いだった。煙草の煙。恐らくは肋角の部屋からの報告帰りなのだろう平腹には、肋角が吸っている筈の、煙草の香りがしっかりと付いていた。
普段であれば気にならない匂い。寧ろ、どちらかといえば苦みの中に安堵を覚えるくらいで、なまえ自身も決して嫌いではなかった筈。なのに今日、過敏に反応したなまえの嗅覚は、微かに香るばかりのそれによって凄まじい嘔吐感をもたらした。

「熱っぽいな」

煙の匂いが、と弱々しく申告したなまえの額に、田噛の冷たい手が当てられる。

「飯食ってるか。体重落ちてるだろ」
「あ、あんまり……」
「胃が空っぽじゃねえか。一体何日まともに食ってない?」
「っ……食欲、なくて……」

ごにょごにょと言い淀むなまえに、しかし、『特務室』指折りの明晰な頭脳を持つ彼は、何か思案するように顎を己の指で撫でる。感情のこもらない金赤色に、いたたまれない気持ちを抱いてしまう。思わず身動いだそのとき、

「なまえ?」

食堂の方から近づいて来ていた気配に気づいたのは、声をかけられた後だった。

「来ていたのか? そんなところでどうした?」
「あ……」

振り返らなくても誰か分かる、声の持ち主。普段であればぱっと振り向いて駆け寄るところなのに、今はとてもそんな気持ちになれない。声の主――もとい斬島は早歩きでこちらに近づいてくると、座り込んだままのなまえの顔を覗き込もうとした。

「具合悪いんだと。医務室運んでやれよ」
「! 分かった」

かたかたと、意図しないところで身体が震える。頭の片隅で警鐘が鳴った。駄目だと、何処かで冷静な自分が叫んでいる。駄目だ、立て。今すぐ膝に力を入れて立て。そしてそのまま此処を出ろ。そして現世に戻れ。
何も語るな。何も悟らせるな。何も、何も知らせてはいけない。

「おい、斬島。それはやめろ」

立てるか、という問いにも答えず、いやいやと首を振るばかりのなまえを、少々強引に背負おうとした斬島が首を傾げた。流石に俯いてばかりもいられず微かに顔を上げたなまえの視界で、斬島の瑠璃色が不思議そうに見開かれるのが見える。

「決まってんだろ」

田噛の声は普段通り淡々としていた。しかしその『いつも通り』に嫌な予感を覚える。ひやり、と冷たい汗が一筋背中を伝った。
しかし無情にも――田噛が決して意地悪や嫌がらせで発言したわけではないことは分かっているが――、この期に及んで隠そうとしていた『事実』が、気怠げな彼の口から発せられる。

「妊婦の腹に圧かけんじゃねえ。せめて横抱きにしろ」

ひゅうっと、なまえの喉が音を立てた。時が止まったような気さえ、した。

「た、がみ、っさ……」

何を言って……。
田噛を除く誰もが、ぎょっとした顔をしていた。それぞれ特徴的な色の瞳を限界まで丸くして、田噛と、そして呆然としているなまえを見比べている。そちらに眼を向けなくても、突き刺さる視線ははっきりと知覚できた。寧ろ、克明にそれが分かってしまうからこそ、視線を彷徨わせることすら今は出来ない。
頭の中の警鐘が激しさを増す。視界がちかちかと瞬いて、まるで星が飛んでいるかのようだ。空気が薄い。上手く呼吸が出来ない。指先一つ、まともに動かせない。

「なまえ、母ちゃんになんのか!?」

そして、いつの間に戻ってきたのか、屋敷中に響くような平腹の大声で、駄目押し。
衝撃のあまりか硬直したのだろう斬島の視線を感じながら、自分の視界が捻れて歪むのをなまえは感じた。そして、まるで眠りに落ちるときのように、意識があっという間に薄れて。

――そこから先は、もう覚えていない。

prev next
bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -