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君しか見えない、貴方しか見えない
空間にあけた『穴』をくぐり、現世に降り立つ。美しく磨かれた内廊下に足を付ければ、コロン、と履いた下駄が音を立てる。背後には外の光を取り入れるための大きな窓。真正面には、黒く磨かれた大きな扉。部屋の番号を念のため確認したのち、斬島は伸ばした人差し指でインターフォンを押した。
ぴんぽーん、という、少々控えめな音が聞こえる。向こうにいる部屋の主の足音は聞こえない。向こう側の防音設備がしっかり整ってるせいで、中に人がいるかどうかも良くは分からなかった。
……留守だろうか。斬島は少しだけ懸念する。今日は特に出かける用事は無いと聞いていたが、それでもちょっとした買い物くらいはするだろう。急な用が発生した可能性もある。待つことは別に吝かではないのだが、しかし、自分を待たせたということが分かれば、『彼女』はそれを酷く気に病むだろう事は目に見えていた。

「斬島さんっ……!」

しかし幸いなことに、斬島の懸念は杞憂に終わった。がちゃん、と鍵を開ける音がして、いつもより少し勢いよく開いた扉から覗いた少女のかんばせ。慌てた表情の中に隠しきれない喜色を滲ませている彼女、なまえに、斬島もほんの僅かに眦を緩める。

「ごめんなさい、ちょっと取り込み中だったので」
「そんなに気にするほどのことじゃない。それより、邪魔をしても構わないだろうか」

僅かな間であっても、玄関先で斬島を待たせたことに恐縮する彼女に尋ねれば、僅かな隙間を作るばかりだった扉が大きく開かれた。

「勿論です、どうぞ」

散らかってますけど、と苦笑するのはいつものこと。しかし残念ながら――というのも妙だが――斬島は彼女の家が散らかっている様を見たことは一度も無い。別段物が少ないわけでもないのに、である。
……平腹辺りは少し見習った方が良いだろう。足の踏み場に困るほど、部屋でゲームやら漫画やらをその辺にほっぽり出している同僚を思い浮かべた斬島は、来客用のスリッパを出すなまえに聞こえないよう嘆息した。

「お茶、すぐに煎れますね」

ぱたぱたと小走りでキッチンに直行するなまえの背に、「気を遣わなくて良い」と声をかけるのは既に諦めている。気を遣っている訳ではなく、あまり家に人を上げることのないなまえには、来客というものが何だかとても嬉しいらしいのだ。「私が好きでしてるんですから、どうか気にしないでください」とにっこり、そしてきっぱり言い切られてしまえば、斬島もそれ以上何かを言うことは出来ない。もとより口は上手くないし、出迎えられる斬島自身としては、彼女の美味い茶を飲めるのはそれなりに楽しみだったから。

「……」

取り敢えず、食事をするときに使う木の椅子ではなく、テレビが観られるように設置された革張りのソファに腰掛ける。テレビの正面に1つ、そして小さなテーブルを挟み、左右に1つずつ設置されたそれらは柔らかく、浅く座っていてもずるずると身体が沈み込んでしまう。少しだけ落ち着かなくて身動いだ斬島は、背の低いテーブルに広げられた『それ』に、ほんの少しだけその目を丸くした。

「これは……」

少しだけ薄茶がかかった、白い布。そっと手で触れれば、麻らしい少し粗い手触りを伝えてくる。丸い刺繍枠で固定されたその中心には、半分ほど出来上がっている、水色の小花が幾つも咲いている。そこから伸びている糸は花と同じ色で、先には少し太めの針が繋がっている。

「あっ!」

盆に2人分のお茶と、茶菓子だろう何かの包みを載せて戻ってきたなまえは、斬島が手に取っていた布を一目見て早歩きになった。流石に何もないところで転んだりすることはなかったが、見ていて少し危なっかしい。

「ごめんなさい、片付けもしてなくて……」
「いや、問題無い」

日本人には珍しい、淡い色の瞳が、うろうろと斬島の手に収まった布地と、自分が持ってきた盆を行き来する。迷った末に取り敢えずお茶だけは出そうと結論づけたらしい彼女は、盆から湯呑みを取ってまず斬島の前に置いた。

「見てもいいか?」
「え、あ……はい、まだ出来かけですけど」

少しだけ戸惑ったものの、なまえがきちんと了承したのを確認し、斬島は取り付けられていた刺繍枠を布から外した。折りたたまれていたそれを広げる。なまえは茶菓子の包みを開け、中から黄粉や抹茶の粉がたっぷりかかったわらび餅を取り出していた。

「……!」

広がった布には、色とりどり、種類も様々な花が、他に幾つも咲いていた。日の当たる方向なのか、飛びださんばかりにそっぽを向いている向日葵。その隣で、横向きになって咲いている橙色の萱草(わすれぐさ)。中央には眼にも鮮やかな曼珠沙華が咲き誇り、それを挟んだ向日葵の反対側では、菖蒲の花が深い青色をたたえている。その菖蒲を中心に咲いているのは、まだ出来かけの、淡い水色の小花――後でなまえ自身に尋ねたところ、デルフィニウムというらしい――が固まった房。不自然に空いているスペースがまだあるが、そこにはこれから異なる花々が開くのだろう。
よく見れば季節感のない、それ故に全くもって統一性のないモチーフ達ではあるが、その賑やかさに斬島は何となく好感を持つ。繊細な刺繍に少しずつ飾られる麻布の縁を、竹刀ダコのある指でそっと撫でた。

「器用だな、お前は」

花々の鮮やかさもさることながら、これを針と糸だけで作り上げたのだろうという、当たり前と言えば当たり前の点に、斬島は惜しみない称賛を送る。それを受けたなまえは、照れくさそうに頬を染めて微笑んだ。

「完成してないから、ちょっと恥ずかしいです」
「そうか? 仮にこのままでも十分美しいと思うが」
「……そうですか? 有り難うございます」

まあ、自慢するようなものじゃないですけど。などと謙遜してなまえは言うが、もっと堂々としても良いだろうと斬島は思う。お世辞にも器用とは言えない自分から見れば、佐疫や田噛が自在に奏でる音楽と同じくらいに未知なる、そして遠い世界だ。自分に出来ないことを出来る者は、それだけで尊敬に値する。……もっとも、『倫理に外れたものでなければ』という注釈がつくが。

「手というものは不思議だな。形が似ていても、同じ数だけ指があっても、出来ることがまるで異なる」

斬島は、刀を使うことにかけては一流だ。それは自他共に認める事実である。自分が一番だなどと自惚れたことは一切無い。しかし、長いこと一緒に任務をこなしてきた相棒カナキリを持ってすれば、大概の者は敵にもならない。亡者の肉を骨ごと断つことも、丸太を真っ二つにすることも、分厚いガラスの板を罅一つ入れずスライスすることも出来る。それは当然ながら、刀を使えない者達には出来ないことだ。斬島の手は、刀の切れ味も、適切な力加減も、その場に応じた最善の太刀筋も知っている。
しかし彼の手は、例えば楽器を弾くことに関しては全く役に立たない手だ。水が流れるような優雅さで鍵盤を叩く佐疫や、普段の気怠さが嘘のように力強く弦を弾く田噛のようには、斬島の指は動いてくれない。そういう動きを学んだことがないから当然といえば当然だが、それでもやはり不思議だった。同じ男の、同じ獄卒の手であるというのに。

「楽器を弾きたいんですか?」

素朴な問いに、斬島はいやと首を横に振った。別に、そういう意識はない。音楽は嫌いではないが、聞いているだけで満足できる類のものだった。自分で何か弾こうとしても佐疫達のようには出来ないだろうし、向いていないことに対する後ろめたさもない。時々ふたりのセッションを耳に出来れば、それでもう十分だ。

「触れても良いか?」
「……どうぞ」

少々唐突過ぎたなと、口にしたあとで思った。なまえも少々面食らったようだったが、すぐに表情を戻して自分の右手を斬島に寄越した。まるで躾の行き届いた子犬が『お手』をするかのように、斬島の手のひらになまえの右手が置かれる。
なまえの手は小さかった。斬島より一回りどころか、二回り近く面積がない。肉も薄く、触れる骨も頼りなげだ。色は白く、青い血管が手の甲に透けている。桜色の爪は艶々とした卵形だが、やはりそれも薄っぺらい。ほんの少しだけ指先がかさついているが、皮膚はきめが細かくて柔らかい。もう少し力を込めたら握りつぶしてしまうような気がして、知らず知らずのうちに、何処か腫れ物に触るような手つきになってしまう。

「小さいな」

思わず口にすれば、なまえは小さく噴き出した。

「そりゃあ男女差もありますしねえ。でも、斬島さんの手はかたくて大きいです」

ぱし、となまえの左手が斬島の右手を握った。暫く好きにされていた右手も、一緒になって斬島の手に出来た胝や、少し出っ張った骨、血管、そして爪を順繰りに撫でていく。不快な感触ではないが、こそばゆい。

「くすぐったい」
「ふふ、すみません。じゃあ……」

ただ撫でていただけの手が、少しその動きを変えた。両手でやんわりと斬島の片手を握り、緩く広げさせる。そして両方の親指で、ぐ、ぐ、と手のひらをまんべんなく押しにかかる。まずは人差し指から小指の付け根。そこから順々に下へと下がっていく。骨と骨の間のくぼみに丁度圧がかかると、じわりとした感覚が全身に走った。

「ん……っ」
「あー、斬島さん結構凝ってますねえ」

ちゃんと休まなきゃ駄目ですよ。と苦笑気味に言いながらも、なまえは手を止めない。親指の付け根下にある膨らみを少し強めに押していき、指の付け根の関節を一本一本ほぐしていく。水かきのあたりを軽く刺激されれば、無意識に張っていた肩の力が抜けた。

「痛かったら言ってくださいね」

と、前置きされた後に、ぐーっと親指を外側に曲げられる。関節に無理をさせないくらいの力で反らされるのが、不思議なくらい気持ちが良い。他の指も順番に同じようにされ、最後にぽん、と手の甲を叩かれた。

「はい、おしまいです」

お疲れ様でした。にこりと笑んで、あっさりと斬島の右手を解放するなまえ。あまりにもあっけなく離れた温もりに、斬島は我知らず瞠目する。やや遅れて、物寂しいという感情を脳が認識する。感情よりも素早かった脊椎反射に動かされた斬島の手は、そんな脳を置き去りにして、離れようとしたなまえの片手を捕まえていた。

「斬島さん?」

大人しく捕まってくれた左手をそのままに、なまえが首を傾げる。瞳と同じに色の薄い髪が、ふわりと揺れる。斬島は答えず、ただ自分のが捕まえたなまえの手をじっと見下ろした。
小さな手。細い指。薄い肌。柔らかい骨。何もかもが自分と違う。なまえの言う『男女差』もさることながら、全体的に肉付きが薄く頼りないなまえの手は、多分同世代の少女達と比べても脆い方に違いない。
しかし、この手は何もない白い布の上に、針と糸で鮮やかな花々を咲かせる。本人も知らないうちに強張っていた斬島の手を、優しく揉みほぐす。美味い食事を作り、茶を煎れる。

「魔法のようだな、お前の手は」

稚拙な表現だとは自分でも思ったものの、それ以上に適切な言葉もないような気がした。
こんなにも小さくて、こんなにも薄い手。けれどそんな脆弱なものに、不思議なくらい癒される。――堪らないくらい、愛しさが沸く。

「ひゃっ」

小さく手の甲に唇を落とすと、短い悲鳴が聞こえた。なまえにとっては思いがけない不一だったようで、顔を上げた先の彼女は、薄紅色に頬を染めている。大きく澄んだ瞳が二つとも丸くなっていて、まるで鏡のようだった。

「……びっくりしました」
「そうか、すまない」

ハの字眉にしたなまえが、不満げに唇を尖らせた。出会った頃は見たことのなかったそんな表情を、ごくごく当たり前に見せてくれるようになったのは、果たしていつ頃からだっただろうか。思い出そうとして、しかし斬島はすぐ止める。思い出したところで詮無いことだと分かっていた。それよりも、少しだけ突き出された紅色の唇がとても甘そうで、意識はすぐそちらに奪われた。

「なまえ」

柔らかそうな頬に、先程散々ほぐされた手を添える。もう片方の手は、相変わらずなまえの左手を握ったままだ。きめ細かな皮膚は、少しだけ熱い。血液が集まってきているらしく、目尻の辺りまで仄かな桃色に染まっていく。

「もう……っ」

捕まっていないなまえの手が、自身の頬を包む斬島の手に添えられた。何処か悔しげな顔をしながらも、潤んだ眼が閉じられる。
言葉はそれ以上無かったが、これ以上無い『了承』の返事。
少女の無防備な唇を、斬島はそっと食んだ。――時が止まる。ほんの刹那の間だけ。
舌も絡まない、ままごとのような口づけ。稚拙で幼稚。けれど他愛も無い、まるで子供向けの少女漫画のようなそれに、驚くほどの多幸感が沸き立つ。凍えていた手足がぬるま湯に浸された時のように、じわじわと競り上がる心地の良さが堪らない。
唇を重ねる瞬間に閉じていた目を開けば、少し遅れてなまえも瞼を押し上げた。甘そうに濡れた双眸。そこに、普段と大して変わらない……けれど少々血色の良い顔をした斬島が映っている。瞳孔が微かに開いて見えるのは、興奮故か、気のせいか。

――嗚呼。

手だけじゃないな。……そんな阿呆のような考えが、火照った頭に浮かんだ。
小さくて脆くて頼りない手。それだけではない。触れていた唇も、高い体温を伝える頬も、濡れて輝く瞳も。

「……私の手ごときが、魔法なら」

この、少しだけ震えた声も。全部。そう、全部。

「斬島さんはきっと、体中が全部魔法で出来てるんですね」

だって、私をこんなに幸せにしてくれるんですから。

「? 斬島さん?」

ぱちくりと青い眼を瞬かせた斬島に、なまえが首を傾げた。何か拙いことを言ったかと少しばかり表情を曇らせたので、慌てて「違う」と首を横に振る。

「俺の言いたいことを、お前が先に言うからだ」

真面目にそう言えば、きょとんとされた。ややあって言葉の意味を遅れて理解したらしいなまえは、じわり、と頬の桃色をもう少し濃くした。

「斬島さん」
「なんだ」

なまえの人差し指が、自身の唇をそっと突く。相変わらず言葉はないが、意味は伝わる。
断る理由など、当然なかった。

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