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後編
嗚呼そうだ、私はあのまま気絶して、それで。
ようやく記憶をたぐり終えたなまえは、嗚呼、と天を仰ぎたくなるのを必死に堪えていた。みっともなくぼろぼろ泣きながらでも、口がまともに動かなくても、頭の何処かはいつだって冷静だ。
幸いと言おうか、意味もなく溢れていた涙と、ただただ衝動のままに吐き出していた謝罪は、間もなく打ち止めになった。喉が渇いて、熱くて堪らなくなり、声を発することすら辛くなったためだ。はく、はく、と時折口の開閉は出来るものの、言葉を紡ぐには足りない。何一つ思うとおりに身体が動かないのは、もう自分の身体が『自分だけの』ものでないからだろうか。

「大丈夫か……?」

覚束ないながらも、背中をさすってくれる斬島の手は優しい。体温が高くないのであまり温かくはないが、強すぎない力で何度も背を撫でられると、堪らない安堵感を感じる。けれど今ばかりは、どうしようもない焦燥と、激しい悲しみに似た言いようのない感情が溢れてくる。

「すまないが、確認させてくれないか」

それでも何とか落ち着きつつあったなまえが短い呼吸を繰り返していると(情けないことに、今すぐ立ち上がって帰るには余力が足りなかった。ついでに体調も最悪だった)、困惑の滲んだ声音で斬島が言葉を紡いだ。

「お前が……その、」

いつもの彼らしくない、芯がぶれたような、煮え切らないような声だ。そんな戸惑いを覚えさせているのが自分という事実に、また情けなさと申し訳なさがこみ上げる。言葉の続きを聞くのが怖くて、耳を塞ぎたくなるのを辛うじて堪えた。

「子を孕んだというのは、本当、か?」
「……っっ」

喉の奥から迫り上がってこようとしたのは、嗚咽か、絶叫か。けれどからからの喉は相変わらず声を発しない。但し、びくりと大袈裟に身体を震わせたなまえ自身が、何よりもその問いを首肯した。

「――そうか」

静かな、静かな声。決して疎んだ響きはない。落ち着いた、いつもの声だった。
……涸れたと思っていた涙が、じわりとまた滲む。涙が出ると、皮肉にも声まで出てきた。けれど、意味の通じる言葉を吐くことは出来ない。掻き毟りたくなるほど胸が痛い。心臓が口から飛び出てきそうだった。いっそ飛び出してくれば、少しはマシになるのかも知れない。

「っぁ……」

田噛が言ったことは、正しい。ここのところ熱っぽさと気怠さが続いて、あとは何をしていても眠くなることが増えた。ありとあらゆる匂いに敏感になり、特に煙草の匂いが駄目になった。温かい食べ物やお風呂の湯気に身体が過剰反応し、ちょっとしたことで吐き気を催すようになった。そして、心なしか膨らんだ胸部が張って、痛みを覚えるようになったのが、1ヶ月ほど前。極めつけに月経が来なくなったことに不安を覚えて、とうとう病院に行ったのがつい数日前のこと。

――2ヶ月ですね。おめでとうございます。

若い女性の医者によって投下された爆弾の余波は、未だになまえの中に残ったままだった。

「きり、しまさ、ん」

診断が降りてから今日まで、殆ど我を無くして過ごしていた。何をしても見に入らず、何を見てもきちんと認識できなかった。学校にまだ通っていたら、無断欠席も上等だっただろう。食欲がないことに甘えてゼリー型の栄養食を辛うじて摂取し、まともな家事も出来ずに過ごした。それでも糠床を混ぜることだけはやめなかったのは、我ながら可笑しいやら馬鹿馬鹿しいやらだった。

「ご、ごめ、ごめんなさ、い」

こんなつもりじゃなかった。こんなにみっともない真似をする気はなかった。こんなに迷惑をかけるなんて、考えてもみなかった。
2ヶ月ですね。おめでとう。そう言われても、どうしたら良いのか分からなかった。子供。赤ん坊。それが自分の腹にいる。とても実感などわかなくて、けれど、告げられた事実を何かの間違いと思い込むことも出来なかった。
「赤ちゃんはコウノトリが運んでくる」がお伽噺だなんてことは、とうに知っている。中学校で習った保健体育は、それなりに覚えている。その上で、『そういう行為』だって、今目の前にいる青年と経験済みだ。けれど自分の中で、その事実1つ1つがきちんと結びついていなかった。たとえ避妊をしていようが、殆ど迷信だという安全日を選んでいようが、『成るように成る』ものだという意識が、全く働いていなかったのだ。

「ごめんなさいぃ……っ」

全くの予想外。そして予定外。自らの迂闊さと無防備さに、此処まで愕然としたのは初めてだった。たとえ好いた相手でも、相手が自分を好いていてくれていても、そこに『別の命』が絡むとなれば綺麗事では片付けられない。自分もそうだったが、斬島もきっと、『こんなこと』は想定していないと分かっているから、尚更だった。
何も考えず、無責任に、いつの間にか宿していた命に対してどう向き合うべきかも分からず、殆ど着の身着のままで汽車に乗ったのは今朝のこと。時折漂ってくる煙草や食べ物の匂いにふらつく足を叱咤して、何度も休憩を挟みながら、何とか獄卒の屋敷にたどり着いたものの、いざ斬島に会おうとすると足が竦んだ。
会って、何を言うべきなのかも分からなかった。何を言おうとしたのかも忘れた……否、最初から考えていなかったのだろう。ただただ、衝動のままに地獄くんだりまで来て、なまえは途方に暮れた。ほんの僅かに漂ってくる食べ物の匂いを言い訳に、立ち往生。佐疫が声をかけてくれなかったら、結局何もせずに踵を返しただろう。
けれど、帰ってしまった方が良かったかも知れない――涙を落としながら、なまえはぼんやりそんなことを考える。自分がこんなにも情けなくなるとは、考えてもみなかった。別の命が腹にいる。言葉にすればそれだけの事実に、どうして良いのか分からないなど。

「どうして泣く?」

結局謝るしかしないなまえの背に、おもむろに斬島の腕が回る。幾筋もの涙の跡が残る頬に、短く切られた彼の黒髪が柔らかく触れた。びくんと全身を硬直させたなまえに構うことなく、片方の手でなまえの髪を幾度も撫でた。腕の力が普段より弱いのは、腹に負担をかけないためだろうか。

「お前が何故そんなに泣いて、何をそんなに謝るのか、皆目見当が付かない。お前は何も悪いことなどしていない。違うか?」
「っ、でも……」

体温の低い獄卒の、けれど服越しに伝わる温もりに安堵する。全身が弛緩して、心のままに泣き叫びそうになる。それを押し殺そうとしたためか、吐いた言葉は上擦っていた。

「お前がこんなにも嘆く理由が分からない」

そうっと身体を離して、斬島がなまえの顔を覗き込む。涙できっと酷いことになっているだろう顔を見られたくなくて――実際はもう目を合わせる余裕もないのだが――、なまえはさっと俯いた。涙の乾いた跡が光る、まだまだ濡れ続ける頬に、青年の大きな右手がそっと添えられる。

「俺に人間のことは分からない。女心とやらにも疎い。お前の気持ちを察してやりたいが、出来ない。今は特にだ。お前が何を考えているのか、何を憂えているのか、何一つ察しが付かないんだ」
「あ……」
「教えてくれ、なまえ。お前が悲しむ理由は何だ? どうしたら涙が止まる? お前の欲しい言葉は何だ? 俺は何をすれば良い?」
「……」
「何故何も言わない? 俺では力不足か?」

違う。違う。ここぞという時に引っ込んだ言葉の代わりに、首を強く横に振った。自分でだって、どうしたら良いのか分からないのだ。何が最善かも分からず、妊娠の事実から逃げるように此処まで来た。斬島に会いたかった。会ってどうするかも考えず、結果あの様だったのだ。今だって混乱していて、斬島に願うことなど考えも付かない。斬島の方こそ何一つ悪く無いというのに、こんなにも困らせている。自分の至らなさに反吐が出そうだ。
喉と胸をかきむしりたくなるのを、拳をきつく握って堪えた。好い加減打ち止めになってもおかしくない涙が、またじわりと目尻に溜まったそのとき。

「お前の懐妊を知って浮かれるばかりの俺に、出来ることは何もないか?」

カチッ、と、時計の針の動く音。

「……え?」

溢れそうだった涙が、一瞬で引っ込んだ。目と口をぽかんと開けて、なまえは恐らく今日初めて、斬島の顔をまともに見返す。刹那、目に飛び込んできた相手の様子に、少し充血した双眸をますます丸くした。
海の底を思わせる瑠璃色が、微かに潤みを残していた。目尻がほんのりと紅色なのは、そこを何度も手で擦ったからだろうか。よくよく見れば、鼻の頭も少々赤らんでいる。――それはまるで、子供が泣いた後のようで。

「え?」

間抜けな声が、また唇から零れた。

「あ、の……斬島、さん?」
「何だ」
「その、あの……えと」

唇が震えた。喉が渇く。かふ、と呼気が漏れた。

「よろこんで……くれる、ん、です……か?」

恐る恐る問うたなまえに、何を馬鹿なと言わんばかりに見開かれた、斬島の目。

「お前と俺の子だろう? 喜ばない訳がない」

まるでこの世の真理を突き止めたかのように、大きくもないその声は力強かった。
なまえは瞬きも忘れて斬島を見つめる。その視線の先で、不意に斬島の目が先に逸れた。何処か決まり悪げに、目線が彼の足下を彷徨う。

「正直に言うと、自分でも引くほど浮かれている。お前の体調が普段通りだったら、このまま抱き上げて屋敷中を走り回ってしまいそうだ」

真面目な顔で、恐らく本人は至極真面目にものを言っているのだろう。そのまま鉄面皮と称される面差しを眺めていても、「冗談だ」という言葉は出てこなかった。

「人間のお前には、俺達の与り知らぬ事情や葛藤もあるだろう。妊娠の苦しさも、男の俺には理解しがたい。だが、俺だけの気持ちで言うなら、こんなに嬉しいこともない。そして、俺はお前にも喜んでいて欲しい。お前がこんなにも嘆いているというのに、無理な願いなのかも知れないが」
「っ、ち、ちが……!」

新しい涙がまた浮かんだ。喉がまた熱くなる。

「違うん、ですっ……わっ、わた、私だって! う、う、うれしくない、わけ、なぃっ!」

なまえは、しゃくり上げながら舌を回した。自分が今、どんなにみっともない顔をしているかにも構わず、ぎゅうっと斬島の服の袖を掴む。

――2ヶ月ですね。おめでとう。

本当は。
嬉しくないわけがなかった。喜ばないわけがなかった。心の底から望んだ相手との、正真正銘血の繋がった命が宿った。それも正真正銘、彼と自分の血を継ぐ存在。誰にも否定されない、誰にも文句を言われない血の縁が結ばれ、別の命を成した。
嘆く理由もない。否定するなどとんでもない。『家族』を知らず育ったなまえにとって、それが、どんなに嬉しく、喜ばしく、そして幸せな気持ちにさせてくれたことか。けれど。

「う、うれし、うれしいんです。でも、でもっ、なんか、考えちゃって……! 余計なこととかっ、変なこととか……や、やめようって思っても、どんどん出てきちゃって……!」

高校は卒業したものの、まだ未成年である自分の未熟さへの懸念。若すぎる母親に対する、世間の目。自分だけなら何の問題も無いが、いずれ生まれる子供自身、良くしてくれた伯父叔母や従兄弟たちにも迷惑が及ぶやも知れない。ただでさえ絶不調の自分に、十月十日も赤子を守る力があるのかという不安。妊婦が注意すべきことも、してはならないことも、推奨されることも、殆ど知らない。『母親』を知らず今まで生きてきた自分が、まともな人の親になれるとも思えない。
そして何より、斬島がどんな反応をするのかを考えるのが怖かった。

「めいわくかな、とか……き、き、きらわれたら、とか……っ」

彼が自分を好いてくれていると分かっている。真面目なひとだと分かっている。獄卒という、屡々無慈悲無情を求められる仕事をしながらも、何処かとても慈悲深いのだと知っている。
優しい、優しいひとだ。だからこそ怖かった。真面目で優しいこのひとに、要らぬ重荷を背負わせてしまうのではないかと。きっと考えてもいないだろう『子供』の存在に狼狽え、困惑し、けれど何も言わずに責任を負おうとするのではないかと。

「有り得ないな」

いっそ独り逃げて産むという選択肢を選べれば良かったのに、そんな度胸もなかった。そのくせわざわざ斬島を訪ねておきながら、自分の口から事実を告げる強さも持てなかった。

「迷惑だなどと思う筈も無い。嫌うような余地も無い」
「……」
「なまえ、俺は嬉しい」

手前勝手な不安に押し潰されて、息をするのがやっとだった。怖くて怖くて堪らなかった。

「愛したお前の腹に、俺とお前の子がいる。こんなに嬉しいことは無い」

そんな恐怖を抱くこと自体が失礼なのだと、なまえは今、ようやく思い知った。

「う、ぁ……っ」

何て馬鹿な事を考えていたんだろう。自己嫌悪で消えてしまいたいと思った。
自分勝手に悩んで、うじうじと言葉を詰まらせて。斬島の真面目さも愛情深さも知っておきながら、不安のあまり誰彼構わず迷惑をかけて。

「ごめんなさっ……!」

このひとを、こんなに優しいこのひとを信じ切れず、疑った。勝手に悩んで、心配ばかりかけて、困らせた。
何て無礼。何て恩知らず。悪阻とは違う吐き気を覚えたのは、自分自身の汚さのせいだ。申し訳なくて堪らない。優しさも慈しみも情愛も山のように受け取っておきながら、肝心なときに信じ切れないなど。

「謝るな」

自身の浅慮さに絶望するなまえの目尻を、斬島の親指が拭った。優しい手つきではあったが、何度も擦ってしまった目元が少しひりついた。

「もう謝るな。謝ることなど何もない」

額に落ちた唇は少し冷たく、かさついていた。次いで、ちゅ、と音を立てて涙を吸われる。やけに可愛らしい音だった。

「腹に触れても良いか?」
「え」
「嫌なら遠慮するが」
「っあ、あの、いえ……えと、どうぞ?」

よくわからないまま、なまえは慌てて背筋を伸ばす。首だけ傾けて下を向けば、当たり前だが衣服に包まれた自身の腹部に目が行った。まだ膨らみどころか、中に何かがいるのだという違和感もない。薄い皮と肉しかないそこに、まるでガラス細工にでも触れるような手つきで斬島の手があてられる。

「……よく分からないな」

真面目腐った顔で呟いた一言に、笑いがこみ上げた。思わずくすりと笑えば、むっとされるかと思いきや、「やっと笑ったな」と安堵される。本当に心配をかけていたのだと、また少々申し訳ない気持ちになった。

「なまえ」

改めて呼ばれた名は、少しだけ硬い響きを孕んでいた。小さく首を傾げたなまえの前で、斬島はやおら居住まいを正す。

「順番が前後して申し訳ないが」

こほん、と咳払い。

「精一杯幸せにする。だから、俺と一緒になってくれ」

瞬きを1つ。少しの間。真っ直ぐにこちらを見つめる、深い瑠璃色。

「斬島さんも、幸せになれますか?」

零れた問いは、不思議と震えてはおらず。

「お前ほど俺を幸福に出来る者もいない」

耳の端を少しだけ赤らめた斬島が、それでもあんまり真面目な顔で頷くものだから。
――ほろりと零れた涙は、今度は一筋だけ。

「不束者ですが、よろしくお願いします」

情けない泣き笑いを隠すように、なまえはそっと頭を垂れた。

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