Green Eyed Monster | ナノ
▼ TEST

ベースとなるドライジンを40mlに、ドライベルモットを15ml。このふたつの材料だけをミキシンググラスに入れてステアし、カクテルグラスへと注ぐ。此処にオリーブの実を飾れば完成。
味もアルコール度数も千差万別のカクテルは、当然作り方もそれぞれ違う。作りにくいものもあれば作りやすいものもある。そして作りやすいものであれば簡単ということもでもなく、シンプルであればあるだけ作り手の技量がそのまま出てしまうのだ。

「マティーニです」
「有り難う」

通称『カクテルの王様』と呼ばれるマティーニなど、その「バーテンダーが試されるレシピ」の最たるものである。映画『007』から生まれた『ボンド・マティーニ』に代表される派生レシピも数多くあるが、マティーニ自体は実にシンプルで、それ故に店によって全く味が違うのだ。ある意味では、バーの名刺代わりとも言える。
故に初見の客がまずこのメニューを頼むとき、『Undine』では基本的にアレンジを加えることはない。この『キノシタ』という客は一見さんではないようだが、わざわざ透流に注文してきたということの意味は此処で汲み取れる。彼は若い顔をしてなかなか通であるらしいと、透流は内心でそっと舌を巻いた。

「……うん、美味しい。マティーニでこんなに美味しいの呑んだのは久しぶりだ」
「恐れ入ります」

にこりと笑みを浮かべたキノシタに、そっと会釈を返す。着流し姿にカクテルグラス。ややミスマッチな印象を最初は持っていたが、それは意外な程に似合っていた。『絵になる』という表現がぴったりと来る。まるで映画のワンシーンでも見ているかのようで、透流はもう一度こっそりと舌を巻いた。

「狩野さん、良いお弟子さん捕まえたんだね。これならもっと早く教えて欲しかったよ」
「何を言うんだい」

そしたらもっと早く来たのにさ。冗談めかしてそんなことを言う青年に、狩野が苦笑いで応える。基本的に客相手に敬語を崩すことはまずもって無い狩野だが、彼に対してはその限りではないようだ。本当に昔からの馴染みであるらしい。年齢にも共通点の無いふたりだが、一体何処で知り合ったんだろうか。

「水瀬さん、こっちサイドカーふたつー」
「畏まりました。……失礼、灰皿お取り替え致しますね」

ひらりと手を上げた客に頷き、端に座っている老紳士の灰皿を取り替える。彼はもう4年ほど前からこの店に通っている常連だ。当然透流も彼との付き合いは長いので、煙草を吸う速さも酒を飲む速さも心得ている。

「すみませんが、コスモポリタンを」
「はい、ただいま」

コスモポリタン、そうでなければオーロラか、カミカゼ。店を出る前にウォッカを使用したやや甘めの辛口カクテルを頼むのが、この客の常である。更にこの最後の注文後、煙草を更に3本ほど吸い続けるのが通常の流れだ。
カップル客に出すサイドカーを先に作って届け、次にウォッカを取り出す。その間に丁度別の客からモスコミュールの注文が入ったので、こちらはコスモポリタンと同時に作ることにした。
作ったカクテルを順番に出し、次はチェイサー。灰皿を確認し、次のオーダーを聞く。ステアにシェイク。談笑をしながら。

「すみません、お会計お願いします」
「畏まりました」

バーの多くの例に漏れず、『Undine』には時計が無い。しかしそれでも常連客の来る時間と出る時間で、大体の時刻は何となく分かるのが面白い。今のあの客が会計を求めたということは、大方23時を過ぎた頃だろう。透流は営業スマイルの下でそう計算する。
23時となれば、そろそろ世の大人達が終電を気にする時間だ。つまり、

「あっ、もうこんな時間!」
「すみません、こっちも会計を」
「はい、ただいま」
「あ、こっちもお願いしまーす!」

1人が時間を気にし出せば、あとは2人、3人と後に続いていく。主に明日も仕事があるサラリーマンやOLなどは、バーという場所であっても最後は結局時間を考えなければならない。難儀なことだが、これが現実だ。日常と現実から僅かばかり逃避し安らいだ客達は、しかしそれでも必ず帰っていく。

「また来るね、透流ちゃん」
「はい、是非」

ひらひらと手を振る赤ら顔の客に、笑顔を向ける。まだ勤め始めたばかりのころ、表情筋を動かすのが苦手だった透流が鏡の前で死ぬほど練習した顔だ。下品な印象を与えないよう、けれど不自然でない笑顔の作り方。真面目な話、カクテルのレシピを覚えることよりも遙かに苦労した記憶がある。

「じゃあ、おれもそろそろ帰ろうかな」

あらかたの客が帰ってしまった後、まるで思い出したかのようにのんびりとした声が店に響いた。汚れた灰皿を取り除き、カウンターを拭きながらそちらを見やると、あのキノシタという青年が袂から財布を取り出しているところだった。

「ご馳走様、美味しかったよ」

狩野に金を渡して立ち上がった彼が、へらりと気の抜けた笑みを向けてくる。美味しかった、というその顔はあまり酒精を得ておらず、酔っているという印象は受けなかった。
……だが、それもその筈。透流の記憶違いでなければ、彼は最初に透流が出したマティーニ以外、一切注文をしていない。マティーニそのものはアルコール度数の高いカクテルであるが、それ故に量も少ない。狩野の口振りからどうも飲んべえな方であるらしい青年が、満足する量では本来ない筈だ。

「有り難うございます」

などとグルグル考えつつも、それをおくびに出さないのはプロ根性以外の何物でも無い。カラン、カラン、と来たときと同じように粋な下駄の音を立てて去って行く、広い背中。それを見送り終えた後、自分と狩野以外誰もいなくなった店内で、透流はそっと溜息を吐いた。
幾ら客の言葉であっても、否、客の言葉であるからこそ、「美味しかった」という言葉だけでは素直には受け取れない。特に日本人であれば、たとえ口に合わなくても面と向かって「不味かった」などと言ってくる客は殆どいないからだ。
無言で残していくか、或いは我慢して呑んで二度と来なくなるか。彼は透流のマティーニを全て呑んだけれど、それでもそれ以上注文をしなかった。それはつまり。

「おや、どうしたんだい?」
「……すみません」

まだ営業時間だよ、という副音声が聞こえた気がするのは、決して気のせいではない。たとえ客が誰もいなくなっても、店が開いている時間は客の前に立っていると思わなければならない。
透流は軽く頭を振った。落ち込むのは、店を閉めた後でなければ。

「そんなに心配しなくて大丈夫だよ」
「え……」

カウンターの内側に戻った透流の耳に、狩野がそっと囁く。きょとんとして振り返ると、彼は皺の刻まれた顔を悪戯っぽい笑みの形にしていた。

「キノシタ君はあれで酒に煩いんだ。飲んべえで何でもかんでもちゃんぽんする子なんだけどね、それでも美味しくない酒を美味しいとは絶対に言わない」
「……」
「君のマティーニは美味しい。自信を持ちなさい」

やけに自信たっぷりに微笑む狩野に、透流もつられて苦笑いをする。狩野の酒への拘りは透流こそよく知っている。それでも、1杯しか出せなかったことに対する不安は尽きず、結局透流は店を閉めて帰宅し、一寝入りするまで悶々とした気持ちに苛まれた。しかし、

「やあ、こんばんは」
「……いらっしゃいませ」

現実は透流の予想を大きく裏切り、キノシタという青年はそれから週に一度程度のペースで『Undine』に顔を出すようになるのである。

[ back to index ]

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -