Green Eyed Monster | ナノ
▼ ENCOUNTER

多くの客商売がそうであるようにバーテンダーの1日は掃除から始まる。
トイレ掃除から始まり、次は店の床掃除。カウンターは客から見えない裏側まできちんと磨き上げる。
特にカウンターの内側は絶対に不潔にしてはいけない。グラスのひとつひとつを丁寧に磨き、室内灯に梳かして指紋や曇りが残っていないことを確かめる。客が気づくか否かが問題なのではない。汚れたグラスを客に出すという行為自体が、バーテンダーの矜持に関わるからだ。
それが終われば、今度は戸棚のボトルをひとつひとつ磨き上げ、酒の種類と量を確認する。
冬でも汗が滲むほどに念入りにボトルを磨き、丁寧に戸棚へと戻す。ガラス張りのそれにずらりと並んだ、年代物の酒瓶達。酒好きでなくても圧倒されるだろうその種類と量を確認する度、何とも言えない充足感を得てしまう。

「おはよう、水瀬さん」
「狩野さん」

そうした準備をあらかた終えたとき、バーの小さな扉の向こうから初老の男が顔を出す。
年齢は分からないが、少なくとも青二才ではない。顔に刻まれた皺は壮年から初老といった具合だが、柔らかな眼差しから感じる知性や気品、何よりしゃんと伸びた背筋の美しさが、彼をまるで二十代のように若々しく溌剌と見せている。オールバックにした髪は白いが艶があり、縁の無い眼鏡が理知的な雰囲気に良く似合っていた。

「掃除は終わってます。ボトルはそちらの以外は全て磨きました。他も準備は出来てますので、確認お願いします」
「うん、有り難う」

にこりと柔らかに微笑んだ狩野が、いつも通り店の点検を始める。毎日のことだというのに、子供時分、親に成績表を見せに行ったときのことを思い出すほどに緊張してしまう。無意識に肩肘を張ってしまったのを自覚して、水瀬透流は我が身に苦笑した。

「うん、大丈夫。……今週までは大丈夫そうだけど、氷と炭酸が少し心許ないかな。今のうちに発注しておいて貰えるかい?」
「分かりました」

片付けにOKが出たら、次は一旦裏方に引っ込んで着替えをする。バーテンダー用のベストに細身のパンツ、ネクタイと黒エプロンはマスターである狩野とお揃いだ。腕時計は客に時間を気にさせないため、あらかじめ外しておく。この仕事を始めてから間もなくで短く切った髪は結わえる必要は無いけれど、前髪が落ちないように黒いピンで留めた。
着替えが終わったら手を洗い、アルコールで洗浄する。

「じゃあ、今日も1日よろしくね」
「よろしくお願いします」

味も素っ気も無い――けれどそれが良いのだ――鉄の扉にかかった札を、『OPEN』の面を表にするようひっくり返す。
20時55分……開店時間の5分前という、何ともベストなタイミング。透流は我知らずうっそりと笑みを浮かべた。

「おお、やっとか! 待ってたよー透流ちゃん」

すぐに店内に引っ込もうとした身体を呼び止める、やや酩酊を感じさせる気楽な声。聞き慣れたそれに顔を上げると、既に酒精で頬を赤くした常連が2名、うきうきとこちらへ近づいてくるのが見えた。

「いらっしゃいませ」

店の扉を開き、両名を中へと促す。
バー『Undine』の1日は、いつもこうして幕を開ける。

「取り敢えずウィスキー、ロックで」
「俺はハイボール」
「畏まりました」

バーのルールは店によって違うが、このバー『Undine』は比較的店員の自由度が高い。きちんと作れると狩野に認められてさえいれば、店員に過ぎない透流は注文を受けたどの酒を作っても叱られることはない。若い女とあって名指しで指名を受けることも多いので、この辺りはきっと狩野の気遣いなのだろう。
とはいえ狩野は柔和な物腰に似合わず、酒の味と作り方(動作の美しさや作る時間も含めてだ)、それから客への言葉遣いには大変厳しい。なので透流がカクテルの『あらかた』を店で出せるようになったのは、このたった1、2年ほどのことだ。

「アレキサンダーくださーい」
「あ、こっちチェイサー」
「お会計お願いしまーす」

ぼちぼちと客が増えてくると、当然忙しさも増す。マスターと店員1名だけの店なので席自体多くないのだが、立って席が空くのを待つ客も少なくない。

「灰皿お取り替えいたしますね」
「ああ、有り難う」

くるくると、けれど見苦しくないように気をつけて立ち回る。話し好きの客の会話に相槌を打ち、酒をつくり、会計を行う。グラスを拭いて、次の客に席を勧め、突然振られた話に求められた答えを返す。

「じゃあ、また来るよ」
「お待ちしております。行ってらっしゃいませ」

出ていく客を見送り、そして、

「いらっしゃいま……」

新しい客を、出迎える。

「どうかしましたか?」
「……失礼致しました。こちらのお席にどうぞ」

先ほど空いたばかりの席に案内したのは、若い男性客だった。初見の客。それ自体は特段珍しくはない。凝視、とまではいかないもののつい視線を奪われてしまったのは、この辺りではあまり見ないその風体のせいだろう。
基本的にスーツ姿やセミフォーマルな格好の客が多い中、彼が身に纏っているのは濃い藍色の着流しであった。年頃はせいぜい二十歳くらいかもう少し上だというのに、あまりにもその着こなしが堂に入っているのが逆にちぐはぐな印象を受けた。カラン、と響く下駄の音すら、まるで楽器のそれのように美しく響いていた。
目鼻立ちのはっきりとした、綺麗な青年だった。体格はがっしりとしていて、肩幅が広く胸板も厚い。背は190に届きそうなくらいで、黒いさらさらの髪を七三にしている。スーツ姿であれば、さぞ見栄えのするビジネスマンに見えることだろう。
けれど何より一番目に付くのは、あまり明るさの無い店内でもはっきりと分かる、その緑色をした瞳だ。カラーコンタクトにしてはあまりにも自然で、まるで湖の水をそのまま写し取ったかのように美しい。それを何とも人の良さそうな笑みの形に細めて、青年は慣れた動作でカウンターの席に腰掛けた。

「おや、キノシタ君じゃないか」
「お知り合いですか?」

目の前の客にモスコミュールを出した狩野が、青年を見て柔らかく微笑む。ぱちくりと目を瞬かせる透流を余所に、青年もまた狩野の顔を見て「こんばんは」と会釈をした。

「彼はキノシタ君、水瀬さんがこの店に来る前にはよく顔を出してくれてたんだ」
「そうなんですか」

狩野の言葉に、透流はそっと息を吐いた。どうやら、自分が昔に来た客の顔を忘れていた、ということではないらしい。

「キノシタといいます。えーと、水瀬さん、で良いのかな?」
「はい。水瀬透流と申します。ようこそいらっしゃいませ、キノシタ様」

うっすらと営業用の笑みを浮かべて頭を下げる。キノシタというらしい青年はやはり人好きする笑みを浮かべ、「よろしくね」と低く柔らかな声でそれに応えた。

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