暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 暗雲低迷

青年は軍靴らしい、硬そうな足音をさせて付いてくる。足音の重さはほぼ均一だ。刀を腰の左側にかけているのに、足音は左右で殆ど変わらない。
江戸時代の武士などは、右側の下駄ばかりがすり減るのが常だったという。刀を支えるため、体重をどうしても右側にかけてしまうからだろう。しかし青年の足音に、そのようなバランスの偏りは感じ取れない。

「獄卒さんは、きっとお強いんですねえ」

何となく、しみじみそんなことを言ってみる。

「腕には自信があるぞ」

青年の答えはやはりあっさりとしていた。彼は見たところ自己評価が特別高いわけでもないようだから、『自信がある』ということは本当に実力があるのに違いない。時緒も体育は苦手でも嫌いでもないが、しかし武術の類はてんで門外漢だ。喧嘩など言うに及ばずで、寧ろ喧嘩をした記憶というものが、そもそも無い。

「心強いです。イラズの森にはもう何度も入ってるけど、やっぱり危ないときはあるから」

苦笑気味に言った時緒に、彼が何を思ったのかは分からない。「そうか」と一言答えるだけだった。無口なひとだなあ、と、少しだけ気が緩む。……そういえば。

「そういえば、獄卒さんにお名前はあるんですか?」

『お名前は?』ではなく、『名前はありますか?』と尋ねたのは、時緒なりの気遣いだ。かの有名な安倍晴明が称したように、名前というのは『この世で一番短い呪』である。それが魂の帰属する先を示し、己が一体何であるかを規定する。
名を奪われるとは、魂を奪われること。だから彼のような仕事をしていれば、名を明かすことに制限があってもおかしくはないと思われた。或いは、獄卒という存在がもっと沢山あふれかえっているのなら、いちいち名前で管理されてはいないのかも知れない。

「斬島だ」

しかし予想に反し、青年はあっさりと己が名を明かす。次いで、その不思議な程澄んだ青い瞳で、じっと時緒の方を見返した。

「お前の名は?」
「私ですか」

まさか自分の名前なんぞに興味を持たれるとは思わなかった時緒は、少々面食らった。しかし、少なくとも4日は行動を共にする相手に、「おい」とか「お前」とか呼ばれ続けるのも些か複雑ではあるので、すぐ切り替えて同じように名を名乗る。

「時緒といいます。結城時緒。『結城』でも『時緒』でも、呼びやすい方でお願いします」
「分かった」

青年、改め斬島は一つうなずき、海の底のような瞳をゆるりと時緒の背後に向けた。時緒はその視線の後を追う。……暗い木々の塊が見えてきた。

「あれです。あれが『イラズの森』」

つい、と時緒が指さす先。
ギリギリ舗装されている道の片側に、まるでのし掛かるように、黒く塗りつぶされた木々が生い茂っている。日が完全に沈んでいるせいもあり、街灯にかろうじて照らされるだけの森は、猛獣が飛び出そうが妖怪が飛び出そうが不思議ではない空気が漂っている。
そして森自体の妖気と霊気も、黄昏時を経て増しているようだった。

「……凄まじいな」

少しだけ間を空けた後、押し殺した声で青年が呟いた。時緒もそれを受けて、一つ頷く。

「はい。もう此処自体がちょっとした異次元みたいになってます。比較的安全なところや綺麗なところはあるんですけど、そうじゃないところは何処も割かし危ないです。……ちょっと待ってくださいね」

ありふれたジーンズとTシャツ。それから黒いパーカーというボーイッシュな格好をし、長い髪をまとめ上げてキャスケット帽にしまった時緒は、徐に背負っていたザックをおろす。中を漁り出す。程なくして取り出されたのは、B5サイズよりはやや大きい、薄い小冊子のようなものである。暗がりでよく分からないが、表紙には異国の文字と、太陽と月、そして地球らしいもののやや抽象的な絵が描かれている。

「これは?」
「おじいちゃんに貰った霊具の地図です。私が直接見聞きした場所を自動で図示して、あと、私の知っている人の位置も大体教えてくれます。私が知らない場所にいると、もう分からないんですけどね。えーと……『イラズの森』」

表紙だけを開かれた冊子のページが、風もないのに次々に捲られていく。それはやがて癖でもついていたかのようにぴたりと止まり、やや日焼けしているらしい、白いページの見開きが現れる。更に見ていると、ページの隅の方からじわじわとインクが滲み出し、それは一枚の絵を描き出す。
そうして出来上がったのは、しかし酷く地図と呼ぶには少々曖昧な図面だった。全体の輪郭と、どうやら道らしい幾筋かの線が一部に描かれている。あとは大枠の中に、墨や朱色の印と文字が所々に書き添えられているだけ。
「ハ○ー・ポッ○ーの『忍○の地図』みたいでしょう」と時緒は笑ったが、斬島が真面目な顔で首を傾げたので思わず口を噤んでしまった。どうやら通じなかったらしい。

「基本的に此処は人が入っちゃ駄目な場所だから、ちゃんとした道は殆ど無いんです。表の大通りと繋がってる小道は、此処とかですね、幾つかあるんですけど、此処はよく中学生や高校生が利用してて、当然ですけど怪異も殆ど出ない。でも、要所要所に目印というか、ポイントみたいなものとか、あとは霊的磁場の強い箇所が幾つかあって……この赤いところがそうですね。そこを上手く回れば、期間内に1周できると思います」

ちなみに私達は此処にいます。
時緒が指さしたのは、森の輪郭らしいものの一端。そこには不思議なことに、白と青の光が交互に明滅している。

「白が私で、青が斬島さんです。今は一緒にいるからこう見えるけど、もし私達がはぐれたら当然分離します。私がこれを無くしさえしなければ合流できるので、もしそうなったら、危なくない限りはなるべく動かないでいてくれると助かります」
「分かった」
「有り難うございます。あとは」

時緒は深めに被った帽子の縁に手をやると、そこから自分の髪をぶちぶちと5、6本引き抜いた。適当に掴んで力任せに引っ張ってしまったらしく、「いたっ」という当たり前の感想が唇から零れた。
軽く涙目になりつつも、時緒が息を吹きかければ、それは夜の森には些か似つかわしくない、白い小鳥へとその姿を変える。

「式鬼か」
「はい。御札もあるんですけど、私にはこっちの方がすぐ出来て簡単なんです。……今日中に回れる場所に先に飛ばしておきます。何かあったらすぐ分かるから」

今は4月。桜も散ってしまった今頃は、虫たちが鳴き出すにはまだ随分と早い。そのせいか森は酷く静まりかえっており、余計に圧力を感じさせた。
息を吸って、吐く。まるで見計らったかのように、ざあっと風が吹いた。咄嗟に目を瞑り、帽子が飛ばないように片手で押さえる。

「ちょっと、嫌な感じですね」
「ああ」

生ぬるい風だった。まるで、獲物を食べたばかりの獣のそれにも似ていた。
森としては小さいそれが、けれど、それ自体がまるで餌を待ち構える貪欲なナニカのように、口を開けて待ち構えている。
そう、感じさせる。それほどまでに、イラズの森の業は深い。中は魑魅魍魎の巣であり、怨念の溜まり場で有り、霊力の噴き出す場所であり、行き場のない亡者達の掃き溜めだ。
しかし、彼らは怯えない。冥府の存在である青年は勿論、未だ魂を肉体に包んだ、生者の少女もまた、表情どころか鳥肌一つ立ててはいなかった。

「……行きましょう、斬島さん」

どちらかともなく1歩踏み出す。イラズの森は相変わらず、あぎとを開いたままだ。

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