暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 毋妄之福

時間をやや進め、2時間後。
時計の針が『約束の時間』を過ぎる。無情に数字の間を通り過ぎていく長針を見やった少年は、小さく小さく、隣のベッドで眠る母を起こさない声で呟いた。

「だから言ったのに」

これだからあのお人好しは。いや無鉄砲なだけか。心の中で深く溜息を吐いた少年もとい椎名裕介は、自分の指に留まった小さな蝶を見やる。

「……」

母を起こさないよう、細心の注意を払ってベッドから降りる。毛足の長い絨毯は、足音を消すことに関してとても優秀だった。抜き足差し足忍び足。スウィートの広い寝室の扉を開け、その向こう側に自分の身体を滑らせる。
スウィートだけあってこの部屋の寝室は2つある。裕介は自分の指から飛んだ蝶を周囲に纏わせながら、そのもう1つの寝室の扉を開けた。

「時緒姉を迎えに行ってくる。母ちゃんが起きたら上手く誤魔化しといて」
「承知しました」

ベッドに腰掛けていた『時緒姉』が、しかし彼女らしからぬ慇懃な口調で答えた。普段も決して乱暴な口調で喋る訳では無いが、彼女が常日頃裕介達にするような、柔らかくのんびりとしたそれとは違う。その癖、浮かべた笑顔だけは完璧に時緒をトレースしているものだから、裕介は少しばかり不気味さを感じてしまった。
まあ、そんなことはどうでも良いとして。
身につけていたバスローブを脱いで、パーティで着ていた礼服を纏う(バスローブで外を彷徨く趣味は無い)。念のため部屋のカードキーを2枚(自分と時緒の分だ)胸ポケットに滑らせ、地獄堂のオヤジに貰った霊具を鞄の整理がてら確認する。

「案内宜しく」

部屋を出て肩に止まっていた蝶に呟けば、それはひらりと飛び立った。ひらひら、ひらひらと桜の花びらのように舞いながら、けれど迷うこと無く廊下を真っ直ぐに飛んでいく。ホテルマンに見つかったら捕まってしまいそうなので、「あんま離れないでよ」と言い聞かせるのは忘れない。

――それにしても。

この蝶に、それからあの『時緒姉』が消えたり不具合を起こしていないことから考えて、恐らく時緒は『危険な状態』にはないのだろう。勿論この場合の『危険な状態』とはあくまで「動けないような怪我を負っている」「気を失って無防備な状態になっている」という類では無い、という意味だ。そして約束の2時間を越えても戻ってきていない以上、少なくとも「ある程度の自由は奪われている」と見て然るべきである。
つまりあの菫子とかいう女の霊が言っていた「心残りである遺品を取ってくる」というお遣いそれ自体が難航しているか、或いはまったく予想外のトラブルに見舞われている可能性が非常に高い。……もっとも、原因は前者である確率が極めて濃厚だが。

「まったく時緒姉は」

にこにこふわふわ。ゆるゆるのびのび。そんな擬音が大層良く似合うかの従姉殿は、おしとやかそうに見えて実は剛胆で打たれ強い。術師としては裕介達より10年近く先輩で――本人は半人前だと言って謙遜するものの――それなりに戦闘力は、ある。単純な攻撃力であれば火事場の集中力を発揮したてつしに及ばないものの、それでも強力な符術を使うし、結界も張れる。式鬼の使い方に到ってはもはや一流だ。
だから恐らく今の状況は、ピンチ、というよりはイレギュラーが発生している、という言葉が一番近い。裕介は静かにそこまで推測し、ひらひら飛ぶ蝶を追ってホテルを出た。夜遅くに1人で出かけようとする小学生をホテルマンが呼び止めたものの、適当な言い訳をすればすぐに引き下がってくれたので問題無かった。

「サービス業ってのも大変だよね」

なんてことを独りごちながら、飛んでいく蝶を早歩きで追いかける。普段からてつしや良次に付き合って(或いは自ら率先して)、昼でも夜でも街を駆け回っている裕介の足は速い。車の多い大通りを外れれば街灯の数も減って道は暗くなるが、五感の鋭い彼が歩みを鈍らせることはなかった。

「うっわ……」

そして程なくしてたどり着いた『目的地』を視界に捉えた裕介は、その端麗な顔を酷く顰める。徒人よりも鋭い五感は、その先の建物を包む異様な空気を鋭敏に感じ取っていた。
肩を竦めつつ、閉鎖された門ではなく、側のプラタナスを昇って塀を乗り越える。奇しくも時緒が2時間前に使ったのと同じ方法で障害物をクリアした裕介は、そのまま革靴を鳴らして先を飛ぶ蝶に従った。

「酷いな」

役目を終えた蝶が、やがて1筋の髪の毛へと戻り、小さな火を上げて燃え散る。それを見送った裕介は、10数メートル先まで迫った建物にある種の感嘆の声を漏らした。

「陰態(亜空間)形成してんじゃん……時緒姉が帰って来れない訳だ」

どす黒い空気がドーム状に渦巻いているようにも見える。それはまるで黒い煙が纏わり付いているかのようにも見えて、もはや建物の全貌がよく分からない。これをつくりだした『もの』は、きっと生きた人間にとって余程宜しくないものなのだろう。
近寄りたくない。というのが裕介の本音である。が、恐らく時緒はこの向こう側に違いない。とはいえ幾ら時緒でもこの陰態の壁を何の連絡も無しに突入したとは思えない。そしてあの菫子は、最初から最後まで時緒が目当てのようだった。
つまり『これ』は時緒を中に閉じ込めるためのものであり、裕介を初めとする邪魔者を阻むためのもの……と、考えるのが自然だろう。

――どうしたもんかな。

椎名裕介は、術師のタマゴである。彼は文殊菩薩の加護を得ており、『視ること』『聴くこと』に大変秀でている。彼の感知能力と洞察力は三人悪はおろか、かの一流霊能力者・藤門蒼龍も(不本意ながら)認めているところだ。そして三人悪でも図抜けて器用な彼は、ある程度であれば呪符を使った攻撃、或いは結界の形成も可能である。
しかし、基本的に彼は術師として独りでは行動しない。殆どはてつしや良次と協力して、互いの弱点を得意なことで補う形でやってきた。しかし今、当然ながらてつしも良次も此処にはいない。そして術師の先輩である時緒と、此処に入ってすぐに合流できる見込みは薄いだろう。

「うわ、何か凄いことになってるね」
「っ、?」

余り悩んでいる時間もないながら逡巡していた裕介は、存外近くで聞こえた声に思わず身を竦ませた。声そのものの大きさよりも、その気配が近づくのを少しも察知できなかったという事実に、裕介はその切れ長の目を大きく見開く。声のする方を見やれば、そこには割かし背の高い男性が数名、何やら雑談に興じているように見えた。

「凄いね。まだ比較的新しい感じの建物なのに……余程質の悪いのが棲み着いたかな」
「谷裂達はもう中か?」
「その筈だよ。俺が会ったのはもう3時間くらい前だしね」
「なあなあ! これどーやって入る!? この辺ぶっ壊せばいけっかな!?」
「いけると思うけど、まだ駄目だよ平腹。もう少し確認してみないと」

守りの薄いところがあるかも知れないしね。などと、勝手知ったる風にあれこれと話し合っている彼らは、国防色の軍服らしいものを揃いで身に纏っていた。3人いる内のひとりは膝ほどまで丈のある外套を纏っているが、デザインが同じなのは間違いない。そして別のひとりは軍服には些か似つかわしくないシャベルを肩にかけており、もうひとりは腰に日本刀を下げている。際だって姿勢の良いその獄卒の後ろ姿に、裕介は見覚えがあった。

――これは、うん。ツイてるかもね。

「斬島兄ちゃん!」

するりと唇から零れた呼び名に、淀んだ空気の向こう側を見据えていた顔がはたと此方を振り返る。途端、瞠られたその青い瞳に、裕介は「奇遇だね、こんなところで」と何でも無いように手を振って見せた。

[ back to index ]

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -