暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 臨機応変

すわ、こんなに早く戦闘開始か。ホラー映画だってもっと余韻があるんじゃないか。
……などと、緊迫した空気の中でそんな余所事を考えつつも、五鈷杵を構え直した時緒は臨戦態勢を取る。

「獣……?」

こんな都心には少々似つかわしくない気もするが、まあ異界の者や妖怪変化の類であれば何処にいようと不思議ではない。特に人肉の味を覚えた獣であれば、活きの良いそれを食らうために繁華街に潜むこともある。
獣が飛びかかってきた場所、つい数十秒前まで自分が立っていた場所をちらりと見やれば、そこには爪の痕らしい等間隔のひっかき傷が残っていた。

「宜しくない、ねえ」

獣は大きかった。レトリバーより二回りくらいは大きく見えるそれは薄汚れた黒っぽい毛並みで、眼が血走っている上に瞳まで赤い。涎の垂れた口元から覗く牙も、爪も鋭い。二本の後ろ足だけで立っているその様は、普通の四つ足動物の立ち姿とは明らかに異なる。

――猿……??

取り敢えず犬科っぽくはないなと考えつつ、五鈷杵を握る手に力を込めた。相手は獣。それもあれだけ大きいくせに俊敏。対してこちらはせいぜい山歩きやイラズの森の見回りが日課なだけの女子高生。機動力で勝負に出るわけには行かない。
多くの獣相手に目を逸らすのは危険だ。故に時緒は呪符と霊具を手にじりじり後退しながらも、眼だけは逸らさない。獣も荒い呼吸を繰り返しながら、獲物をねぶるような眼で時緒を見据えている。

「食べる気満々?」

暢気な声で尋ねてみるが、当然答えは返らない。もっとも、此処で首肯されても否定されても反応には困りそうではあるが。
困ったような笑みを崩さないまま、時緒はまた1歩、目の前の驚異から距離を取る。しかしそれにやや遅れて、猿に似たその獣が咆哮もなく再び時緒目掛けて飛びかかった。

「――禁っ!」

弾丸のように突っ込んできた獣の指先に、五鈷杵の尖端が触れる。刹那、大きく火花が散り、まともに霊壁に突っ込むこととなった獣は、しかしやはり悲鳴も上げること無く吹き飛ばされる。

「うん たき うん じゃく」

思いがけない反撃だったのだろう、軽い筈のダメージに大袈裟に怯える獣に刀印を向ける。唱えると同時に小さな稲妻――小さいなれどまごう事なき紫電が走り、それはケダモノの心臓を的確に射貫いて焼き焦がした。

「ゲッッ」

断末魔、とは呼べぬ呻き――喉の奥で舌が詰まったような音を漏らして頽れた猿もどき。ドサリと鈍い音を立てて倒れたその身体はもう動かず、呼吸も止まっている。それを遠目に確認してから、時緒はそっとその亡骸に近寄った。

「やっぱり猿、っぽい?」

調べる時間は長くない。亡骸は手の先、足の先から少しずつ砂のように崩れていく。死体特有の濁った眼はやはり血のような赤い色。同じ『赤』でも肋角の美しい猩々緋とま全くの別物だ。顔つきは猿と呼ぶべきか狒々というべきか、似てはいるものの動物園のそれのような暢気な印象など全く抱けない。

「ん?」

まじまじと獣の死に顔を見ていた(決して好んで見るような趣味はない)時緒は、しかしその半開きになった猿もどきの口元を覗いて眉を顰めた。

「舌がない……?」

片手で五鈷杵、それから灯となっている火の呪符を持ち、もう片方の手で何とか獣の口をこじ開ける。果たしてそこには、獣であればある筈の舌が存在して居なかった。歯の方は必要以上に存在しているというのに、である。
腥いのを我慢して覗き込むが、切り取られた痕跡はなかった。本当に最初から『ない』という感じだ。先程から獣らしい鳴き声のひとつも上げなかった理由が、此処でようやく分かる。舌が無いなら、鳴き声など上げられる筈もない。

――思ったより厄介そうな感じ?

舌が無いなら鳴き声を上げない、悲鳴も上げない。オマケに襲ってきたこの獣は、そのときに物音すら殆ど立てなかった。床を爪で引っ掻いた時には流石に嫌な音がしたものの、足音も殆どなかったくらいだ。染みついた生臭さがネックだろうが、風下に立たれれば多分分からないレベルだろう。裕介なら察知できるかも知れないが。

「んー……」

猿にしろ犬にしろ、大抵の獣は群れを成して行動する。特に猿は社会的動物だ。あれを本来の猿と同列に扱うのは少し間違っているかも知れないが、恐らくあの獣もまた集団で行動する類のものだろう。
そして時緒という外来の異物に飛びかかってきたということは、本当に群れているとすればかなり下っ端の方に位置するに違いない。……あの大きさで。

「どうしよっかなあ……もう」

出来ることなら結界を張って籠城したいが、それでは現状の打破どころか移動すらままならない。こういう場所は長時間いればいるだけ生身の人間には毒だ。術師とはいえ所詮半人前の時緒は、蒼龍のような精神修行は積んでいない。
それにこういう場所は外界と時間の流れが異なっていることも多い。裕介が異変に気づくだろうが、それで彼を巻き込むのは躊躇われた。彼の力は正直こういう場所でこそ特に有り難いのだが、年下の従兄弟を巻き込むのには抵抗がある。
……とまあ、それはさておきとして。

――いなくなってる?

獣が、ではない。獣に飛びかかられる直前に耳にした話し声の主達が、だ。更に言うなら、その声の合間合間に聞こえていた破壊音や物音もなくなっていた。この短い間に、彼らは何処かへ去ってしまったのだろう。
ちら、と見下ろした獣の身体は、ほぼ9割がもう塵に成ってしまっていた。

「謀られてる……?」

うーん、と口元に手をやって考えるが、推測の域を出ない。ただの偶然かも知れないが、時緒があの会話の主達と合流するのを妨害された、と考えるのも自然だ。どちらも同じくらいに可能性がある。というかそもそも、あの会話をしていた誰かさん達が、時緒にとって味方かどうかも分からない。
無意識に自らの人差し指で唇を撫でる。折角塗った口紅はまだ落ちていないらしく、常とは違う感触を伝えてきた。

――しょうがない、な。

じっとしていても何にもならない。此処は怪異や妖怪変化のための空間で、生身の人間が長時間居ればそれだけでどんな弊害があるかも分からない。幾ら術師のタマゴとはいえ、時緒はきちんとした修行もしたことがない女子高生だ。蒼龍のように精神を鍛え、磨き上げた人間ならまだしも、長時間居座っていれば頭に支障を来すかも知れない。
それに、

「裕介君……」

2時間経って戻って来なければ追いかける、と怖い顔で言っていた従弟殿を思い出す。巻き込むのも業腹であるし、出来るだけ早めに此処から脱出しなければならない。何より……情けない話ではあるが、あの子は怒らせると本当に怖い。
時緒はうん、とひとつ頷き、まずこのフロアを探索すべくゆっくりと歩き出した。

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