▼ 虎穴虎子
夜の学校というのは、どうしてこんなに雰囲気が違うのだろうなあ。
『立ち入り禁止』という張り紙の貼られた門の向こう側、聳えるように佇んでいる建物を見やりながら、時緒はそんなことを暢気に考えた。ひゅるりとやや冷たい風が吹いて、粟立った二の腕を摩ってしまう。
「……あの建物なんですよね?」
何というか、威圧感というか、少し近寄りがたいものを感じる。それもあまり良いものではない。時緒が建物から視線を外して問うと、そこにいた霊、もとい菫子が頷く。
『ええ、ここの2階。でも此処からは一番遠い場所にあるから、ちょっとかかるわね』
「成る程。……流石に開かないかあ」
試しに門に手をかけてスライドさせてみたが、それは数センチも動かぬうちにガチャン、と嫌な音を立てて止まった。まあ、鍵くらいはついているだろう。見るからに古い校舎だからか、すぐに破れそうな南京錠ではあるけれど。
『今使ってる校舎はこの裏手にあるのよ。こっちは私達が入学する随分前に閉鎖されて、それからずっとそのままなの。一応建て直しの計画はあるらしいけれど、今日までこのままね』
「ああ、だから守衛さんもいないんだあ」
成る程成る程、と頷く時緒。格子状になった門の向こうを覗き見ても、何処かに灯りが付いている様子は無い。時緒は自分の身長の倍近くある門を見上げ、そして周囲を見回した。
『どうしたの?』
校舎脇の植え込み、正しくはそこに植えられたプラタナスの木を視界に入れた時緒は、ぱっと顔を輝かせた。そして菫子の疑問には答えず、ぱたぱたとそちらへと走っていく。かと思えばスカートの広がった布地をきゅっと結んでたくし上げると、太い幹に手と足をかけ、ひょいひょいと登り初めてしまった。ヒールのある靴を履いているとは思えない程に身軽な動作だ。
『ちょ、何してるの!? はしたないわ!』
「大丈夫ですよ。誰も見てないし」
『そういう問題じゃない!』
そんなことを言われても、あの門よりは余程昇りやすかったのだから仕方ない。がみがみと途端に口うるさくなった霊に苦笑を返した時緒は、けれど彼女の制止を物ともせず、校舎をぐるりと囲う塀と同じ高さまで上がりきった。そして同じ高さになった塀に乗り移り、とん、と軽い音を立てて向こう側に飛び降りる。
『人は見た目に寄らないって、こういうことを言うのかしら』
「木登り得意なんですよー」
最近でこそ意外と言われるが、田舎町である上院町の子供の遊びは、大抵鷺川での水遊びや魚捕り、あるいはお椀山などでの鬼ごっこやかくれんぼ、虫取りなどの素朴なものばかりなのだ。8つの時に越してきた時緒も当然例外ではなく、昔からクラスの友人達と一緒に山の中を駆け回っていたものである。
『ドレス着て木登りする度胸も凄いけどね』
ちくりと刺すような科白を投げられる。時緒はまた苦笑するに留めた。
「じゃ、行きますか。あんまり裕介君待たせられないですしねえ」
制限時間も貰っちゃったし。くすくすと笑いながら、時緒はきちんと舗装された敷地を真っ直ぐ横切る。普段履いているローファーやスニーカーとはまったく違う、ヒール特有のカツカツという音が、夜の闇に次々響いては消えていった。
◇◆
「ねえ、ちょっとあんたどっか離れててよ」
『は? 何でよ』
「良いから早く。俺は時緒姉と2人で話したいの。あんたがいると邪魔」
自分の代わりに、おまじないに使った自分の『対価』を回収しろ。そんな割と下らない要求をしてきた霊に、裕介は邪険な態度も露わに顎をしゃくった。
『何を偉そうに。私はあんたにお願いしたわけじゃないのよ』
「煩い。つーか、見ず知らずの怨霊のくせにさっきから馴れ馴れしいね。そもそも、俺達にあんたの心残りを聞いてやる義務なんかないんだ。良いから黙って言う通りにしなよ、このまま俺達にホテルまでUターンされたくなきゃね」
にべもない裕介の言葉に、菫子はぶつくさと言いながらも渋々その姿を消した。霊的な意味でもそうでなくても、他の『三人悪』はおろか、(術師歴が彼らより長い)時緒すら凌ぐ五感を持つ裕介は、念入りに周囲を探った後にふうと嘆息する。
そして、その切れ長の、黒曜石をはめ込んだかのような双眸で、時緒をじっと見据えた。
「……念のため聞くけど、時緒姉あいつの頼み聞いてやる気だろ」
「うん」
即答である。さも当たり前のように頷いた従姉に、裕介ははぁあ、と深い溜息を吐いた。
「あのさ、時緒姉。分かってると思うけど」
「菫子さんのこと? まあ、何か隠してはいるんだろうねえ」
呆れた様子の裕介に対し、時緒はあくまでのほほんと返す。綺麗に巻かれた亜麻色の髪が、夜風にさらわれ揺れている。
「でも、心残りがあって、それがその『白いエンジェル様』? にあるのは本当だと思うよ。私がお手伝いして心残りが消えるなら、それが一番じゃないかなあ」
「それで自分が何か危険な目に遭うかもってことは度外視するわけ?」
「考えて無いわけじゃないよ。でも、そんなに懸念することでも無い。違うかな?」
「違うよ」
頭痛を堪えるように、裕介が自らの手で額とこめかみを押さえた。眉間に深々とした皺を寄せた彼は、苦しげですらある顔で首を横に振る。
「全然違う。俺もそうだし母ちゃんたちもそうだけど、見ず知らずの女子大生(の幽霊)なんかより、身内の時緒姉が大事に決まってる」
「……うん。有り難う」
「有り難うじゃないよ、まったく」
再度嘆息する裕介には悪いが、時緒に此処で引く気は欠片も無い。心配をかけるのは申し訳ないが、此処で観て見ぬふりをするのも寝覚めが悪い。何より、もし此処で時緒達が菫子の要求を断った場合、何処にどんな影響が出るのか想像が出来ない。ならば、此処で危ない橋を渡っておく方が、今後のためにも良い筈なのだ。
「ま、俺達も相当やらかしてるし、そこはお互い様かな」
「ふふふ、確かにそれはそうだねえ」
「笑ってる場合じゃ無いよ。まったく暢気なんだから。大体、俺達はいつも3人でやってたけど、時緒姉は毎回単独行動じゃないか」
俺達にはいつだって事後報告しかしないだろ。むっつりと裕介は顔を顰める。時緒は肩を竦め、苦い笑顔を見せた。
「2時間」
「え?」
「俺は一旦ホテルに戻るよ。菫子とかいうあいつは俺に関わらせたくないみたいだし、このままじゃ母ちゃんも心配するし。で、2時間経っても時緒姉が戻らなかったら迎えに行く」
「でも裕介君、それは……」
「勿論、菫子には言わないよ。言ったら多分邪魔してくるだろうから。あいつが何か企んでるのは間違いないんだし、そのくらい予防線張らなきゃ危なっかしいよ」
「……それもそうだね。うん、分かった」
時緒はぷちりと自分の髪を抜くと、軽く息を吹きかけた。それはたちまち時緒自身の姿を取り、時緒そのものの顔でにっこりと笑う。
「じゃあ裕介君、よろしくね」
「はいはい。時緒姉、本当に気をつけろよ」
「うん、有り難う」
裕介と『時緒』が、来た道を戻っていく。時緒は彼らが見えなくなるまでそれを見送ると、姿を消したままの菫子に「もういいですよ」と呼びかけた。
◇◆
「流石に大きいですねえ」
古いとは言え大学の校舎として建てられたそれは、近づけばますます大きく見えた。ついでに言うと、何となく感じていた威圧感はますます濃くなっており、春の夜に相応しくない、なんだかじっとりとした空気も感じた。
『どうかしたの?』
機嫌よさげな菫子の声。彼女は裕介が戻ってからやけに機嫌が良い。馬の合わない子供が居なくなった、というだけでは……多分、ない。
時緒は「いいえ」と答えつつ、先ほどと同じくぷちりと髪を1本抜いた。そしてなるべくさりげなく息を吹きかける。背後に立つ菫子に見えない角度で、それは小さな蝶に姿を変えた。ひらひらと危なっかしく飛ぶそれは、菫子の横をすり抜けて羽ばたいていく。
「……」
改めて校舎を見上げる。良くない空気は近づくにつれて濃くなっており、本当ならこのまま帰った方が良いのは間違いないと思われた。だがしかし、今更それは難しい。菫子の立つ背後から香る、あの甘い匂いを嗅ぎ取りながら考える。
あと、1歩。恐らくあと1歩進めば、恐らく。
――まあ、何とかなるかな。
持ってきておいた小さめのバッグ(パーティ会場に持ち込んでいたものとは違う、きちんと物が入るものだ)の中には、財布や学生証と一緒に、五鈷杵や霊符もきちんと入っている。それをなくさないようきちんと両手で持ち、時緒は少し大きめに1歩、足を踏み出す。
「ん……っ」
背中を氷の塊が滑り降りるような感覚。ぞわり、と全身に鳥肌が立ち、産毛が逆立つ。びくりと肩を竦めた時緒の耳に、菫子の甲高い笑い声が木霊した。