暗き森にも光は射すか | ナノ


▼ 以心伝心

嗅覚とは五感の中でも最も原始的であり、最も野性的であり、それ故に最も生き物の気分や精神に作用する感覚だ。
たとえどんなに素晴らしい食事を目にしていても、匂ってくるのが消毒薬の匂いであれば食欲は沸いてこないだろうし、たとえどんなに重厚なオーケストラの演奏を聴いていても、隣に座った観客からきつい汗の臭いが漂ってくればそれが気になって仕方なくなるだろう。
ドイツの著名な作家の名作に、ありとあらゆる――それこそ他者の好悪や信仰心まで操るような――香水を創り出す殺人鬼の話がある。あれはフィクションであるが故に多少はオーバーな表現も使っているだろうが、要するに、それだけ嗅覚とそこからもたらされる情報は、人間に多大な影響を及ぼすということだ。

「ふー……」

ぴかぴかに清掃されているとはいえ、あの会場よりトイレの方が呼吸がしやすいとはこれ如何に。
ぼんやりそんなことを考えつつ、濡れたハンカチで口元を拭く。流石に嘔吐まではしなかったが、先程まで燻っていた吐き気はそれでだいぶ収まっていた。口紅は後で塗り直そう。

「まだ顔色が戻らないわね。もしかして風邪か何かかしら」
「いえ、そういう類のではないと思います。大丈夫です」

匂いは凶器だ。香水も用法と用量は正しく使わなければとても良いものにはならない。
心配そうに顔を覗き込んでくる美麗に、力ない微笑みを返す。吐き気は引いたものの、また会場に戻るのは少し憂鬱だった。美麗もそれは同じなのだろう。美しい顔に渋面を浮かべ、「取り敢えず出ましょうか」と時緒の手を引いてトイレを出た。が、

「待たせてごめんなさいね、裕介」

途端に再び鼻を突いた甘い香りに、ようやく晴れつつあった時緒の顔色がさっと曇る。

「……あ。お帰り、2人とも」

珍しく母親達が戻ってきていたことに気づかなかったらしい裕介が、少し間を空けてこちらを振り返った。その裕介が先程まで目をやっていた方には、会場で煌太にしがみついていた女が、この甘い香りを漂わせて立っていた。

「……」
「あらやだ、時緒ちゃんどうしたの? 大丈夫?」

会場に比べてあの攻撃的ほどの濃厚さは無いものの、もはやあの短時間ですっかり苦手意識が刷り込まれてしまったらしい。時緒は鼻と口元を手で覆い、「大丈夫です……」とか細い声で答える。が、そこに説得力など存在しないに等しい。

「熱はないけど……そうね。時緒ちゃん、今日はもう会場に戻るの止めましょう。こんなに酷い顔色でわざわざ行くこと無いわ」

私ももううんざりしてたし、と小声で付け足し、茶目っ気たっぷりにウィンクする美麗。叔母の優しい気遣いに、時緒も情けない笑みを返した。

「すみません」

匂いの元(と言ってしまうのは少々失礼だが)は此処にいるものの、会場で再びあの青年の話を聞くのもちょっとした拷問だ。ああいう自慢話や悪口は、誰が聞いたって気分が良いものではないに決まっている。
ところで、珍しく素直に頷いた時緒が一切遠慮しなかったことで、美麗は再び深刻な顔になってしまった。そんなに体調が思わしくないのかと、つり目切れ長の大きな瞳が心配そうに姪っ子の様子を観察する。

「……そうだわ。明日は確か日曜だったわよね」
「え?」
「それがどうかした?」
「時緒ちゃんもこの調子だし、今日はここに部屋を取って泊まってしまいましょう。ぐっすり眠って、美味しい朝ご飯を食べて、気分をすっきりさせてから帰るの。ね?」

此処のレストラン、モーニングが評判良いのよね。そう言ってまた片眼を瞑った美麗に、しかしそこまでさせるのはと時緒は「でも……」と口を開く。しかし何か言い終わるより先に、裕介がそれを遮るように「良いんじゃない?」と母に賛同してしまった。

「時緒姉、このまま車乗ったらもっと気分悪くなるよ。それに、お互い枕が変わったら眠れない程デリケートでも無いじゃんか」
「それはそうだけど……」
「ていうか、俺もちょっと疲れちゃったよ。あの馬鹿親子、直接話さなくても横に立ってるだけで草臥れる」

ふん、と鼻を鳴らす秀麗な従弟の言葉に、時緒も今回ばかりは苦笑するしか無い。美麗が「ほんとよね」と溜息を吐いた。

「父親の方には何度か『遭』ったことがあるけど、変わらないわね。あれじゃ着られてるスーツが可哀想だわ」
「いや、そっちじゃなくて」
「冗談よ、冗談」

くすくす笑う美麗はどうあがいても綺麗だ。時緒はそんな叔母の顔を見上げ、「美麗さん」と小さな声をかける。

「あの、ちょっと外を歩いてきても良いですか? すぐに戻りますから」
「外に? 確かに外の空気を吸った方が気分は良くなるだろうけど……1人で?」
「俺が一緒に行くよ。何かあったらすぐ戻ってくるし」
「……分かったわ。じゃあ私は先に部屋を取っておくから、戻ったらフロントに部屋番号を聞いて頂戴。鍵も渡してくれるよう言付けておくわ」
「ん。わかった」
「有り難うございます、美麗さん」
「どういたしまして。それじゃあ、また後でね」

ひらり、と優雅に手を振って、美麗はフロントの方へと歩いて行った。その背を見送って十分に距離が離れたのを確認してから、時緒と裕介はそっと互いに視線を合わせる。

「出てからの方が良いよねえ」
「そうだね。誰が聞いてるかわかんないし」

ひそひそと小声で言い合いつつ、2人肩を並べてホテルの正面入り口を出る。入り口に立っていたガードマンが会釈をしてくれたので、2人も目礼を返した。
背後からは、やはりあの甘い香りがつかず離れずの距離で付いてくる。時緒は会場を出るときに受け取った鞄(財布も入らないようなパーティバッグではなく、普段持ち歩いているショルダーバッグだ)から白いボレロを取り出して羽織った。

「ふう」

外に出れば、春のほどよく涼しい風が吹き抜けていた。目の前は4車線の大通りで騒がしく空気が特別良いわけでもないが、それでも屋外というだけで随分マシだった。

『ねえ』

何度か深呼吸を繰り返していた時緒の背に、甘えるような女の声がかかる。

『そろそろ私の話を聞いてもらって良いわよね?』

エコーがかかったような、そして耳朶では無く脳を揺らす霊の声。振り返れば、時緒より4つか5つは年上らしい女性が、にまにまと笑っている。相変わらずの甘い香りだが、外に出たお陰で直接鼻にくるようなものではなくなっていた。

「……もうちょっと待って貰っていいですか?」
「此処、ホテルの真ん前だしね。変な目で見られるとめんどくさい」

いつまでも入り口の側から立ち去らない裕介と時緒を、ガードマンが不思議そうに見ているのが分かる。こちらが子供だから不審者扱いしないだけで、もしいい大人だったらそろそろ声をかけられているだろう。
『あら、それはごめんなさいね』と肩を竦める女はしかし、悪びれない。時緒がちらりと裕介を見やると、彼もまた時緒に視線をやり、深い溜息を吐いていた。

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